浅田真央の母親の職業や生い立ちは岐阜?死因は酒からの癌だった?

日本で「美しい人」を想像したときに私が目に浮かぶのは2017年4月にフィギュアスケートを引退をされた浅田真央さんです。彼女の世界中を圧倒した演技もさることながら、果敢に既存の評価と闘い、演技者、アスリートとして「美しさ」の為に戦った人でもありました。

 

自身の不利益を省みずに信じたものを突き通していく、そんな美しい生き様を国中に届けてくれたひとりの少女、彼女の輝きを引き出し育て上げた、誇らしき彼女のお母さん浅田匡子さんに今回はスポットを当てて調べていきます。浅田真央さんのキラキラはこれからもずっと日本の希望と勇気。

  1. ◆フィギュアスケートの妖精・浅田真央の死去した母親は「浅田匡子」その名前の読み方は?どんな人?写真画像
    1. ◆浅田真央選手の母親・浅田匡子さんのスーパーお母さんっぷりは毒親との非難もあった?写真画像
  2. ◆日本人嫌いのタラソワコーチとの関係を修復したのは、浅田真央の死去した母親・浅田匡子!タラソワコーチのコメントとは?写真画像
  3. ◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の生年月日、過去の生い立ち岐阜出身?その職業は?入船・金津園でホステスは嘘?写真画像
    1. ◆フィギュアスケート浅田真央の母親・浅田匡子さんの生年月日、過去の生い立ち、出産当時の年齢は?写真画像
  4. ◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の病気でお酒が原因の癌だった?死亡前に顔色が悪かったのは肝硬変での移植手術のため!?
    1. ◆浅田真央の母親・浅田匡子の病気・肝硬変とは?その原因は?移植手術も行っていた?写真画像
  5. ◆浅田真央の母親・浅田匡子さんの死亡が伝えられたカナダ・グランプリファイナルの試合、母の死因は癌?最期は?写真画像
    1. ◆母親・浅田匡子が他界し、葬儀後の浅田真央のコメント全文
    2. ◆浅田真央は母親・浅田匡子を亡くした同月の全日本選手権に「いつも通り」出場した 写真画像
  6. ◆母親・浅田匡子さんは死亡する半年前に『週刊女性』のロングインタビューを受けていた。その時の娘・浅田真央の一番辛かった時の気持ちを代弁するコメントとは?写真画像
    1. ◆母親・浅田匡子が死去する前に娘たちに伝えたかったこと①:母親から見た浅田真央の強み
    2. ◆母親・浅田匡子が死去する前に娘たちに伝えたかったこと②:姉・浅田舞と妹・浅田真央の悲しみ、一番つらかった事、望んでいる事について 写真画像
  7. ◆フィギュアスケーター・浅田真央が公式ブログにて引退発表。引退会見写真画像
  8. ◆母親・浅田匡子さんの死去から数年、浅田真央が40歳になった時になりたいもの、夢はお母さんとインタビューでのコメント写真画像

◆フィギュアスケートの妖精・浅田真央の死去した母親は「浅田匡子」その名前の読み方は?どんな人?写真画像

 

2017年4月に引退表明をされた、日本のフィギュアスケート女子シングルの選手だった浅田真央さん。彼女の美しくしなやかなスケーティング技術と、素直でいつも真っすぐな気持ちが伝わる演技力、試合後の会見に日本中が夢中になりました。引退会見に至るまで、とても美しい姿で居てくれた日本を代表する誇らしき美の女性です。

 

画像:浅田真央公式Instagram

 

浅田真央さんの氷上の妖精のような姿と、頑なに自身の最高の演技にこだわるストイックさを映像から見せてもらい、何度も私たちは勇気づけられたと思います。

 

 

そこには幼少期から浅田真央さんを支え続けた母親の「浅田匡子」さんの存在がありました。こちらの名前は「まさこ」、「きょうこ」、「ただこ」と色々な読み方があるようですが、実際の読み方は

 

「きょうこ」さんだということです。

 

本当に、毎日、舞と真央と3人一緒でしたね。

 

 

いつもいつも、お母さんである浅田匡子さんが子供たちのスケート練習の為に、自分の人生を合わせて支えてくれたと浅田真央さん自身も多く語っています。お母さん無くしては、浅田真央さんの演技も日本中をときめかせた美しい気持ちも、エネルギーもなかったわけですね。

 

浅田真央の母親は世界一のスーパーお母さん!

 

 

小さい頃の浅田真央さんと母親・浅田匡子さん

小さい頃の浅田真央さんと母親・浅田匡子さん

 

 

真央ちゃんとっても嬉しそうですね。

 

◆浅田真央選手の母親・浅田匡子さんのスーパーお母さんっぷりは毒親との非難もあった?写真画像

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんのスーパーお母さんぷりには数々のエピソードが残されています。そこには自分と同じ、「女」という運命に生まれてきた娘たちにいかに生き残れる能力を身に着けさせるかというような執念にすら思える熱意が感じられます。

これは、分野は違いますが、ピアニストであるフジコ・ヘミングさんにおいても同じような教育を母親に施された印象を感じます。

 

ピアニストのフジコ・ヘミングさんのお話はこちら↓

フジコヘミング年齢・経歴からの名言集!猫は?絵画もピアノ評価並みにスゴイ!
60歳を過ぎるまで無名のピアニストだったフジコ・ヘミングさんが「魂のピアニスト」と呼ばれるまでの長い経歴と彼女の困難を支えたものについて今回は情報を集めました。

 

 

浅田真央ちゃんは3歳のころから、体操やバレエ、ピアノなど9つもの習い事をしてきました。
むろん、それは浅田真央ちゃんの可能性を広げるための、浅田匡子さん流の子育てです。
最後まで残ったのがフィギュアだったそうです。

