壇蜜の資格取得と免許、職業経歴が異色!教職・ホステス・エンバーマー

◆お金

若い頃壇蜜の資格取得や免許!教職、ホステスやエンバーマー、葬儀屋等の仕事と職業経歴に女性の経済的自立

 

若い頃から視聴者を魅了してきた壇蜜さんですが、大変ここまでの仕事の経歴職業経歴ホステス葬儀屋行政解剖、司法解剖の補助と異色であり、取得している資格も教職免許エンバーマー(遺体衛生保全士)調理師免許日本舞踊の師範ととても多岐に及ぶということが分かりました。

今回は女性の経済自立に向け、仕事と自分が生きていくことについて若い頃から長く一生懸命に向き合ってきた壇蜜さんのデビューまでの経歴と闘いに焦点を当てて調べてみました。

◆壇蜜の出身地・本名は?学歴出身校・年齢は?若い頃のあだ名が「愛人」の学生時代画像

 

壇蜜さんは若い頃に保育士であった母親の実家・秋田県横手市で1980年12月3日生まれます。2020年に40歳です。本名及び旧芸名が齋藤支靜加(さいとうしずか)さんというそうです。

 


画像:日経ARIA

 

名前:壇蜜(だんみつ)

本名及び旧芸名:齋藤 支靜加(さいとう しずか)
生年月日:1980年12月3日
出生地:秋田県横手市
血液型:O型
身長:158㎝
スリーサイズ:85-60-89
カップサイズ:E
靴のサイズ:23.5㎝
最終学歴:昭和女子大学
デビュー:2009年
ジャンル:グラビアモデル、タレント、女優

 

若い頃からきわどいお仕事が多い印象の壇蜜さんですが、その姿から放たれる光や眼差しはとても透き通っていることが不思議な魅力としてある女性です。

 

そんな精神性が育まれた経緯をここから追っていきます。

 

 

◆生家の家庭環境と生い立ち~若い頃の壇蜜の父親の仕事はツアーコンダクター、母親は保育士の共働きでひとりで過ごすことが多い幼少期、学生時代も孤立傾向に

 

壇蜜さんの若い頃のご両親のお仕事を見ると、ツアーコンダクターという職業の父親と保育士という仕事の母親ということですから、ご両親どちらもお仕事的に多忙で体力仕事であることが分かります。

そんな生い立ちにあった壇蜜さんはおのずと自分のことは自分でという自立の精神が育くまれた幼少期でした。

 


画像:日経DUAL

 

父は沖縄に単身赴任で、
母はフルタイムで仕事。
自分はひとりっこ。

 

家事をできるのは私一人だったので、とにかく家のことをきちんとできていないと恥ずかしいと思って、よりお手伝いに力を入れるようになりましたね。

引用元:日経DUAL

 

壇蜜さんは若い頃から早く自分も大人のように役に立ちたい早く仕事をしたいという気持ちが大きかったようです。

 


画像:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 

仕事で親が家にいなくても
寂しいと思ったことはない。

 

両親とも夜の8時か9時くらいまで働いていたので、私は自宅からバスで10分くらいのところにあった父の実家に預けられていました。それで、夜に父か母が迎えにきて一緒に帰ることが多かったです。

引用元:日経DUAL

 

おばあちゃんが
大好きだった。
両親に代わり、可愛がってくれた。

 


画像:『はなまるマーケット』

 

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小さい頃から一人でいることが普通だった感覚というのは私も両親共働きだったので同じような経験があります。

 

壇蜜さんは昭和女子大学附属昭和小学校に入学し、小学校、中学校、高校、大学まで同学校で内部進学し、卒業しています。中学生の時に同級生からつけられた若い頃のあだ名が「愛人」だったそうです。

 


画像:http://www.skyqzone.com/article/MmFMUnhKNDJHMWs9

 

12歳にして、
あだ名が「愛人」という快挙。

 

子供の頃から自立を周りからも求められていた印象のある壇蜜さんは、同級生よりもずっと精神年齢が高かったのかもしれません。

 

