60歳を過ぎるまで無名のピアニストだったフジコ・ヘミングさんが「魂のピアニスト」と呼ばれる年齢となるまでの長い経歴と彼女の困難を支えたものについて今回は情報を集めました。
ピアノだけでなく、絵画も素晴らしい評価の作品をたくさん残されているので、フジコ・ヘミングさんが描かれた彩り豊かな猫や自然の絵に関してもご紹介していきたいと思います。フジコ・ヘミングさんの困難の半生の中で磨かれた、美しく幸せに生きることに対する感性、その言葉は私たちにも希望を与えてくれる自然体の素敵なものばかりでした。
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それでは日本の女性ピアニストとして大人気のフジコ・ヘミングさんのプロフィールを簡単に紹介したいと思います。(波瀾万丈すぎて簡単にいくかどうか…悩)
フジコ・ヘミングさんは1932年生まれですので、2020年は88歳になります。スウェーデン国籍ですが、18歳の時に国籍を喪失してから回復するまでに長い間、無国籍の状態だったという話です。
本名:ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ
Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko
出生年月日:1932年12月5日
出生地:ドイツ、ベルリン
国籍:現在スウェーデン(長らく無国籍期間も)
学歴:東京藝術大学卒業、ベルリン国立音楽大学卒業
職業:ピアニスト
ジャンル:クラシック
活動期間:1950年~
フジコ・ヘミングさんは幼少期から戦争や両親の離婚などがあって複雑な時代を経験されています。
◆ピアニスト・フジコヘミングの母親・大月投網子はピアノ教師、父親・ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングはデザイナーで画家、建築家!という才能あふれる一家 画像
フジコ・ヘミングさんの父親はロシア系スウェーデン人のジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏、母親が日本人ピアニストの大月投網子さんです。
画像:NHK
両親の出逢いとなったのは、母親の大月投網子さんがピアノでベルリン留学をされて4年目にドイツで7歳年下の青年・ジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏(当時21歳)と出会ったのだそうです。父親のジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏は美術学校へ通いながら映画ポスターなどを手掛ける仕事をしていたそうです。
この父親というのが、美術大学の卒業後には画家で建築家という職にもついていたようです。
ドイツでフジコ・ヘミングさんが生まれた時代は、次第にナチスドイツ勢力の影響で芸術に対する自由な表現活動が圧迫されていった時代であったこともあり、フジコ・ヘミングさんが5歳になったころ、一家は日本へ移住することにしたのでした。
フジコ・ヘミングさんは幼少期にこうして、音楽に長けた母親と美術造形に長けた父親の間で人格形成がされ、そこに伴う感性を育んだことになります。一般的には別の世界に映るかもしれないそれぞれの分野ですが、フジコ・ヘミングさんはこのようなことを晩年に語っています。
音楽と絵はつながっていますから。だから、絵のセンスがない人はピアノを弾いても面白くないんじゃないかしら(笑)
引用元:女性PRIME
そして、フジコ・ヘミングさんには母親の大月投網子さんの名前を引き継いだ弟さんがいます。俳優の大月ウルフさんです。大月ウルフさんも本名はウルフ・ゲオルギー=ヘミングさんとおっしゃるようです。
画像:http://仮面ライダー俳優図鑑.xyz/84.html
何となく雰囲気似てますw
一家はそうして日本での暮らしを始めますが、父親・ジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏は日本では仕事をなかなか得ることができなかったそうです。経済的に困窮した夫妻は口論が絶えなくなり、父親は日本で暮らしていくことに耐えかね妻子を置いて母国へ帰国してしまったのだそうです。
フジコヘミングの別れの曲、わひろぽくて定期的に聴き返しちゃう…全体的な速さもヒーローになった少年達の駆け足を想起させるし、中盤もターニングポイントが入り乱れてるような印象を受けるし、最後、劇的に終わらないところも密かなドラマが垣間見える気がして好きだ…https://t.co/FGZxp0CxWQ
— 故意 (@whr_koi) February 18, 2020
