日本中をフィギュアスケートの演技で熱狂させた元日本代表の浅田真央さんですが、現役時代に最愛の母親を亡くされています。若い時代にとても苦労されたお母さんの生い立ちや、病気はお酒が原因の癌だったのか?
誇らしきお母さん浅田匡子さんに今回はスポットを当てて調べていきます。浅田真央さんの輝きはこれからもずっと日本の希望と勇気。
◆フィギュアスケートの妖精・浅田真央の死去した母親は「浅田匡子」その名前の読み方は?どんな人?写真画像
2017年4月に引退表明をされた、日本のフィギュアスケート女子シングルの選手だった浅田真央さん。彼女の美しくしなやかなスケーティング技術と、素直でいつも真っすぐな気持ちが伝わる演技力、試合後の会見に日本中が夢中になりました。引退会見に至るまで、とても美しい姿で居てくれた日本を代表する誇らしき美の女性です。
浅田真央さんの氷上の妖精のような姿と、頑なに自身の最高の演技にこだわるストイックさを映像から見せてもらい、何度も私たちは勇気づけられたと思います。
そこには幼少期から浅田真央さんを支え続けた母親の「浅田匡子」さんの存在がありました。こちらの名前は「まさこ」、「きょうこ」、「ただこ」と色々な読み方があるようですが、実際の読み方は
「きょうこ」さんだということです。
本当に、毎日、舞と真央と3人一緒でしたね。
いつもいつも、お母さんである浅田匡子さんが子供たちのスケート練習の為に、自分の人生を合わせて支えてくれたと浅田真央さん自身も多く語っています。
お母さん無くしては、浅田真央さんの演技も日本中をときめかせた美しい気持ちも、エネルギーもなかったわけですね。
浅田真央の母親は
世界一のスーパーお母さん!

小さい頃の浅田真央さんと母親・浅田匡子さん
真央ちゃん
とっても嬉しそうですね。
◆浅田真央選手の母親・浅田匡子さんのスーパーお母さんっぷりは過去に毒親との非難もあった?写真画像
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんのスーパーお母さんぷりには数々のエピソードが残されています。そこには自分と同じ、「女」という運命に生まれてきた娘たちにいかに生き残れる能力を身に着けさせるかというような執念にすら思える熱意が感じられます。
これは、分野は違いますが、ピアニストであるフジコ・ヘミングさんにおいても同じような教育を母親に施された経緯があります。
■ピアニストのフジコ・ヘミングさんのお話はこちら↓

浅田真央ちゃんは3歳のころから、体操やバレエ、ピアノなど9つもの習い事をしてきました。
むろん、それは浅田真央ちゃんの可能性を広げるための、浅田匡子さん流の子育てです。
最後まで残ったのがフィギュアだったそうです。浅田匡子さんは
『3回転ジャンプが飛べないと今日はご飯抜きだからね!』
というような、スパルタ式で浅田真央ちゃんを特訓していました」(フィギュア関係者)

くいしんぼ娘の真央ちゃんには一番効果がありそうな一言ですね(笑)
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは娘たちに対して温かく、そして大変厳しい母親だったという事でも有名です。
それだけ、女の人生が過酷なものであることを母親の匡子さん自身が経験してきたからであり、そうした苦難から少しでも娘たちを守りたいという母親としての強い愛情、意志に他なりませんでした。
画像:https://toramomo.exblog.jp/15851271/
厳しい女道で
子供たちが
振り落とされないように
女性の人生の厳しさを誰よりも知っている母親が、娘の人生のために厳しさの裏側で経済と精神の自立を幼少期からつけさせようとしていたということかもしれません。
バンクーバーオリンピックの頃、お母さんは怖いですか、という質問にキム・ヨナは、いいえと答え、浅田真央は、はいと答えた。実際、子どもをぶちながら説教していたそうであるから、確かに怖いだろう。
引用元:https://ameblo.jp/springwaltz/entry-11103604827.html
母親が本気なら
子供たちはついてくる。