学校生活が始まると、学校にあまりなじめなくて、家で洗濯物を畳んだり、食器を洗ったりと家事を自分からするようになりました。

引用:日経DUAL

 

学校にはなじめなかった。

 


画像:『ウチくる!?』

 

学校になじめないというのも、その壇蜜さんの早くに自立した精神性によるものかもしれません。

 

家の教育だったのか分かりませんが、テレビでの刺激が強い露出の印象とは裏腹に、壇蜜さんは知れば知るほどとても家庭的で実直な一面を感じさせます。

 

 

◆1994年(年齢14歳)中学生時代―壇蜜は若い頃から自らの色気のルーツと語る「日本舞踊」を嗜み、「坂東流師範の免許」を取得!

 

そんな壇蜜さんが若い頃から夢中になていたのは日本舞踊だったようです。壇蜜さんは14歳から日本舞踊を嗜み、現在では日本舞踊坂東流師範資格もお持ちだそうです。

 


画像:https://ameblo.jp/syouki-s/entry-12073831791.html

 

もともと若い頃に芸能界入りしたきっかけとして、この日本舞踊坂東流師範の免許を取得するためには、家元や師範への挨拶金や発表会出演など多額の費用を用意しなければ叶わないことから、その資金稼ぎのためとも言われており、どれだけ壇蜜さんが真剣に日本舞踊へ向かってこられたかが分かります。

 


画像:ORICON

 

けれども、資格を取得してからも、先生から「流派だけは言わないでくれ」とくぎを刺されていたという話もあります。

 

壇蜜は坂東流の師範
であることを
家元に配慮して黙っていた。

 


画像:ORICON

 

2013年には
紅白歌合戦で日本舞踊を披露!

 

坂東流は日本舞踊の五大流派のひとつに数えられる江戸時代後期から続く名門。日本全国に稽古場があり、弟子も1万人ほどいる大きな流派なんです。師範になるには、家元である三津五郎さんの前で踊りを披露してOKをもらわなければならない難しい免許です。師範になれば、自分で弟子を取って、日舞を教えることができるんです」(坂東流関係者)

引用元:NEWポストセブン

 

壇蜜さんは自らの色気について「日本舞踊がルーツ」と語っています。

 

■サーヤこと黒田清子さんも日本舞踊を大事にされています。

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◆1999年(年齢19歳)~大学生時代―壇蜜の出身校は昭和女子大学で若い頃から16年間女子一貫校教育で教職課程を修了!「教員免許資格」を取得 画像

 

大学での出身学部は「人間文化部英語コミュニケーション科」という英語教育をメインとした学科だったという事です。

 


画像:『ファミリーヒストリー』

 

学生時代は
英語に力を入れていた。

 

壇蜜さんの学生時代には、両親の希望から英語の能力を上げることにフォーカスしており、若い頃、高校時代にはシアトルやボストンへの短期語学留学の経歴がありました。

 

とても教育熱心で、比較的裕福な家庭の育ちだったことが伺われます。この頃の心境を壇蜜さんはこのように話しています。

 

 

娘の私に大学進学させたいという強い思いから、両親は小学校から大学まで一貫教育の女子校に進学させてくれました。一方、私は漫然とした気持ちで学生時代を過ごし、目立たず、人並み程度に毎日を過ごすことが最良と決めつけ、目的を持てないまま人生の駒を進めてしまいました。

引用元:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 

両親から敷かれたレールの上を進んでくるだけの状況で、人生の目的を見つけられなかった若い頃の壇蜜さん。

 


画像:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 

学生時代にボストンに留学していました。ニューヨークも要ったことがあって、セントラルパークのジョンレノンのメモリアルスタチューで記念撮影をして、今でも写真を部屋に飾ってあります。

引用元:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 


画像:『ファミリーヒストリー』

 

これは、ジョンレノンさんの遺灰が散骨された場所のことのようです。

 

ジョンレノンさんをはじめとした自然葬・散骨された有名人著名人芸能人はこちら

 

自分の道を模索する旅へ。

 

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生粋の女子校育ち!