それでも、母親の大月投網子さんは夫からの帰国後の手紙に書いてあった「家族がこちらに来れるように準備している」という言葉を信じ、ずっと夫の迎えを待っていたようです。そこまでは、子供たち二人を立派に育てなければならないという一心で働き続け、子供達にも仕事を持てるよう厳しい指導と教育をしてきたようです。
■福島県小野町には、夫の迎えをずっと待っていた小野小町の母親(?)お棺様の伝説があります。↓

◆ピアニスト・フジコヘミングの経歴①スパルタ教師の母親の訓練でピアノの「天才少女」の評価!父親との別離 写真画像
フジコ・ヘミングさんの母親である大月投網子さんはピアノ教師もしており、前述のように大変ピアノの指導において厳しかったそうです。その成果もあって、フジコ・ヘミングさんは9歳の時には既にNHKラジオに出演して演奏するまでになっていました。
出演した番組では少女とは思えない音楽的表現で「夢のような演奏」と評され、「天才少女」と呼ばれたそうです。その時に弾いた曲も未だに大事に弾いているショパンの曲だったようです。
母・大月投網子さんの訓練がどのくらい厳しいかというと、外に遊びに行くことも許されず、辛くて家の中で逃げて隠れても捕まえられてピアノの練習をさせられるという日々だったそうです。鬼指導ですね(笑)。

お母さんから相当な訓練を受けていたのが伺えるエピソードですね。
厳しい指導で母親の大月投網子さんがフジコ・ヘミングさんにピアノを教えていたのには理由があったようです。それは、厳しいこの世界で娘にピアノの技術をつけさせ、ピアノ教師として一人でも立派に経済的に生きていける女性にする為だったといいます。
おそらく自身が結婚して子供を授かった後、頼りにしていた夫に妻子を置いて行かれ、痛感したことがあったのでしょう。
ここで、もし自分にピアノという芸が無かったら自分だけではなく子供たちを守ることさえできなかったはず。そんな切実な思いから、フジコ・ヘミングさんにはたとえ女性であっても、そうした生きるための力を母親としてつけてやりたいという思いがあったのでしょう。
1日の仕事の後に疲れ果て、足を引きずり帰宅する母親との思い出がフジコ・ヘミングさんの瞼には未だ残っているようです。母親が夜中に弾くピアノの曲が素敵で、幼いフジコ・ヘミングさんは心地よく眠っていたといいます。
母親は仕事の為、長時間外出していたといいますから、ひとりで過ごす時間にフジコ・ヘミングさんは想像力と感性を育んでいたのかもしれませんね。
幼少時代
●1932年、ベルリン生まれ。幼少期に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、5歳のとき、母:投網子の手ほどきでピアノを始める。
●また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事する。以後、芸大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。
●1945年、家族と共に岡山に疎開。
父親は前述の通り、開戦の雰囲気が漂い始めた日本を離れ、スウェーデンへ帰国してしまいます。当時は両親がケンカばかりしていた様子だったとフジコ・ヘミングさんにもその光景が記憶の片隅にあるようです。父親の帰国後は母親がフジコ・ヘミングさんとの日本での生活を支えてきたということです。
◆1945年(昭和20年)疎開先の岡山県でのフジコヘミングと母親の暮らし、そして終戦
フジコヘミングさんたち母子は戦禍が激しくなったことで岡山県へ疎開をします。
貧しい生活でありながらも、母親の大月投網子さんはフジコ・ヘミングさんがピアノでひとり立ちできるようにという事だけを想い、疎開先となった岡山県でも学校へお願いし、毎日朝晩小学校にあったピアノで練習ができるようにしてあったそうです。
画像:NHK
フジコが弾いていたピアノは今でも総社市立昭和小学校で使われています。
(中略)
その後、平成9年に廃棄寸前だったピアノを地域の人々の呼びかけによって修理し、現在も地元の小学校で大切にされていたことがわかりました。引用元:NHK
終戦後、戦前に力を貸してくれていた母親の実家である大阪の家は全焼していたそうで、フジコヘミングさんの一家の生活はさらに苦しいものとなったそうです。けれどもそんな生活の中でも、母はひたすらフジコヘミングさんへピアノを続けさせました。
画像:NHK
その母親のスパルタ教育の甲斐もあって、ピアノをスタートした時には「天才少女」と評価されるほどの実力、その後はレオニード・クロイツァーに師事することもでき、ピアニストに向かうには順風満帆なスタートだったとも言えます。
◆ピアニスト・フジコヘミングの経歴②16歳で右耳の聴力を失い、無国籍状態でドイツ留学!?画像
しかし、フジコ・ヘミングさんはなんと16歳で右耳の聴力を完全に失います。
音楽家としては大きなダメージだと考えるのが普通なのかなと思いますが、それでも、母親の大月投網子さんは残る左耳の張力を頼りにピアノを続けさせたのだそうです。