浅田匡子さんは
『3回転ジャンプが飛べないと今日はご飯抜きだからね!』
というような、スパルタ式で浅田真央ちゃんを特訓していました」(フィギュア関係者)

 

 

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くいしんぼ娘の真央ちゃんには一番効果がありそうな一言ですね(笑)

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは娘たちに対して温かく、そして大変厳しい母親だったという事でも有名です。それだけ、女の人生が過酷なものであることを母親の匡子さん自身が経験してきたからであり、そうした苦難から少しでも娘たちを守りたいという母親としての強い愛情、意志に他なりませんでした。

 


画像:https://toramomo.exblog.jp/15851271/

 

バンクーバーオリンピックの頃、お母さんは怖いですか、という質問にキム・ヨナは、いいえと答え、浅田真央は、はいと答えた。実際、子どもをぶちながら説教していたそうであるから、確かに怖いだろう。

引用元:https://ameblo.jp/springwaltz/entry-11103604827.html

 

 

母親が本気なら子供たちはついてくる。

 

2002年全日本フィギュアスケートでの浅田真央さん12歳

2002年全日本フィギュアスケートでの浅田真央さん12歳

画像:文春オンライン

 

 

ちゃんと飛べたよ!おかあさん!

 

とにかく、浅田家では娘のスケートの優先順位は学校よりも上。小学校の時から出席日数が足りないと学校に呼び出されるのはしょっちゅうで、そのたびに
『娘の人生がかかっているんです』
浅田匡子さんは頭を下げていた。

 

 

こうした一般常識とはかけ離れた価値観で浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは子供たちの能力を身に着けさせることを何よりも優先していきます。普通の家庭に居たら学校教育を後回しにすること自体、非常識に映るでしょうしその為に毒親と言われても仕方のない状況もあったようです。

 

 

しかし、一般常識や世間の言う通りにしたところで娘を守ってもらえるのか??

 

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの精神性の中にはこうした現実社会に対するリアリティーしか見ていない面がしばしば垣間見られます。

 

 

 

それは自身がその現実社会への期待を裏切られた過去があったからかもしれませんし、理由は分かりませんが、自分が欲しいものはたとえ女の子であっても自分で勝ち取っていくしかない、誰も与えれはくれないし、ぶら下がっていたって何も得ることはできないんだという現実と闘う姿勢を子供たちに幼少期から叩き込んできた様子が伺えます。

 

一方で、大切な娘である浅田真央さんの可能性を広げる為なら、どんな苦労もいとわないし、頭くらいいくらでも下げるよ!という意気込みの母親・浅田匡子さんです。

 

深夜に及ぶ練習に、浅田匡子さんはリンク近くのサウナで夜を明かし、数時間の睡眠で過ごしたこともあった」(スケート関係者)

 

 

その位、フィギュアスケートは母親が支えていかないと、選手としてはとても生き残っていけないシビヤな世界でもあるようです。こんな風に、浅田匡子さんは、母親として2人の娘のスケート人生を全力で応援してきました。

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さん

浅田真央さんの母親・浅田匡子さん

 

 

娘たちが自分の翼で飛べるように!

 

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子供のためとはいえ、なかなかできる事ではありません。

 

 

◆日本人嫌いのタラソワコーチとの関係を修復したのは、浅田真央の死去した母親・浅田匡子!タラソワコーチのコメントとは?写真画像

 

また、浅田真央さんのお母さんの浅田匡子さんにはこんなスゴイエピソードもありました!

 

バンクーバー五輪で師弟関係にあったタラソワコーチは、大の日本人嫌いだったんです。
ある騒動をきっかけに“2度と日本人を指導しない”
と激怒し、日本との関係は修復不可能とまで言われてました。

それを説き伏せたのが浅田匡子さんでした。自らロシアに飛び、直接交渉をしたんです。
浅田真央ちゃんに対する愛情というか、情熱というか、IOC関係者たちを驚かせたものです(スポーツライター)

 

 

これはすごい!!!

 

これがなければ、バンクーバー五輪の渾身の『鐘』の演技も存在しなかったことになります。また、タラソワコーチ浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは今では伝説となった演技である、ラフマニノフの「鐘」の衣装の色を決定する際に、共によく話し合ったという経緯もあったようです。

 


画像:産経新聞

 

フィギュアスケートでは当時も「青色」の衣装が勝ちやすい色、というのは有名な話でした。しかし、タラソワコーチ浅田匡子さんは「鐘」浅田真央さんに託した思いと、浅田真央さん自身のフィギュアスケーターとしての姿を話し合い、

 

絶対に衣裳の色は譲れない、真央の勝負色は赤と話し合って決めたというエピソードもあります。

 

浅田真央さんの演技指導を務めたタラソワコーチ

浅田真央さんの演技指導を務めたタラソワコーチ

 

 

「浅田真央と歩んだことは私の誇り」

 

あれだけ日本嫌いになったタラソワコーチにここまで言わせることができたのは、もちろん浅田真央さん自身のスケートへ注ぐ真っすぐでひたむきな気持ちがタラソワコーチに届いたことも理由ではありますが、浅田真央さんのお母さんである浅田匡子さんが懸命に足を運んでタラソワコーチに思いを届けてくれたからこそ実現したことだったのですね。

 

 

ロシア人にとっての「鐘」という存在(曲のことではない)は、我々外国人が想像するよりもはるかに深く民族に根付いた歴史の一部である。まさにロシアそのものといえる壮大なテーマを浅田真央ちゃんに与えているのだ。

 

 

タラソワコーチもたくさんの愛情を浅田真央さんに注いでくれました。

 