2002年全日本フィギュアスケートでの浅田真央さん12歳
画像:文春オンライン
ちゃんと飛べたよ!
おかあさん!
とにかく、浅田家では娘のスケートの優先順位は学校よりも上。小学校の時から出席日数が足りないと学校に呼び出されるのはしょっちゅうで、そのたびに
『娘の人生がかかっているんです』
と浅田匡子さんは頭を下げていた。
こうした一般常識とはかけ離れた価値観で浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは子供たちの能力を身に着けさせることを何よりも優先していきます。普通の家庭に居たら学校教育を後回しにすること自体、非常識に映るでしょうしその為に毒親と言われても仕方のない状況もあったようです。
しかし、一般常識や
世間の言う通りにしたところで
娘を守ってもらえるのか??
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの精神性の中にはこうした現実社会に対するリアリティーしか見ていない面がしばしば垣間見られます。
自立女性!
■自立女性の「おしん」のあらすじはこちら↓

それは自身がその現実社会への期待を裏切られた過去があったからかもしれませんし、理由は分かりませんが、自分が欲しいものはたとえ女の子であっても自分で勝ち取っていくしかない、誰も与えれはくれないし、ぶら下がっていたって何も得ることはできないんだという現実と闘う姿勢を子供たちに幼少期から叩き込んできた様子が伺えます。
一方で、大切な娘である浅田真央さんの可能性を広げる為なら、どんな苦労もいとわないし、頭くらいいくらでも下げるよ!という意気込みの母親・浅田匡子さんです。
深夜に及ぶ練習に、浅田匡子さんはリンク近くのサウナで夜を明かし、数時間の睡眠で過ごしたこともあった」(スケート関係者)
その位、フィギュアスケートは母親が支えていかないと、選手としてはとても生き残っていけないシビヤな世界でもあるようです。こんな風に、浅田匡子さんは、母親として2人の娘のスケート人生を全力で応援してきました。

浅田真央さんの母親・浅田匡子さん
娘たちが
自分の翼で飛べるように!

子供のためとはいえ、なかなかできる事ではありません。
◆日本人嫌いのタラソワコーチとの関係を修復したのは、浅田真央の死去した母親・浅田匡子!タラソワコーチのコメントとは?写真画像
また、浅田真央さんのお母さんの浅田匡子さんにはこんなスゴイエピソードもありました!
バンクーバー五輪で師弟関係にあったタラソワコーチは、大の日本人嫌いだったんです。
ある騒動をきっかけに“2度と日本人を指導しない”
と激怒し、日本との関係は修復不可能とまで言われてました。それを説き伏せたのが浅田匡子さんでした。自らロシアに飛び、直接交渉をしたんです。
浅田真央ちゃんに対する愛情というか、情熱というか、IOC関係者たちを驚かせたものです(スポーツライター)
これはすごい!!!
これがなければ、バンクーバー五輪の渾身の『鐘』の演技も存在しなかったことになります。また、タラソワコーチと浅田真央さんの母親・浅田匡子さんは今では伝説となった演技である、ラフマニノフの「鐘」の衣装の色を決定する際に、共によく話し合ったという経緯もあったようです。
画像:産経新聞
フィギュアスケートでは当時も「青色」の衣装が勝ちやすい色、というのは有名な話でした。しかし、タラソワコーチと浅田匡子さんは「鐘」を浅田真央さんに託した思いと、浅田真央さん自身のフィギュアスケーターとしての姿を話し合い、
絶対に衣裳の色は譲れない、真央の勝負色は赤と話し合って決めたというエピソードもあります。

浅田真央さんの演技指導を務めたタラソワコーチ
「浅田真央と歩んだことは私の誇り」
あれだけ日本嫌いになったタラソワコーチにここまで言わせることができたのは、もちろん浅田真央さん自身のスケートへ注ぐ真っすぐでひたむきな気持ちがタラソワコーチに届いたことも理由ではありますが、浅田真央さんのお母さんである浅田匡子さんが懸命に足を運んでタラソワコーチに思いを届けてくれたからこそ実現したことだったのですね。
ロシア人にとっての「鐘」という存在(曲のことではない)は、我々外国人が想像するよりもはるかに深く民族に根付いた歴史の一部である。まさにロシアそのものといえる壮大なテーマを浅田真央ちゃんに与えているのだ。
タラソワコーチも
たくさんの愛情を
浅田真央さんに注いでくれました。