(下の写真のピアノが幼少期に母親から訓練を受けていた実際のピアノだそうで、未だに大事にされているようです。ギターのような音がする、とフジコ・ヘミングさんは語っていました。)
17歳の時にはピアニストとしてデビューコンサートを行うまでになります。ところが、この時期にフジコ・ヘミングさんの才能を見出し、認めていたレオニード・クロイツァー師が亡くなってしまい、ピアニストとしての後ろ盾を失ってしまいます。
次々に襲ってくる困難。
こうしてみると若い時期のフジコ・ヘミングさんはピアノの才能を評価されながらも、客観的に見ると不運な出来事が次々に重なっているように思います。ご本人は後にこのように話しています。
その時は不幸だと思っていたことが、後で考えてみると、より大きな幸福のために必要だということがよくあるの。
目の前に今ある事実の形は、今の自分にとっては「不幸そのもの」であっても、長いスパンで引いて見た時には、実はそれがきっかけでより感度の高い幸福感を手にすることができたという感覚でいるフジコ・ヘミングさんです。
神様の存在に対して素直な心でいなければ、こうはとても思えないでしょうから、常日頃からきっと対話されてきたのでしょう。
こうした、しあわせに対する視点の持ち方がフジコ・ヘミングさんの豊かさにつながっているように思います。
学生時代
●終戦後、青山学院高等女学部(現:青山学院中等部)に転校。
●16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失う
●青山学院高等部3年に進級する。高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。
●18歳の時にスウェーデン国籍を喪失(無国籍発覚)
●東京芸術大学音楽学部在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入選をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞
●東京藝術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演
●1961年29歳でドイツ国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)へ留学。
留学を考えていたフジコ・ヘミングさんでしたが、その時になって自身が無国籍状態であることが発覚します。手続きを怠ったために18歳の時には無国籍状態となり、海外渡航は不可能な状態でした。
海外渡航が絶望的な状況でしたが、30歳の時にフジコ・ヘミングさんのピアノ演奏に感動した駐日ドイツ大使の計らいで「赤十字に認定された難民」という立場を得ることができ、無事、国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)へ留学ができる事となったのだそうです。

まさに芸は身を助くですね!
しかし、ここでも困難が。生活に困窮するドイツ時代。
フジコ・ヘミングさんはジャガイモばかりを食べ、砂糖水のみでその週をやり過ごしたこともあったということです。また、難民という立場に対する周囲からの視線も厳しく差別を受けていたと後に語っています。
どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから
フジコ・ヘミングさんが現在も野良猫や弱い小動物を大事にするのはこうした自分自身の体験によるある種の痛みを知っているからなのかもしれません。
慈悲の心がある人間でありたいと現在でも強く願うフジコ・ヘミングさんですが、自身の人生において、貧しいながらに触れあった光のような他者からの優しさがあったのかもしれませんね。
現在、ピアニストとして有名になってからも、フジコ・ヘミングさんのその想いは変わっていないようです。
私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良(猫)一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。
演奏して得たお金はほとんど恵まれない子供や動物愛護のボランティアに寄付しているから、もしピアノで生活できなくなったら、家を売らなくちゃ
貧しい時代が長かったフジコ・ヘミングさんにとって、豊かさやしあわせというものと金銭的な問題は随分離れた別の世界のものであるようです。
自分が置かれた状況の中で、
幸せはつくりだすことができる
幸福な貧乏人もいれば、不幸な金持ちもいる。結局は自分が置かれた状態の中で、幸せはつくりだすことができる。
こうした考えがあることから、フジコ・ヘミングさんにはあまり生活を維持する以上の金銭への執着というものはないようです。
◆ピアニスト・フジコヘミングの経歴③困窮のヨーロッパ時代、世界的音楽家・レナード・バーンスタイン氏から評価を得、絶好の機会となったリサイタル直前に聴力を完全に喪失 画像