浅田真央さんとタラソワコーチの素敵な関係

浅田真央さんとタラソワコーチの素敵な関係

 

 

タラソワコーチはロシアにとって特別な「鐘」浅田真央さんに託し、人々に危険が迫っていることを知らせる「警鐘」をモチーフにしたこの曲で、浅田真央さんにスケーターとして力を持っても、保身に走るのではなく、闘い続けること、乗り越える事を課題にくれました。
 
 
 
「鐘」は聴く人に緊張、不安、焦りのような感情を引き起こす、つまりは選手にとっても精神的に乗り越えなければ、とてもじゃないけれど飛ぶことができない大きな課題のある曲だったとも言われ、この曲の選曲については賛否両論がありました。
 
浅田真央さんとタラソワコーチの精神的結びつきは強かった

浅田真央さんとタラソワコーチの精神的結びつきは強かった

 

しかし、日本人の生き方として誇らしい、そんな「美の境地」を私たちに見せてくれたような闘いに見えました。
 

浅田真央さんは衣装が青でなければ勝てないというジンクスも捨てて、自分の力で勝ち取る事へ向かう、心の強さと清々しさをくれたのはタラソワコーチ母親の匡子さんなのではないかと思います。

 

「誰にでも飛べる曲ではない」タラソワコーチ自身が言っていたように、とても大きなチャレンジを与えてくれる曲でした。浅田真央さんなら出来るという信念で与えてくれた曲です。

 
日本中が涙した浅田真央さんの試合後のコメント

日本中が涙した浅田真央さんの試合後のコメント

 

困難が大きかっただけに、『鐘』が私たちに届けてくれた感動もとても大きかったですね。

 

 

 

いつも、浅田真央ちゃんの会見はなんて素敵なんだろうと思っていたのですが、こうして支えてくれている周りの人たちへ、自分の振る舞いによって恥をかかせることがないように、選手としてあるべき姿をいつも自身に科していたのかなと思います。

 

 

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愛されることに恵まれている人生だなあと羨ましく思いますね。

 

 

◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の生年月日、過去の生い立ち岐阜出身?その職業は?入船・金津園でホステスは嘘?写真画像

 

浅田真央さんのお母さん浅田匡子さんの過去については色々な話が実は出てきます。ですが憶測であるものも多く、これだけすばらしい娘を世界に送り出してきた方です。

 

2012年NHK杯 浅田真央さん

2012年NHK杯 浅田真央さん

画像:文春オンライン

 

たとえ一般的な職業ではなかったとしても、娘である浅田真央ちゃんが背負っている神々しいまでの空気こそ、母親である浅田匡子さんの本質的なものと一致しているのではないかと思います。

 

バレエを習わせたのは、バレエダンサーになりたかった母の浅田匡子さんが、叶えられなかった自らの夢を、舞、真央という二人の娘に託したことが理由です。

 

 

とても若い時に苦労したから、娘にはそんな思いはさせたくない。

 

そうした気持ちがあったという、浅田真央さんのお母さんの生い立ちを見ていきたいと思います。

 

 

◆フィギュアスケート浅田真央の母親・浅田匡子さんの生年月日、過去の生い立ち、出産当時の年齢は?写真画像

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの生年月日は1963年1月2日生まれという事で、浅田真央さんが1990年9月25日生まれという事ですから27歳で真央さんを出産しています。

 

浅田真央さんの試合を見守る母親の浅田匡子さん

浅田真央さんの試合を見守る母親の浅田匡子さん

 

 

浅田匡子さんは若い時にご両親を亡くしていました。

 

 

浅田匡子の生家の家庭は決して裕福とはいえなかった。そんな両親の元育てられた浅田匡子は父親、母親、姉との4人ぐらしをしていたのだが、12歳の時に父がなくなってしまい、その8年後、浅田匡子が二十歳の時に母までもが他界していまった。

お金もなく、生活していくために、浅田匡子は夜の世界へ足を踏み入れたホステス(水商売)をやり、必至に稼ぐ毎日。

 

 

若い頃、とても苦労されたようですね。

出身地がどこであるかは分かっていません。

 

笑顔が似ている浅田真央さんの母親の浅田匡子さん

笑顔が似ている浅田真央さんの母親の浅田匡子さん

 

 

浅田真央さんの母親である浅田匡子さんの話題では岐阜県の金津園という地域にある「入船」で働いていたのではないかという噂があります。源氏名が「留美子」だったという具体的な話も確かにあります。

 

ただ、そんな情報の正誤については結局不明確ですし、今それを追及したところで浅田真央さんの母親が素晴らしいお母さんだったことに変わりはないので、割愛したいと思います。

 

娘たちをプロのフィギュアスケーターに育てた母親・浅田匡子さん

娘たちをプロのフィギュアスケーターに育てた母親・浅田匡子さん

 

 

ある時期から浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの顔が浅黒くなってきたという話が出るようになりました。あまりの変化に体調がおかしいのではないかと噂になっていたといいます。

 

◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の病気でお酒が原因の癌だった?死亡前に顔色が悪かったのは肝硬変での移植手術のため!?