浅田真央さんとタラソワコーチの素敵な関係

浅田真央さんとタラソワコーチの精神的結びつきは強かった
浅田真央さんは衣装が青でなければ勝てないというジンクスも捨てて、自分の力で勝ち取る事へ向かう、心の強さと清々しさをくれたのはタラソワコーチと母親の匡子さんなのではないかと思います。
「誰にでも飛べる曲ではない」とタラソワコーチ自身が言っていたように、とても大きなチャレンジを与えてくれる曲でした。浅田真央さんなら出来るという信念で与えてくれた曲です。

日本中が涙した浅田真央さんの試合後のコメント
困難が大きかっただけに、『鐘』が私たちに届けてくれた感動もとても大きかったですね。
「真央は我慢強くて、彼女が背負ってきた困難を乗り越えることができる人。だって、彼女が母親を失ったとき、彼女は母親のために自分の演技を支えていた。私は真央と一緒の場にいることができて幸せでした。なぜなら、真央が卓越した人だから」-アデリナ・ソトニコワ(真央23歳)
— 浅田真央BOT2 (@maoasadabot2) April 19, 2019
いつも、浅田真央ちゃんの会見はなんて素敵なんだろうと思っていたのですが、こうして支えてくれている周りの人たちへ、自分の振る舞いによって恥をかかせることがないように、選手としてあるべき姿をいつも自身に科していたのかなと思います。

愛されることに恵まれている人生だなあと羨ましく思いますね。
◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の生年月日、過去の生い立ち岐阜出身?その職業は?入船・金津園でホステスは嘘?写真画像
浅田真央さんのお母さん浅田匡子さんの過去については色々な話が実は出てきます。ですが憶測であるものも多く、これだけすばらしい娘を世界に送り出してきた方です。

2012年NHK杯 浅田真央さん
画像:文春オンライン
たとえ一般的な職業ではなかったとしても、娘である浅田真央ちゃんが背負っている神々しいまでの空気こそ、母親である浅田匡子さんの本質的なものと一致しているのではないかと思います。
バレエを習わせたのは、バレエダンサーになりたかった母の浅田匡子さんが、叶えられなかった自らの夢を、舞、真央という二人の娘に託したことが理由です。
とても若い時に苦労したから、
娘にはそんな思いはさせたくない。
そうした気持ちがあったという、浅田真央さんのお母さんの生い立ちを見ていきたいと思います。
◆フィギュアスケート浅田真央の母親・浅田匡子さんの生年月日、過去の生い立ち、出産当時の年齢は?写真画像
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの生年月日は1963年1月2日生まれという事で、浅田真央さんが1990年9月25日生まれという事ですから27歳で真央さんを出産しています。

浅田真央さんの試合を見守る母親の浅田匡子さん
浅田匡子さんは
若い時にご両親を亡くしていました。
浅田匡子の生家の家庭は決して裕福とはいえなかった。そんな両親の元育てられた浅田匡子は父親、母親、姉との4人ぐらしをしていたのだが、12歳の時に父がなくなってしまい、その8年後、浅田匡子が二十歳の時に母までもが他界していまった。
お金もなく、生活していくために、浅田匡子は夜の世界へ足を踏み入れたホステス(水商売)をやり、必至に稼ぐ毎日。
若い頃、
とても苦労されたようですね。
出身地がどこであるかは分かっていません。

笑顔が似ている浅田真央さんの母親の浅田匡子さん
浅田真央さんの母親である浅田匡子さんの話題では岐阜県の金津園という地域にある「入船」で働いていたのではないかという噂があります。源氏名が「留美子」だったという具体的な話も確かにあります。
ただ、そんな情報の正誤については結局不明確ですし、今それを追及したところで浅田真央さんの母親が素晴らしいお母さんだったことに変わりはないので、割愛したいと思います。