フジコ・ヘミングさんにとって、ヨーロッパ時代はとくに大変過酷な時代であったようです。
天国に行けば私の居場所はきっとある。
と自身に言い聞かせていた。
―フジコ・ヘミング
35歳の時にウィーンを訪れたフジコ・ヘミングさんは後に「アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者」と称されるレナード・バーンスタイン氏に手紙へ手紙を書き、自身の演奏の「ラ・カンパネラ」を聴いて貰うことができ認められ、リサイタルを開けるチャンスを得ます。
レナード・バーンスタイン氏からフジコ・ヘミングさんの演奏は高評価を得られたということですね。その後、彼からの推薦もありソリスト(独奏者)としての活躍が始まります。「リストを弾く為に生まれてきたピアニスト」として絶賛されるまでの評価を浴びることになります。
レナード・バーンスタイン 氏に会って演奏した時のこと、ベートーベンも演奏したことのあるその会場のことは天国に行っても忘れないわよ、とフジコ・ヘミングさんご本人も語っています。
この時、一瞬は夢を実現したかのようなフジコ・ヘミングさんでした。
大学卒業後
●1969年(36歳)、大切なリサイタルの直前に風邪をこじらせ、左耳聴力を失う。その後、ストックホルムに移住し、耳の治療に専念。ピアノ教師をしながら欧州各地で演奏活動を続ける。左耳の聴力のみ40%まで回復。
●ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずかな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。
しかし、ここでもフジコ・ヘミングさんはどんな運命なのか風邪をこじらせてしまい、リサイタルの1週間前という時になんと聴こえていた方の左耳の聴力まで完全に失ってしまうのでした。
この時は生活が貧しすぎた為、暖房設備のない部屋で真冬に凍えながら生活をしていたため、風邪をひいてしまったとフジコ・ヘミングさんは後に語っています。

栄養不足もあって、免疫力もきっとなかったのでしょうね。
ようやく訪れたチャンスを逃してしまう。
リサイタルはすべてキャンセルとなって失敗に終わり、世界的評価を得られるチャンスとなったかもしれない絶好の機会をフジコ・ヘミングさんは逃す事になりました。そして、音楽界からも次第に忘れ去られる存在となっていきます。実に2年間もの時間、全く音が聞こえない世界に居たそうです。
このことについても、フジコ・ヘミングさんは後にこのように語っています。本当に思い出したくもないような地獄だったと語る一方で、
チャンスというものは、掴み取るだけで成功とは限りません。私はチャンスを失ってどん底を知り、回り道をしたおかげで、人間的に成長できたように思います。
この経験すら、フジコ・ヘミングさんにとっては自身の豊かさを高める為の大きな材料になったと感じているようですね。こうした状況で自身の精神を立てていられる強さに圧倒されます。
音のない世界でフジコ・ヘミングさんの慰めとなったのは絵を描くことだったようです。
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◆ピアニスト・フジコヘミングの経歴④スウェーデン時代に父親とたった1度の再会も果たされず 写真画像
その後、スウェーデンに移り住んだフジコ・ヘミングさんは聴力治療を行い、奇跡的に左耳の40%程の聴力を回復させることができました。
また、この地でスウェーデン国籍も回復します。フジコ・ヘミングさんの生活はというと、ピアノ教師として働く傍ら、それだけでは暮らせず、病院の清掃なども行って生計を立てていたそうです。
ピアニストは綺麗な手をしている人が多い。手をとても大事にしているから。
私の手はちっとも綺麗じゃないけれど、表情に満ちている。生きるための労働をしてきた手だから。
「ちっとも綺麗じゃないけれど、表情に満ちている」という言葉は、フジコ・ヘミングさんを語る上でのキーワードなのではないかと私は思っています。(それについては後ほど、別のお話と…)
父親との
たった一度の再会も果たされず
父の居所を探し、連絡するが、金の無心だと思われたのか、相手にされなかった。その後、父とは連絡が取れなくなった。
たった一度だけスウェーデンで再会しようと試みたものの、父親ともこうして連絡が取れなくなり、異国の地で孤独だったフジコ・ヘミングさんを支えてくれたのはピアノと拾った猫だったそうです。
フジコ・ヘミングさんの父親は、表面的に見ると、何から何まで残念過ぎる男性です。
でも、彼には造形に興味を持つほど、それだけ多くの恐怖を感じる感受性がもともと素質としてあって、彼自身はそこに立ち向かう事が出来ず、弱かったという事だとも言えます。そこと闘ったのが娘・フジコヘミングさんだったとも言えそうです。
感受性という財産は、
欲しくても得られない能力ではないか?