 

浅田真央さんが小学生のころ、母親の浅田匡子さんの入院と大会のスケジュールが重なったことがあったといいますから、病気を患われてからの闘病に費やした期間は我々が認識していたよりも長かったようですね。

後から分かった話ではありますが、2011年の段階で20年ほど前から肝臓を患っていたという情報があったので、その話が現実だとすると、浅田真央さんを出産した直後から異変があったという事になります。

 

長く病気を患われていたと言われる母親・浅田匡子さん

長く病気を患われていたと言われる母親・浅田匡子さん

 

 

おそらく母親の浅田匡子さんは、浅田真央さんが小学生の時点で肝臓の病気の進行を自覚していた。

 

こうした背景があったことで、娘に対する教育についてもより厳しいものとなったことが考えられる気がします。「できることは今日しかできないかもしれない」そうした切迫感を抱えながら娘たちに力を付けさせようと必死だったことを感じずにはいられません。

 

 

浅田家の知人はこう振り返る。

『大会を休んで一緒に病院に行く!』と訴えた浅田真央ちゃんに、浅田匡子さんはものすごい形相で

『病院には来ちゃダメ!ママがいちばん嬉しいことは、真央が大会で優勝することなの!』と怒ったそうです。

最後も“病気のママに笑顔を取り戻してほしいと必死に掴み取ったグランプリ・ファイナル出場だったのだ。

 

 

だいすきなママに笑顔を。

 

 

母親のそうした気持ちを一番近くで認識していた娘の浅田真央さんも、母親・匡子さんを元気づけたくて必至でその気持ちに応えようと闘い続けてきました。

 

 

◆浅田真央の母親・浅田匡子の病気・肝硬変とは?その原因は?移植手術も行っていた?写真画像

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの死因は「肝硬変」と報道されています。

 


画像:https://www.sakeganomitai.com/entry/2017/11/07/145326

 

 

肝硬変とは

B型やC型肝炎ウイルス感染、アルコール、非アルコール性脂肪性肝炎などによって肝臓に傷が生じますが、その傷を修復するときにできる「線維(コラーゲン)」というタンパク質が増加して肝臓全体に拡がった状態のことです。

肉眼的には肝臓全体がごつごつして岩のように硬くなり、大きさも小さくなって きます。顕微鏡でみると肝臓の細胞が線維によって周囲を取り囲まれている様子が観察できます。そこで肝硬変になると、肝臓が硬いために起こる腹水や食道静 脈瘤と、肝臓機能が低下するために起こる肝性脳症や黄疸が問題となります。

引用元:肝炎情報センター

 

C型肝硬変

C型肝硬変

画像:徳島大学臓器病態外科

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんがかかっていたとされる肝硬変の原因としては、ウィルス感染やアルコールによるもの、そうでないものもあるようです。顔色が急激に変化したというのも肝硬変が原因で肝機能が低下したことによる黄疸だったようです。

 

そして、医者が絶対なりたくない病気の一つに肝硬変を挙げるそうで、それほどの苦しみを伴う病気であることも分かっています。肝硬変は激痛に襲われ、最終段階にはその猛烈な痛みによって、ベットに縛り付けなければならなくなる程の状態になるといいます。

 

 

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それだけ苦しい症状を抱えながら、いつも真央ちゃんに寄り添っていたと思うと胸が痛みますね。

 

 

肝臓を移植すれば浅田匡子さんは延命できたかもしれないという話があり、実際に移植手術も行ったという情報があります。2011年の段階では浅田真央さんの母親の匡子さんは移植手術を受けなくてはならないほど悪化していたと言われています。

 

2006年の浅田姉妹の写真

2006年の浅田姉妹の写真

画像:文春オンライン

 

 

適合状況も家族全員調べ、最も適合するのが浅田真央さんの姉である浅田舞さんだったといいます。

 

HLA(ヒト白血球型抗原)の相性がいい舞ちゃんからの移植をすすめ、彼女も“ママが長生きできるなら”と了承したんです。

引用元:exciteニュース

 

 

浅田舞さんもお母さん・浅田匡子さんの回復の為なら協力したいと言っていたそうなのですが、手術直前になって、「大事な娘の身体にメスはいれられない」と母親・匡子さん自身が強く拒否し、手術の危険度が上がることを承知で、夫・浅田敏治さんから肝臓を移植したそうです。

 

 


画像:http://idolsukiotoko02.blog27.fc2.com/blog-entry-2..

 

浅田舞さんからの移植を直前で母親・浅田匡子さん自身が拒絶。

 

 

たくさん苦労をし、自身を犠牲にし、子供のために生きてきたお母さんが本当に守りたいものは宝物である娘たちなんだということを強く思っていたからかもしれません。

 

だから、自分自身を必ず大事にしてほしい。

 

という浅田匡子さんの母心からだったかもしれません。しかし、遺された家族としてはあの時にやはり最善の策を施していればという無念につながったことは言うまでもありません。

 

 

同じような親子のお話ががしょこたんこと中川翔子さんとお父さんのお話の中でもありました↓

中川翔子(しょこたん)父親・中川勝彦とCM共演!曲熱唱!写真画像と父娘愛に涙。
中川翔子さんは幼少期からアニメを愛し続け、なんと言われようと大事にしてきたのには大好きな父親との間にあった父と娘の複雑な愛情関係と、父親の死、娘から見た父親像、彼をなぞる切ない心の旅があったようです。影と光を共存させキラキラ輝き続ける中川翔子さんの魅力に迫りました。

 

 

 

 

もともと適合が弱いとされていた

浅田真央さんの父親の肝臓を移植するも、やはり適合せず。

 

 

最終的にリスクの高い父の肝臓を移植する事になりましたが、適合しなかったようで

急変後に亡くなってしまいました。大病を患いながらも我が子を支えた母。母と浅田真央の涙ぐましい努力があったからこそ数々のタイトルを獲得できたのでしょう。

 

 

これまでずっと一緒に戦ってきてくれたお母さん・浅田匡子さんを浅田真央さんは失ってしまいました。

 

浅田真央さんの幼少期の指導を務めた山田満知子元コーチ

浅田真央さんの幼少期の指導を務めた山田満知子元コーチ

画像:テレビニュース速報

 