 

さんの父親の職業がツアーコンダクターだったということもあったのか、若い頃は英語に力を入れた教育を娘には受けさせたい気持ちが大きかったようです。

 

そして、壇蜜さんは大学在学中に英語科の教員免許を取得しています。

 

何かが違っていたら
教職についていたかもしれないw

 

 

◆壇蜜の昭和大学卒業後から芸能界デビューまでの若い頃の学業・異色の仕事や職業経歴画像

 

小学校からずっと同じ系列の女子一貫校で学んできた若い頃の壇蜜さんは、小学校時代から長い間あまり環境や人々に馴染めないままの少女時代を送ります。

 

厳しい学校だったこともあって、とにかく言われたことをちゃんとやるだけの生活をしていたという話がありました。

 


画像:リアルライブ

 

高校生の時には
ムダに生きているという想いがあった。

 

高校時代はとにかく言われたことをちゃんとやらないと、いろんなものが奪われていくような感じで。高校生のころは「私、ムダに生きてるな」と思っていました。なんで生きてるのか分からなかった。

引用元:日経AIRA

 

私自身も若い頃、女子校の中高一貫校に6年も同じ環境下で育ち、当時同じような焦燥感に駆られていたことをよく覚えています。

 

それを壇蜜さんは小学校からトータルで16年間も続けていたという事ですから、よほど大きな焦燥感に駆られていただろうと想像します。

 

そこからようやく「自分の道」を切り開くんだと思い立つ時間が流れていくことになります。壇蜜さんは大学卒業後に「運良く」内定は1つも取れず、派遣で転々とするような働き方しか選べなかったことが大きかったようです。

 

女子一貫校育ちに関しては高橋真麻さんの若い頃のお話でまとめています。

 

◆2002年(年齢21歳)壇蜜は服部栄養専門学校で「調理師免許資格」を取得し、和菓子工場で菓子職人として勤務したがクビになり通信会社受付へ

 

大学卒業後の若い頃は、壇蜜さんは和菓子店を開業したいと考えていました。

 

そこで服部栄養専門学校の2年制の学科である調理ハイテクニカル経営学科に所属し、和洋中華菓子の調理を学び、店舗の開店や経営運営ノウハウも併せて学べるコースに通っていたようです。

 

実際に和菓子工場でも2、3年勤務していたことがありましたが、壇蜜さんは「和菓子工場はクビになった」とインタビューで話しています。でも、この経験も後の仕事にも生きてくることになります。

 


画像:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 

壇蜜さんが通った調理ハイテクニカル経営学科は学費もなかなかの金額で、調べた時点では2年間で300万円前後かかる学科のようです。

 

小学校から私立の学校で16年間の教育費がかかった後、さらに専門学校で300万円という出費はなかなか大きい金額です。

 

そういうこともあって、お金の問題を解決するために次のホステスの仕事に従事することになったのかもしれません。

 

300万もかけて学校で学び
工場勤務となったのに
そこもクビ。

 


女が経済的に自立して
生きていくことは

なんて大変なんだろうという絶望。

 

その後、壇蜜さんは半年ほど、通信会社の受付の仕事もされています。

 

この辺りまでは、自分は何が得意かを薄々感じながらも、それでも「昼間の仕事」で真っ当に生きていかなくては、という親の期待を振り切れない葛藤のようなものを感じます。

 


画像:ORICON

 

2014年には壇蜜さんはテレビ番組でも和菓子職人を目指した腕前を披露しています。

 

壇蜜さんの不動産投資についてはこちら↓

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◆2004年前後(年齢23歳)壇蜜は銀座の高級クラブホステスという職業に就き、若い頃に艶やかに黒髪キャバ嬢勤務を開始!夜の仕事へ

 

2004年頃から、和菓子店の出店を意識しての資金調達、学費、日本舞踊にかかる経費ともろもろの出費に対する金策として、若い頃の壇蜜さんは銀座の高級クラブホステスになる選択をします。

 

情報によると壇蜜さんが23歳の頃から始めたとあります。2009年の9月に日経トレンディネットで「黒髪のキャバ嬢」として紹介されていたようですので、少なくとも5年程はホステスとしての仕事をしていたようです。

 

 