そういう意味では
かけがえのない能力をくれている父親。
フジコ・ヘミングさんのスウェーデン時代に話を戻すと、父親はすでにスウェーデン人の女性と再婚し、事業も成功していたそうです。自分ひとり妻子を置いて人生を再生し、幸せになったのに、「分け与える」ことすらできない貧しい男だった。現在の日本であっても、よく聞く話でもあります。
そういうわけで、同じ国に住みながらも、ただの一度も会わなかったというのがなんとも複雑です。
そんな複雑な人間関係に幼少期から失望していたからか、フジコ・ヘミングさんは人間との交流よりも小動物との交流により感性のつながりがあったようです。母親である大月投網子さんが亡くなるときにもこのような不思議な体験をしています。
母親の死の知らせに
親子のカラスがいた
ある日、ケガをした子ガラスを拾って帰ると母ガラスが追ってきた。
帰宅すると電話が鳴った。母の死の知らせだった。子ガラスも死んでいた。
画像:母 大月投網子さん
変な共通点なのですが、私も祖母が亡くなる時に、新宿の高層ビルの地下の建物内にクロアゲハが突如現れるという体験をしています。飲食店の人が大慌てで捕まえたのを、どういうわけか私が預かって、昼食後に新宿の空へ放ちました。
その日の夕方に祖母が亡くなったことを知りました。クロアゲハは祖母を迎えに来た祖父かなと何となく思っています。

飛ぶ生き物が共通点ですねw
◆ピアニスト・フジコヘミングの経歴⑤1999年 帰国後ようやく日本で評価!ラカンパネラCDが大好評でコンサートチケット完売で満員!海外評価も画像
「もう人前で弾くことはない」そう思って帰国したというフジコ・ヘミングさんでしたが、母親の家でピアノ教師をはじめ、演奏会も小さく始めていったところ、その演奏の評判が徐々に広まります。そこから思わぬ方向へ開かれていくことになります。
この日はまさしく
「奇跡」的な一日となった。
1999年2月11日に放送されたNHKのドキュメンタリー番組が放送されることになりました。
母が遺したドイツ製ピアノを、くわえ煙草のまま、軽やかに弾く姿。ありそうでなかった、斬新でニュアンスに富んだクラシックの音色。その人生を雄弁には語ろうとしないありのままの彼女を映し出した画面に、想像をはるかに超える数の人々が感じ入ったのです。
そして今、コンサートホールは超満員。
たった1回のテレビ放送でフジコ・ヘミングさんは大反響を得て、フジコブームが起こり、今の活躍に至るようです。
随分遠回りの末、巡ってきたもはや「チャンス」というよりは当然の評価というべき状況でした。ですから、こうした奇跡のようなことがたった1日で起こっても、フジコ・ヘミングさんは変わらずに「自然体」でいられたのかもしれませんね。
日本へ帰国後
●母の死後、1995年-1996年頃(62歳)に日本へ帰国。
●1999年(66歳)、NHKのドキュメンタリー番組が大反響を起こし、デビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、クラシック界異例の大ヒットを記録。
●2018年(85歳)、ドキュメンタリー映画『フジコ・ヘミングの時間』公開 (監督:小松莊一良 / 配給:日活)。
●現在パリと東京で暮らし、世界中でソロ公演や、著名オーケストラと共演を重ねている。
公演活動で多忙を極めるなか、犬や猫をはじめ動物愛護団体を援助するための活動を続けている。
30年もの間、日本を離れていた為、母娘が離れて暮らす時間が多かったように思いますが、フジコ・ヘミングさんの母・大月投網子さんに対する想いは人一倍大きかったようです。
30年以上ぶりに帰国し、東京の実家へ着いた時のフジコ・ヘミングさんの想いはこうだったそうです。
自分の成功した姿を、ついに母に見せることはできなかった。しかし、いつかきっと成功してみせるという思いはあった。教会で拾ったカードには「遅くなっても待っておれ、それは必ず訪れる」と書かれていた。