 

浅田家と幼少時代から付き合いのあった山田満知子元コーチは母親・浅田匡子さんの訃報に…

 

山田満知子元コーチ: 言葉が見つからない。特に親子の絆が強かったから真央のことが心配。ママは頑張り屋さんだった。真央の将来のためにやりたかったことがあったはず。真央はまだ21歳。スケートだけでなく今後の人生にお母さんが必要だったのに…。

 

 

浅田真央さんのお母さんが母親を失ったのが20歳浅田真央さんが浅田匡子さんを失ったのが21歳ということで、とても若くして母親を失ってしまう運命をなぞることになりました。

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの訃報を伝えるニュース

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの訃報を伝えるニュース

画像:テレビニュース速報

 

 

2011年12月

浅田真央さん21歳の時に母親の浅田匡子さん死去。

 

 

浅田真央が小学生のとき、日本人初のフィギュア五輪メダリスト伊藤みどり(40才)を育てた名コーチ、山田満知子さん(66才)の存在を知った。すぐに直接訪ね、頭を下げた。

「明日から一日も休まず練習させますから、真央を教えてください」

 

 

ここでも、浅田真央さんにスケーターとしての種を蒔いてくれたのはお母さんの浅田匡子さんでした。お母さんは娘の為に何度も何度も頭を下げてお願いをしたり、足を運んだり、出来ることを精一杯やって寄り添ってきてくれたのですね。

 

 

 

 

浅田匡子さんは当時についてかつてこう語っていました。

 

子供たちと約束したことがあるんです。

それは、やると決めたことは投げ出さないで最後までやり遂げるということ。

 

 

約束。

 

 

2013年福岡グランプリファイナルの浅田真央さん

2013年福岡グランプリファイナルの浅田真央さん 優勝

 

早朝6時から深夜1時半までというように、浅田姉妹の練習は20時間近くに及ぶ事もあったといいます。

 

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真央ちゃんはずっとお母さんに言われたことを大事に守っていましたね。

 

 

◆浅田真央の母親・浅田匡子さんの死亡が伝えられたカナダ・グランプリファイナルの試合、母の死因は癌?最期は?写真画像

 

2011年12月9日早朝に浅田真央さんは母親の浅田匡子さんを亡くします。母親の体調の急変について連絡を受けたのはカナダでのグランプリファイナルの大会中でしたが、浅田真央さんは母親の急変を聞き、大会を欠場しての帰国だったといいます。

 

 

匡子さんも試合前、自身の体調が思わしくないのは分かっていながらも、試合前の真央さんに弱っているところを見せたくないといつも通り見送っていたのでした。

 

母に会う為に途中で切り上げ急いで母の元に急いだものの結局浅田真央さんは最期には間に合わなかったそうです。母親の浅田匡子さんは名古屋市内の病院で死去されました。

 

海外の試合も浅田真央さんに同行する母親の浅田匡子さん

海外の試合も浅田真央さんに同行する母親の浅田匡子さん

画像:テレビニュース速報

 

カナダのケベックで行われるグランプリファイナルを欠場

 

 

浅田真央選手は6日にカナダ入りし、7日の公式練習ではトリプルアクセルも着氷しました。

3年ぶりのファイナル制覇へ好調ぶりを見せていましたが、ケベックの現地時間8日早朝に容体が急変したという連絡を受け、即座に欠場を決断しました。

現地のチームリーダーである小林芳子・日本スケート連盟フィギュア強化副部長によれば、

浅田真央選手は「回復したという連絡があれば出たいと思っていたけど、かなわなかった。ご迷惑をお掛けします」と、気丈に振る舞っていたといいます。

 

 

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんは48歳だったそうです。

 

 

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝える新聞

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝える新聞

 

 

浅田真央選手不在のカナダ大会では…

 

悲しみとともに、ファイナルの幕が開いた。男女SPが行われ、浅田真央の母・浅田匡子(きょうこ)さん(享年48)を悼んで、日本選手はジャージーに喪章を付けて臨んだ。外国の選手たちも一様に哀悼の意を表した。

 

 

世界中のトップスケーターたちがツイッターを通して次々に浅田真央選手に哀悼の言葉を伝えていました。

 


画像:デイリー

 

We are all with you and my heart with you!

-twitter(@EvgeniPlushenko)

 

 

浅田真央さんに対してお母さんの浅田匡子さんは

 

『ソチ五輪で金メダルを取るまで泣いちゃダメ』

 

という言葉を残したそうです。

 

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝えるニュース番組

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝えるニュース番組

画像:テレビニュース速報

 

 

 浅田匡子さんは自宅療養をしながら治療を続けてきた。体調が悪いと入院し、回復すると退院の繰り返しだったという。

4月末から5月にかけての世界選手権で、浅田は通常よりも数キロ、体重が落ちていた。決して、その理由を明かさなかったが、激やせも母の病気が要因だったという。

所属事務所によると、夏以降は状態がさらに悪化していた。

 

 

ずっと、浅田真央さんもお母さん・浅田匡子さんの体調を気にしながらの練習だったのですね。21歳の心で世界で戦う気持ちと無二の母親を心配する気持ちを常に持ち続けていたかと思うとどれだけの不安と戦ってきていたのか胸が痛みます。

 

 

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝える報道番組

浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの訃報を伝える報道番組

画像:テレビニュース速報

 

 

前年は銀メダルを母親浅田匡子さんに見せることができた。

 

前年のバンクーバー冬季五輪では、浅田真央選手は同い年のキム・ヨナ(韓国)に敗れはしたものの銀メダルを獲得しました。

そのとき、「メダルを誰に見せたいか」と問われると、「お母さんです」と即答していました。超一流のアスリートとしての過酷な選手生活の中で、母親である浅田匡子さんが一番の理解者だったのです。