生きていくには
キレイごとの前に
何としても
食べるお金を稼げる仕事で働くしかない。

 

当時を知る、銀座の高級クラブを長年切り盛りしてきたママをして、「これまで雇ったどの女の子と比べても存在感が抜きん出ていました」、「当時から“この子は大物になるだろうな”と感じていました」というほどの逸材。当時も今と変わらず、涼しい目元にロングの黒髪で、周囲の茶髪で巻き髪が主流のホステスの中では異彩を放っていた

画像:リアルライブ

 

当時、お菓子職人を目指していた壇蜜さんは、店に手作りのお菓子を差し入れていたそうです。

 

そして、お客様に対する接客姿勢も日本舞踊の心得もあることから、他のホステスの女性とはひとつひとつのしぐさや身のこなしが違い、新聞を読んで情報収集も怠らなかったため、どんな話題にも対応していたと言われています。

 

天性のホステスの資質。

 

 

また、小学校の頃からなんとなく思っていたこととして「私はやっぱりこういう仕事が向いているんだ」とも思ったそうです。

 

テーブルにつくといつの間にか、隣のお客にしなだれかかり、メガネフェチであったため、メガネをかけたお客の隣につくと、体を寄せて指先でめがねを突いていたという。そんな“必殺技”にメロメロになった客が多く、上場企業の重役を含め年配の指名客の数はダントツだったというのだ。

画像:リアルライブ

 

そして、ここでの若い頃の職業経歴が壇蜜さんの芸能界デビューのきっかけにもつながってきます。

 

壇蜜さんと泉ピン子さんの下積み時代の若い頃が似ていると話題はこちら

 

◆2007年(年齢26歳)壇蜜は冠婚葬祭の専門学校「日本ヒューマンセレモニー専門学校」に入学。特殊資格「遺体衛生保全士(エンバーマー)」も取得し、芸名の由来となる葬儀場での仕事勤務?も経験

 

その後も和菓子店の開業を志していた壇蜜さんでしたが、和菓子店の出資の際に知り合ったという母の友人で恩師の知人が急死するという出来事に見舞われました。

 

「死がタブー視されている世の中を疑い、疑う前に内側を知りたい」という気持ちになり、進路を変更します。

 


画像:産経west

 

やっと
自分の仕事が持てる
と思った矢先に、夢が消えた絶望。

 

殆どの情報では、壇蜜さんがエンバーマー(遺体衛生保全士)を目指したきっかけは恩人の急死が理由とされていますけれども、実はそれ以前にも伏線のような縁がありました。

 

高校2年生という若い頃に壇蜜さんが読んだ本が、エンバーマー(遺体衛生保全士)を目指す最初のきっかけとなっています。その本は『黒鷺死体宅配便』という本です。

 


画像:日経ARIA

 

親が何かと
心のネックになる壇蜜さん。

 

エンバーマーになることはこの頃からずっと頭の片隅にありましたが、親に言える雰囲気ではなかった。親は大学に行って普通に就職するのが当たり前だと思っていましたから。

引用元:日経AIRA

 

「それはあなたがやらなくてもいいことでしょ」って言われました。

 

親の期待と若い頃の自分の意思との線引きに、とても葛藤する気持ちが伝わります。親には感謝をしているし、できれば自慢の娘として両親に喜ばれる生き方を選びたい。

 

でもそうしてしまうと
それは自分の人生ではなくなってしまう。

 

こんな話を聞くと、映画字幕で有名な戸田奈津子さんの言葉をつい思い出してしまうのですが、戸田奈津子さんはこんな風に言ってくれています。

 

あなたの才能は
親が心配するようなところにあるかもしれない。

 

戸田奈津子さんの映画日本語翻訳家という職業、経済的自立に関するお話はこちら

 

 


画像:仕事の学校ナビ

 

そういうわけで、若い頃の壇蜜さんは、改めて冠婚葬祭の専門学校「日本ヒューマンセレモニー専門学校」へさらに2年間通うことになります。

 

 

その専門学校で壇蜜さんは民間資格である遺体衛生保全士資格(エンバーマー)という遺体の修復、防腐を行う特殊な資格を取得しています。

 