母親がフジコ・ヘミングさんにピアノを教えたきっかけになった出来事は、当時2歳のフジコ・ヘミングさんがピアノを触って奏でた音がとても美しかったからだそうで、そういう意味では人生で最初にフジコ・ヘミングさんの力を見つけ、信じてくれたのが母親である大月投網子さんだったということになります。
日本での成功と人気が後押しとなり、1999年以降、フジコ・ヘミングさんは演奏者として海外でも高い評価を得、活躍することになります。2001年にはカーネギー・ホールでのリサイタル公演も果たし、現在ではソロ活動以外にも海外の有名オーケストラ・室内楽奏者との共演されています。
これだけ長い間、フジコ・ヘミングさんは海外で活動されてきたのにもかかわらず、ようやく評価を得られることになったきっかけが海外ではなく日本だったというのが不思議な感じがします。天国からお母さんも応援してくれたのかもしれませんね。
◆ピアニスト・フジコヘミングに結婚歴は?子供は?自宅に若い頃の昔の恋人の思い出の品!?写真画像
フジコ・ヘミングさんに結婚歴は無いようで、またお子さんもどうやら居ないようです。
画像:NHK
少し賢くなったと思ったら、すぐ歳とって
―フジコ・ヘミング
フジコ・ヘミングさんの印象では人間に対し、ある種の諦めをもっていることを感じさせることから、基本的に深い交流はないのかな?と思っていたのですが(笑)、調べていくと少なくとも恋愛は別で、色々と特別な恋もあったようです。
ただ、そこでもあまり男運はなかったようで(笑)、嘘つきだったり、お金に穢かったり、女たらしだったりと、そうした素顔が見えてくると冷めてきてしまうことが多かったと言います。
「1年でも結婚したら最高だろうに」と思えた相手は過去2人くらい居た。
と言っていますし、過去の恋人との思い出も沢山あるようです。テレビ番組で日本のフジコ・ヘミングさんのご自宅での撮影があった際はこんなやり取りもあったそうです。
フジコ・ヘミングさんの俯瞰した男性観が素敵です(笑)
昔の恋人の思い出があるライター。
フジ子「この時の恋人にこの間久しぶりに会ったら、二度と見られないような気持ち悪いお化けみたいな男になっていた」
アナウンサー「じゃあ、このライターはもういらないじゃないですか」
フジ子「この時は楽しかったのよ」
小さなスケジュール帳に彼からの電話の記録が記されている。
こんなこと言っては失礼なのかもしれませんが、驚くべきことは、フジコ・ヘミングさん年齢を重ねてからも恋のお相手はしっかりいるようです。
現在のフランス人の恋人のために買ったうちわが気に入って自分で使っている。
未だに可愛らしい印象がフジコ・ヘミングさんにあるのは、こうしていつもおしゃれをして会いたい人がいるからなのかもしれません。
また、別のインタビューでも、フジコ・ヘミングさんは少女のようなコメントをしていますw
彼も猫を飼っているの。人間よりも猫が好きって言うところがいいなと思って。(中略)何だかさっぱりわからないけど、楽しいの。ふふふふ。

かわいい♡
やはり、フジコ・ヘミングさんは現在1年の半分以上はフランスで暮らされているそうですから、愛の国フランスの影響もあるのかもしれません。
お子さんについてはフジコ・ヘミングさんが出産されたような情報は見つかりませんでした。しかし、過去に養子で子供を持とうと考えていたことはあったようです。ただ、その点についても神父さんに諭されて諦めたという話があります。

今はたくさんの猫を子供のように守って可愛がっていますね。
インスタレーションや絵画で有名な草間彌生さんとフジコ・ヘミングさんにはどこか共通点があります。
■日本で注目されている芸術家・草間彌生さんのお話はこちら↓

◆ピアニスト・フジコヘミングの絵画が素敵!ピアノだけでなかった魅力!ピアノと猫の絵画像
フジコ・ヘミングさんというと、日本での一般的な印象はピアニストでリストの『ラ・カンパネラ』の人、というイメージなのかもしれないです。
けれども、フジコ・ヘミングさんがピアニストとして注目される事に伴い、その苦悩の人生とそこを経てここへたどり着いたしなやかな精神性、人間性やその清らかさ、美しい佇まい についても人々は注目するようになりました。
フジコ・ヘミングの
絵画は巨匠画家並みだった!!