娘たちをプロのフィギュアスケーターに育てた母親・浅田匡子さん
ある時期から浅田真央さんの母親の浅田匡子さんの顔が浅黒くなってきたという話が出るようになりました。あまりの変化に体調がおかしいのではないかと噂になっていたといいます。
■自然葬、樹木葬、散骨された有名人はこちら↓

◆浅田真央の死去した母親・浅田匡子の病気でお酒が原因の癌だった?死亡前に顔色が悪かったのは肝硬変での移植手術のため!?
浅田真央さんが小学生のころ、母親の浅田匡子さんの入院と大会のスケジュールが重なったことがあったといいますから、病気を患われてからの闘病に費やした期間は我々が認識していたよりも長かったようですね。
後から分かった話ではありますが、2011年の段階で20年ほど前から肝臓を患っていたという情報があったので、その話が現実だとすると、浅田真央さんを出産した直後から異変があったという事になります。

長く病気を患われていたと言われる母親・浅田匡子さん
おそらく母親の浅田匡子さんは、
浅田真央さんが小学生の時点で
肝臓の病気の進行を自覚していた。
こうした背景があったことで、娘に対する教育についてもより厳しいものとなったことが考えられる気がします。「できることは今日しかできないかもしれない」そうした切迫感を抱えながら娘たちに力を付けさせようと必死だったことを感じずにはいられません。
浅田家の知人はこう振り返る。
『大会を休んで一緒に病院に行く!』と訴えた浅田真央ちゃんに、浅田匡子さんはものすごい形相で
『病院には来ちゃダメ!ママがいちばん嬉しいことは、真央が大会で優勝することなの!』と怒ったそうです。
最後も“病気のママに笑顔を取り戻してほしい”と必死に掴み取ったグランプリ・ファイナル出場だったのだ。
だいすきなママに笑顔を。
母親のそうした気持ちを一番近くで認識していた娘の浅田真央さんも、母親・匡子さんを元気づけたくて必至でその気持ちに応えようと闘い続けてきました。
◆浅田真央の母親・浅田匡子の病気・肝硬変とは?その原因は?移植手術も行っていた?写真画像
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの死因は「肝硬変」と報道されています。
画像:https://www.sakeganomitai.com/entry/2017/11/07/145326
肝硬変とは
B型やC型肝炎ウイルス感染、アルコール、非アルコール性脂肪性肝炎などによって肝臓に傷が生じますが、その傷を修復するときにできる「線維(コラーゲン)」というタンパク質が増加して肝臓全体に拡がった状態のことです。
肉眼的には肝臓全体がごつごつして岩のように硬くなり、大きさも小さくなって きます。顕微鏡でみると肝臓の細胞が線維によって周囲を取り囲まれている様子が観察できます。そこで肝硬変になると、肝臓が硬いために起こる腹水や食道静 脈瘤と、肝臓機能が低下するために起こる肝性脳症や黄疸が問題となります。
引用元:肝炎情報センター

C型肝硬変
画像:徳島大学臓器病態外科
浅田真央さんの母親・浅田匡子さんがかかっていたとされる肝硬変の原因としては、ウィルス感染やアルコールによるもの、そうでないものもあるようです。顔色が急激に変化したというのも肝硬変が原因で肝機能が低下したことによる黄疸だったようです。
そして、医者が絶対なりたくない病気の一つに肝硬変を挙げるそうで、それほどの苦しみを伴う病気であることも分かっています。肝硬変は激痛に襲われ、最終段階にはその猛烈な痛みによって、ベットに縛り付けなければならなくなる程の状態になるといいます。

それだけ苦しい症状を抱えながら、いつも真央ちゃんに寄り添っていたと思うと胸が痛みますね。
肝臓を移植すれば浅田匡子さんは延命できたかもしれないという話があり、実際に移植手術も行ったという情報があります。2011年の段階では浅田真央さんの母親の匡子さんは移植手術を受けなくてはならないほど悪化していたと言われています。