遺体衛生保全士資格(エンバーマー)とは、亡くなられた方のご遺体を生前に近い姿に修復する仕事であり、「元気だった姿」が見えてこそ、家族は故人ときちんとした悔いのないお別れができるということで処置のニーズが年々高まっている職種だそうです。

 

葬儀社時代と言われている壇蜜さんの写真がこちら↓

 


画像:https://yumeijinhensachi.com/archives/564

 

また、その後、一つの情報では壇蜜さんは葬儀場で勤務することになったそうですが、その採用面接時には「白いワイシャツに黒いブラジャーを透けさせたら受かった」ということが語られています。

 

この頃には自身が持っている武器「いったい何か」ということにもホステスという職業経歴を経て確信に至っていたようです。

 


画像:日経AIRA

 

どんな手を使っても
雇ってもらわなければならない。

 

壇蜜さんの仕事に関する想いを知ると、団塊ジュニア世代から始まった就職氷河期ロスジェネ世代の女性がみんな経験してきた、「男女平等など、この世にはない」という超現実的な気持ちが強く伝わってきて、同じ女性として共感を覚えます。

 

男女平等を掲げる「#kutoo運動」についての有名人著名人の意見や批判はこちら

 

権利を主張したところで
女性は救われないのだ。

 

ここでの葬儀場で働いた職業経歴が現在の芸名となっている「壇蜜」という名前につながっていると言われています。「壇」は仏壇を、「密」はお供え物を意味している。と言われています。

 

 

◆2009年(年齢28歳)壇蜜は冠婚葬祭の専門学校卒業後、大学研究所で行政解剖・司法解剖の補助の仕事として勤務開始

 

一方で、別の情報もあり、葬儀社で遺体衛生保全士資格(エンバーマー)として働くことはを諦めたというご自身の手記もあります。

 

壇蜜さんが創業された時期は遺体衛生保全士資格(エンバーマー)として働きたい希望者が多く、儀式の司会者として就職して活躍の機会を「待つ」という選択肢しかなかったようです。

 


画像:SANKEI-Biz

 

またしても
食べていけそうな
仕事、資格ではなかった。

 

だんだん聞いているだけで泣けてくる(涙)

 

葬儀社への就職はあきらめ、当時、解剖学などの授業をしてくださった大学教授のツテで、大学の研究所で助手としてはたらくことになりました。

ご遺体の行政解剖、司法解剖の補助をするという役割は、死と向き合うには充分な環境で、そこにいられることに意味を感じていました。

引用元:web an

 

また、壇蜜さんは「納得のいく別れ」を残された人たちに提供するの大切さを近年でもビックサイトのソナエ博イベントセミナーで語られています。

 


画像:日刊SPA!

 

若い頃の壇蜜さんが、自分の道を模索する道で、どのように働き生きていくか、ということを見出すまでに途方もない時間と困難な日々が続いたことが伺えます。

 

就職先や道に迷う人々へ、壇蜜さんはやわらかな気持ちでこのように語っています。

 

就職活動から振り返ってみて「好きをシゴトに」「シゴトに楽しさ」といった情熱は、持てる人と持てない人がいることに気がつきました。

情熱がなくても生きていくことはできます。その場合は、マイナスをゼロにするシゴトに美学を見出すのはいかがでしょう。

引用元:web an

 

そして、強くこう伝えます。

「どんな人にも進むべき道があります。」

 

壇蜜さんの言葉の端々には、この世界で苦しんでも苦しんでも道を見出すことが出来ない人々がいること、それでも一生懸命生きていくため、受け取った命を運んでいくために純粋な気持ちで、経済的自立を模索している女性がたくさんいることを「知っているのだ」という印象を覚えます。

 

かつて自分がそうだったから。

 

そこには親たちの世代が望むようなきれいごとでは食べていけない今という時代の現実の厳しさも知っている慈愛が込められています。

 

瀬戸内寂聴さんの人生の名言集はこちら

 

⇒次ページ【ようやく壇蜜さんが遅咲きの芸能界デビューのきっかけを掴む!】

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