そこでまず、明るみになったのは、フジコ・ヘミングさんの能力が単に音楽家としてのピアノ演奏にとどまらなかったという事実です。
フジコ・ヘミングさんが絵の能力にも恵まれたことには少なからず、離別した父親・ジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏が関係していると思います。彼は画家で建築家という、造形に対する能力に秀でた人でした。目に映る人間同士としての事実だけ見れば、二人は親子として出会っていながら、幼少期には離別し、後にウィーンでたった一度の再会も果たされぬまま今生の別れとなっただけです。
ところが、娘であるフジコ・ヘミングさんの情愛や感性の中には、父親であるジョスタ・ゲオルギー・ヘミング氏から幼少期に与えられたものの跡がずっと生き続け、またその感性がフジコ・ヘミングさんの苦悩の人生を支える豊かさのひとつとなって、いつも彼女の側にいた、という数奇なつながり方を遂げています。
なんとも人の人生ながら、不思議な運命だと思いますし、人生はやはり見えるものだけではない縁や繋がりという、なにか大きな存在の導く運命によって彩りに溢れているんだなあとも思います。
実際、フジコ・ヘミングさんのピアノの演奏にもその絵画や造形としての感性は繋がっているようです。それがよくわかるフジコ・ヘミングさんの言葉があります。
(私はピアノを)ひとつひとつの音に色をつけるように弾いている。
また、ここで言う「色」というのは記憶や思い出から造形される人間的情緒、感性であり、温度であり、行きつくところは愛情でもあるなと感じずにはいられません。
苦悩の人生を歩んでこられたフジコ・ヘミングさんだからこその言葉がここにあります。
愛情の豊かな人でなければ美しい仕事はできない。
感性が必要以上に高かったことによる苦悩もあったことでしょうが、それすらもフジコ・ヘミングさんは美しさを感じる為に自身に天から恵まれたものとして大事にされてきたということだと思います。
『ノクターン』を弾きながら、フジコ・ヘミングさんはこう語ります。
物想いにふけりながら弾ける曲が好き。そうよ、月の光が照っているとかね、ベルリンの夜を想ったり、昔のことを想ったり…。
今は亡き古い友人が座った椅子を今でも大事にしていたり、雲を見て母親の面影を思い出したり、フジコ・ヘミングさんの奏でる音、描く線にはいつもこうした過ぎ去っていった豊かな時間へ想いがあります。
過去との回想の中においては、
別れていった愛しい人たちにも
再会できるからかもしれません。
◆フジコヘミングが2003年ごろに下北沢で女の子に絵を褒められて嬉しかったという話
2018年、フジコ・ヘミングさんは下北沢で少女に絵を褒められたことが嬉しかったという話をしています。
とっても分かります。こちらが2019年11月8日のサントリーホールで行われたピアノコンサートで売られていたDVDですが、絵が本当に素晴らしい!