 

 

一番メダルを見せたいのはお母さん。

 

 

2013年福岡 グランプリファイナルでの浅田真央さん

2013年福岡 グランプリファイナルでの浅田真央さん

画像:文春オンライン

 

 

浅田真央さん自身は周りには伝えていなかったものの、母親の浅田匡子さんの病状は以前からかなり深刻で、もう長くないことは分かっていたそうです。

 

 

浅田真央:このオフは悲しいことがあって、よく泣きました

 
 


画像:論座

 

 
誰もがうらやむ華々しい活躍と世界的なフィギュアスケーターとしての地位を獲得し、日本中の誰からも愛される選手である浅田真央さんにしても、叶わない夢、本当に大切な人を失うという苦悩を一方では経験していたのでした。
 
 
 

◆母親・浅田匡子が他界し、葬儀後の浅田真央のコメント全文

 

最愛の母親・浅田匡子さんが他界された後、その葬儀は名古屋市内で近親者のみで無事行われたそうで、浅田真央さんは間もなくこのようなコメントを発表しています。

 


画像:朝日新聞

 

応援してくださっている皆さん、スケート関係、及びマスコミの皆さんへ

この度は、大変ご心配をおかけするとともに、試合直前の欠場となり、大変ご迷惑をおかけしました。

最初ケベックで連絡を受けたときは、今すぐに帰りたい、という気持ちと、試合を欠場しても良いのか?という思いで複雑でしたが、すぐに帰国して良かったと思っています。

帰る飛行機の中では、色々な事を考えましたが、きっとお母さんは自分が帰ってくるのを待っていてくれると信じて、ずっと祈っていました。

しかし、成田空港に到着してすぐにメールを確認すると、「ママは頑張れなかった」というお父さんからのメールを見て、涙が止まりませんでした。

それでも、もしかしたら、と思い、名古屋の病院に駆けつけ、何度も「真央だよ!」と叫びましたが、やすらかな顔をしたお母さんは、やはり目を開くことはありませんでした。

でも、充分頑張ったし、もう、痛い思いをしないで済むんだ、と思うと、少しホッとする部分もあります。

この半年、容態が良くない時が時々あり、名古屋を離れる時は、いつもこれが最期かも、と思いながら出発していました。

まだ、信じられない気もしますが、お母さんに今までより近くで見守られている気がします。

私たち姉妹にたくさんの愛を注いでくれたお母さんに、何度「ありがとう」と言っても足りません。

生前、家族で約束した通り、今後も自分の夢に向かって、やるべき事をしっかりやることが、お母さんも喜んでくれる事だと思い、今まで通り練習に励みたいと思います。

皆さん、今後とも応援よろしくお願いします。

浅田真央

引用元:https://ameblo.jp/white-mimi/entry-11105116267.html
 
 
 
21歳のまだあどけない少女が描いた文章です。とても立派ですよね。また、いつもはあまり私生活での苦悩を見せない浅田真央さんですが、当時の生の感情をそのまま文章に残しています。
 
 
 
 
 
試合をするかどうか一瞬悩んだ時にも、自分の感情ではなく、お母さんならどちらが喜ぶだろうという事を必死で考えていた姿がよく伝わります。自分の事よりも、お母さんを喜ばせたい気持ちでこれまでもずっと走り続けてきた浅田真央さんが良く分かる気がします。
 
 
 

◆浅田真央は母親・浅田匡子を亡くした同月の全日本選手権に「いつも通り」出場した 写真画像

 

母親・浅田匡子さんを失った後、同じ月にあった全日本選手権では「いつも通り」の演技をする浅田真央さんがいました。欠場を予想していたために、周りもとても心配しながらの大会幕開けとなりました。

 


画像:youtube

 

おばあちゃんが葬儀の日に言った「全日本選手権に出るんだろう」の言葉で吹っ切れ、大会に出場するのです。

引用元:exciteニュース

 

 

母親の浅田匡子さんを亡くして暫くの浅田真央さんは母親の死に目に会えなかったことを本当に悔いており、スケートをせずに看病をしていればよかったと悩むことも多かったそうです。しかし、2週間後の全日本選手権に「いつも通り」出場できたのには浅田真央さんのおばあちゃんの言葉があったようです。

 

 

幼少期の浅田姉妹と母親の浅田匡子さん

幼少期の浅田姉妹と母親の浅田匡子さん

 

 

ママがいちばん嬉しいことは、真央が大会で優勝することなの

やると決めたことは投げ出さないで最後までやり遂げる

 

というお母さんの匡子さんが言っていた言葉と、

 

それに、一番メダルを見せたいのはお母さんだから

 

 

 

天国のお母さんのために私は滑ろう。

 

そんな風に全日本選手権での浅田真央さんの姿は映りました。それを見ていた日本中の人々が浅田真央さんの願いと祈りから、たくさんの力をもらっていました。その時、人々が力を分けてあげたいと思っていた浅田真央さんの方が、逆に我々を大きく勇気づけていました。

 

 

◆母親・浅田匡子さんは死亡する半年前に『週刊女性』のロングインタビューを受けていた。その時の娘・浅田真央の一番辛かった時の気持ちを代弁するコメントとは?写真画像

 

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは2011年12月に亡くなる半年前に雑誌『週刊女性』のロングインタビューに応えていました。

 

 

後から考えると、体調がすぐれない中で約60分にも及ぶインタビューに応えたこと自体、浅田匡子さんが必ず娘たちに残しておきたい気持ちがここにあったのだと思えます。

 

 