2006年の浅田姉妹の写真
画像:文春オンライン
適合状況も家族全員調べ、最も適合するのが浅田真央さんの姉である浅田舞さんだったといいます。
HLA(ヒト白血球型抗原)の相性がいい舞ちゃんからの移植をすすめ、彼女も“ママが長生きできるなら”と了承したんです。
引用元:exciteニュース
浅田舞さんもお母さん・浅田匡子さんの回復の為なら協力したいと言っていたそうなのですが、手術直前になって、「大事な娘の身体にメスはいれられない」と母親・匡子さん自身が強く拒否し、手術の危険度が上がることを承知で、夫・浅田敏治さんから肝臓を移植したそうです。
画像:http://idolsukiotoko02.blog27.fc2.com/blog-entry-2..
浅田舞さんからの
移植を直前で
母親・浅田匡子さん自身が拒絶。
たくさん苦労をし、自身を犠牲にし、子供のために生きてきたお母さんが本当に守りたいものは宝物である娘たちなんだということを強く思っていたからかもしれません。
だから、
自分自身を必ず大事にしてほしい。
という浅田匡子さんの母心からだったかもしれません。しかし、遺された家族としてはあの時にやはり最善の策を施していればという無念につながったことは言うまでもありません。
■同じような親子のお話ががしょこたんこと中川翔子さんとお父さんのお話の中でもありました
もともと適合が弱いとされていた
浅田真央さんの父親の肝臓を移植するも、やはり適合せず。
最終的にリスクの高い父の肝臓を移植する事になりましたが、適合しなかったようで
急変後に亡くなってしまいました。大病を患いながらも我が子を支えた母。母と浅田真央の涙ぐましい努力があったからこそ数々のタイトルを獲得できたのでしょう。
これまでずっと一緒に戦ってきてくれたお母さん・浅田匡子さんを浅田真央さんは失ってしまいました。

浅田真央さんの幼少期の指導を務めた山田満知子元コーチ
画像:テレビニュース速報
浅田家と幼少時代から付き合いのあった山田満知子元コーチは母親・浅田匡子さんの訃報に…
山田満知子元コーチ: 言葉が見つからない。特に親子の絆が強かったから真央のことが心配。ママは頑張り屋さんだった。真央の将来のためにやりたかったことがあったはず。真央はまだ21歳。スケートだけでなく今後の人生にお母さんが必要だったのに…。
浅田真央さんのお母さんが母親を失ったのが20歳、浅田真央さんが浅田匡子さんを失ったのが21歳ということで、とても若くして母親を失ってしまう運命をなぞることになりました。

浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの訃報を伝えるニュース
画像:テレビニュース速報
2011年12月
浅田真央さん21歳の時に
母親の浅田匡子さん死去。
浅田真央が小学生のとき、日本人初のフィギュア五輪メダリスト伊藤みどり(40才)を育てた名コーチ、山田満知子さん(66才)の存在を知った。すぐに直接訪ね、頭を下げた。
「明日から一日も休まず練習させますから、真央を教えてください」
ここでも、浅田真央さんにスケーターとしての種を蒔いてくれたのはお母さんの浅田匡子さんでした。お母さんは娘の為に何度も何度も頭を下げてお願いをしたり、足を運んだり、出来ることを精一杯やって寄り添ってきてくれたのですね。
浅田匡子さんは当時についてかつてこう語っていました。
子供たちと約束したことがあるんです。
それは、やると決めたことは投げ出さないで最後までやり遂げるということ。
約束。

2013年福岡グランプリファイナルの浅田真央さん 優勝
早朝6時から深夜1時半までというように、浅田姉妹の練習は20時間近くに及ぶ事もあったといいます。

真央ちゃんはずっとお母さんに言われたことを大事に守っていましたね。
⇒次ページ【浅田真央さんの母親・浅田匡子さんの悲報が伝えられたカナダグランプリファイナル】
コメント