◆母親・浅田匡子が死去する前に娘たちに伝えたかったこと①:母親から見た浅田真央の強み

 

母親・浅田匡子さんが亡くなる半年前に見ていたものは自分病気の問題よりもソチ五輪に向けた娘・浅田真央さんの調整に対する課題でした。


画像:http://www.akb48matomemory.com/archives/1035590166…

 

 

これまでずっとストイックに戦い続けてきた浅田真央さんがソチ五輪で成果を出すためには時間があるうちに思い切った精神的なリフレッシュと調整が必要であることをこれまでの経験から語っていました。

 

真央は心も体も金属疲労のような状態。ストイックにやってきて、それがいっぱいいっぱいになっちゃう時期にきているのかも。措置まで時間があるのでどこかで思い切ってリフレッシュしないと、うまくいかなくなっちゃうわ。

引用元:exciteニュース

 

 

そして、同時に、娘・浅田真央さんの「強み」についても改めて強調します。

 


画像:http://momolunafever.blog64.fc2.com/page-291.html

 

12歳からケガもあったりしたけど、ずーっと試合に出続けていたのが真央の強み

引用元:exciteニュース

 

最も力を付けるのはいつも「苦しい実践」であり、その最たるものとしてある「試合」を投げ出さずにここまで全力で闘いを続けてきたことへの価値を改めて母親として評価していました。辛い戦いを小さなころから強いられてきた浅田真央さんの苦しみを一番よく分かっていたのも他でもない母親の浅田匡子さんだったのです。

 

よくここまで頑張ってきたね。

 


画像:http://noh-gakudo.jp/asadamao-mother-oitachi/

 

なかなか近くにいる親子であると、こうしたことは普段伝えられないことだったのかもしれません。常にいつも次の目標が立ちはだかり、一時の勝利に陶酔している時間はなかった過去を振り返り、浅田匡子さんは母親として、いつも十分すぎるほど頑張ってきた娘の闘いを誇りに思っていることを必ず伝えておきたいという気持ちがあったのかもしれません。

 

 

◆母親・浅田匡子が死去する前に娘たちに伝えたかったこと②:姉・浅田舞と妹・浅田真央の悲しみ、一番つらかった事、望んでいる事について 写真画像

 

2人の娘、姉の浅田舞さん、妹の浅田真央さんを両方とも日本を代表するフィギュアスケーターに育て上げた母親・浅田匡子さんでしたが、2人とも実力が育ったことでの苦悩も早い段階で経験されていました。

 


画像:http://special-review.net/未分類/asadamai-kako/

 

3人4脚で歩んできたフィギュアスケートが揺らいだ時代もあった

 

母親の浅田匡子さんにとって、最も辛かったのは一緒に戦ってきた姉妹が対決することになったジュニア時代の事だと語っていました。また、母親の匡子さんだけでなく、その経験は姉の浅田舞さんにとっても、妹の浅田真央さんにとっても最も辛い経験となり、その後しばらく暗い影をつくったようです。

 

一番つらかったことは2004年 全日本ジュニア

 

 


画像:スポニチ

 

1位が妹・浅田真央、2位が姉・浅田舞

 

そして、浅田真央さんにとって、初優勝の大会でもありました。

 

全日本ジュニアで真央が1位でが2位になって、お姉ちゃんは世界ジュニアに行けなくなったの。舞が16歳だったんだけど、私はその時のことを一生、忘れられないわ。
舞は「もうスケートしたくない」って言ったのよ。

引用元:exciteニュース

 

 

前年にあたる第72回全日本ジュニア選手権大会は2003年11月に京都アクアリーナで行われた大会です。その時の浅田真央さんの写真がこちら。

 


画像:http://momolunafever.blog64.fc2.com/blog-entry-648.html?sp

 

 

とべた!

自分でもジャンプが決まったことへの驚きと嬉しさで夢中な様子が伝わってきます。この頃の浅田真央さんは試合に勝つ喜びよりも、自分に新しい事ができた!ちゃんと練習したジャンプが試合で決められた!という達成感でいっぱいです。

 

そんなただただ楽しい!という浅田真央さんの様子も母親の浅田匡子さんにはよくわかっていたようでした。

 

全日本ジュニアで浅田真央さんが優勝し、浅田舞さんから世界ジュニアへ行けなくなったことで「もうスケートをしたくない」と言われた時のことを母親の匡子さんはこのように語っていました。

 


画像:https://lifepages.jp/maoletitgo-4252

それくらい傷ついて・・・。真央も私にとっては大切な娘だし、その時苦しんだのことを、私は誇りに思うわ。そして真央も自分のせいでお姉ちゃんがいけなかったことに傷ついたのよ。ただ、真央と一緒に世界ジュニアに行きたいだけだったのよ。

引用元:exciteニュース

 

 

ただ、お母さんとお姉ちゃんと一緒に居たかっただけだったのに

 

 


画像:http://momolunafever.blog64.fc2.com/blog-entry-648.html?sp

 

 

そこから、仲が良かった姉妹の関係もぎくしゃくしたものとなり、姉の浅田舞さんは複雑な想いから暫く家族とは距離を置いて過ごす時期を迎えます。そうした変わっていく大好きな姉と自分、母親の間で複雑な心境を抱えて、浅田真央さんは闘っていた時期があったという事です。

 


画像:http://noh-gakudo.jp/asadamao-mother-shi/

 

その後、皮肉なことに、母親・浅田匡子さんの病状が悪化してから、姉妹の関係はまた修復し始め、絆を取り戻したと言われています。インタビューの時には姉妹の最近の仲の良い姿を嬉しそうに話していたという事でした。

 

 


画像:GQ

 

これからも姉妹で頼り合って生きて行ってほしいな

引用元:exciteニュース

 

母親・浅田匡子さんは、そう語っていたそうです。

 

◆フィギュアスケーター・浅田真央が公式ブログにて引退発表。引退会見写真画像

 

2017年4月10日、浅田真央さんは自身の公式ブログにおいてフィギュアスケーターを引退する内容を発表しました。母親・匡子さんが亡くなって、6年目の決断でした。

 


画像:浅田真央公式ブログ

 

 

浅田真央のフィギュアスケート選手としての時代が終わった。

 

 

去年の全日本選手権を終えた後、それまでの自分を支えてきた目標が消え、選手として続ける自分の気力もなくなりました。このような決断になりましたが、私のフィギュアスケート人生に悔いはありません。

これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています。

皆様、今までたくさんの応援、本当にありがとうございました。

浅田真央

引用元:浅田真央公式ブログ

 

 

そのその2日後には公式の引退記者会見も行われ、浅田真央さんは21年間のスケーターとしての競技生活を振り返り、このような言葉を残しています。

 


画像:スポーツナビ

 

もし、もう1度、人生があれば、スケートの道には行かないと思います。

引用元:exciteニュース

 

 

この短い言葉の中に凝縮された想い、どれだけここまで浅田真央選手として費やした時間が過酷で苦しいものだったかを物語っているように思います。

また、この中には母親・匡子さんを亡くしたことや、大好きで憧れだった姉・浅田舞さんとの確執を生んだスケートに対する、そういったすべてを含んだ感想だったのかもしれません。

 

 

 

kira2
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食べることが好きなのでケーキ屋さんとかカフェとかrレストランをやっているだろう、という話でした。

 

 


画像:スポーツナビ

 

そして、一番印象に残っているのはやっぱり、お母さんと約束していた

 

ソチのフリー

 

 


画像:スポーツナビ

 

悲しくて切ない会見になると思いきや…

 

晴れ晴れしいほどの笑顔。

 

この笑顔は本当に自分自身と戦い切ったという後にしか出せない笑顔なのではないかと思います。

 

 

一方の姉・浅田舞さんも妹・浅田真央さんの引退に際し、このようなコメントを寄せています。

 


画像:https://grapee.jp/470049

 

本当に彼女が引退する日がくるものなんだと、今がその時なんだと、いまだ私自身が信じる事が出来ていません

姉としても、ファンの1人としても、彼女の選手としての生活に心からお疲れ様。そして、本当に多くの感動をありがとう

引用元:スポニチ

 

 

光の背景で苦しんだ姉・浅田舞さんもまた、妹の引退については大きな節目を感じているようでした。浅田舞さんも苦しい戦いを強いられて共闘してきた人でしたから、感慨深かった事でしょう。

 

 

◆母親・浅田匡子さんの死去から数年、浅田真央が40歳になった時になりたいもの、夢はお母さんとインタビューでのコメント写真画像

 

母親・浅田匡子さんを亡くして数年後に、浅田真央さんは自分が40歳になったら、というときの話をインタビューに応じる形で語っていました。

 

将来、お母さんになったら、今度は自分が子どもに、こう、全てを捧げられるような、私の母がそうだったので、(自分も)そういう母になりたいです。

もう子供のために全て注いでいた。そういうお母さんを目指しています。

 

 

お母さんみたいなお母さんになりたい。

 

 

 

 

浅田匡子さんも、かつて浅田真央さんについてこんな私生活での会話を語っていました。

 

昔から「お母さんになりたい。いっぱい子供が欲しい」って言ってたしね、だから結婚はしたいみたいよ。

引用元:exciteニュース

 

 


画像:https://detail.chiebukuro.

 

 

浅田真央さんはフィギュアスケートで数々の偉業を果たし活躍していた闘志からは考えられないくらい、本来はとても家庭的な「普通の」女の子のようです。

 

お母さん・浅田匡子さんは最後、亡くなる前に病床から大事な娘たちにこんなメッセージを残したといいます。

 

『あなたたち姉妹には2人で生きていけるレールは敷きました。もう私はいつ亡くなっても大丈夫』

 

 

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私にも娘がいるのでなおさら思うことですが、本当に立派なお母さんだなと思います。

 

 

 

浅田真央さんが大事にしている言葉は「いつも通り」だそうです。

これは11歳のシニアへのデビュー戦の時から浅田真央さんの口癖のようです。母親を亡くした直後の全日本選手権で「いつも通り」演技することができたのも、そう振舞うことで母親・浅田匡子さんを感じることができたからかもしれません。

 

 

だからこれからもきっと、一緒に生きていける。

たとえ、その姿は見えなくとも。

 

写真:『週刊女性PRIME』

 

 

そして、浅田真央さんの母親・浅田匡子さんも生前こう語っていました。

 

匡子さんは最後に記者の手をにぎり、満面の笑みでこう話してくれた。

女の子を育てるって、本当に楽しいから!

引用元:『週刊女性PRIME』

 

 

浅田真央さんの素晴らしい演技と感動は、母と娘の愛情、結びつきがつくった物語だったようです。

 

 

kira2
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お母さんになるステージの浅田真央さんもとっても楽しみですね!

 

浅田真央さんのお父さんについてはこちらです。↓

浅田真央の父親の職業は?現在死去してる?ホスト時代の画像と死因?について
浅田真央さんの輝きを引き出し育て上げた、誇らしき彼女のお父さんに今回はスポットを当てて調べていきます。浅田真央さんのお母さん同様に、お父さんも浅田真央さんの選手としての能力をずっと羽を折らないよう支えていたことが分かりました。浅田真央さんのキラキラはこれからもずっと日本の希望と勇気。

 

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