私もつい買ってしまいました(爆)
それだけではなく、その日のプログラムの表紙もフジコ・ヘミングさんの素的な絵で飾られていました。下北沢の女の子が言ったと言われている15年前の言葉はこちらです。↓
15年くらい前に下北沢をひとりで歩いていたら、向こうから女の子が来て“フジコさんですか? 私、あなたのピアノに関してはよくわからないんですけど、絵が本当に好きです”って言われて。すごく、うれしかった(笑)。
引用元:週刊女性PRIME
絵を見ないで生きるのはつまらない。
画像:http://www.tapthepop.net/news/51893
フジコ・ヘミングさんはそんな風にも語っており、自分がこれまでに描いてきたたくさんの絵をああでもない、こうでもないと変えながら部屋中に飾っているようです。
◆ピアニスト・フジコヘミングにとってピアノ演奏とは「猫を食べさせていく道具」画像
「あなたにとってピアノとは?」と質問されたフジコ・ヘミングさんは、こんなユニークな回答もしています。
画像:母がドイツから持ち帰ったブリュートナー社製のピアノ
猫たちを食わせていくための道具ね。
こうして改めて聞いてみると、フジコ・ヘミングさんにとって、ピアノ演奏とは色々な道具の中で世界と最も快適につながりを持つことができ、生活するうえで金銭を得ることができたひとつの言語という道具であり、
フジコ・ヘミングさんの本質はピアノにしろ、絵画にしろ、言葉にしろ、それらが導くものはひとつだということが分かりますね。
今でもフジコ・ヘミングさんが大事に引いているブリュートナー社製のピアノは、母・大月投網子さんがドイツから持ち帰った当時の最高の品で、戦争が激しくなり渋谷区から岡山県へ疎開する際、三鷹に居た大月投網子さんの姉に預けたことで戦火を免れたピアノだそうです。
◆フジコヘミングはピアノの演奏も絵画も下手でへたくそ?とんでもない!猫の絵が豊かな風景・日本の家は猫屋敷?何匹いるの?画像
フジコ・ヘミングさんの風景にはいつもピアノと猫たちが居ます。それは日常の演奏時も絵の中でも同じようです。ヨーロッパでの苦難の半生に生きていく力を与えてくれたのが猫たちだったことと、現在では病気になったり老衰しているような猫たちに最後の休まる処を与えたい気持ちで連れてきているそうです。
日本の下北沢のご自宅には30匹以上いるとか…。現在でも、フジコ・ヘミングさんにとって猫たちは生きる力となっているといいます。パリのアパートには少なくとも5匹の猫がいる様です。また、その他にも京都の古民家、さらにロサンゼルス、と公演に合わせて移動する生活をされているため、各地にも猫はいるのでしょう。
◆フジコヘミングの飼っている猫の名前に作曲家の名前??
また、フジコヘミングさんが飼っている猫の中で一番お気に入りの猫の名前はロシア帝国で活躍したウクライナ人の作曲家ドミトリー・ボルトニャンスキーにちなんでいるような「ニャンスキー」だということです。
ドミトリー・ボルトニャンスキーはウクライナ・ロシアのクラシック音楽の開祖と呼ばれている人です。フランス語オペラや、クラヴサンのためのソナタなどを作曲しています。フジコヘミングさんのご自宅の猫には作曲家が他にもたくさんいるかもしれませんね(笑)
◆フジコヘミングウェイ??ちょっと名前が被っているヘミングウェイも猫好きの共通点が!画像
あまりフジコヘミングさんを知らない方には1954年にノーベル文学賞を受賞している『老人と海』で有名な小説家で詩人のヘミングウェイさんの方が印象があるようで、「フジコヘミングウェイ」??なんていうことを言う方がまれにいます。(私の周辺では2名確認w)
しかし、文学、音楽、絵画には世界観として向かっている方向性や近く繋がっているところもあるためなのか、ヘミングウェイさんも大の猫好きで知られています。
■猫好きな有名人に関するお話はこちらです↓

そして、国内、海外に限らず、一部の音楽好きの中では、フジコ・ヘミングさんの演奏をあまり評価せず、へたくそだ、というものも実際にはあるようです。
理由としては、フジコ・ヘミングさんの演奏は技巧やテンポに執着しない、とても独特な演奏スタイルだからです。

聴く人によっては基礎がない異端児のように思えるのでしょうね。
それは、「へたくそ」というよりは音楽という言語上において相手とフジコ・ヘミングさんの間で隔たりがあり、感性や意志の疎通がはかれないという意味なのかな?と感じます。
そのことについて、フジコ・ヘミングさん自身もこのように述べています。
私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい。
絶技巧に中身(人間的、愛、頭)がなければ、うつろな響きしか出ません。そんなものは機械でやった方が良いでしょう。演奏家の人格と頭脳は、必ず演奏に表れます。
演奏は演奏者の生き物としての命に基づいた「生モノ」であって、全ての形体一致する工業製品ではないというところに価値を置いています。こうした発言から、フジコ・ヘミングさんという人が技術者ではなく、芸術家だなと思います。
さらに、フジコ・ヘミングさんはインタビューにおいても改めてこの辺りの話をされていました。
人間でもすごい冷たい計算高い人って、音楽好きな人居るんですよ。
そういう人はロマンティックな弾き方を好きじゃないのよね。だからみんなに私のピアノを好いてもらって分かってもらうっていうのは無理ですよね。
割とセンチな人が私のピアノが好きなの(笑)
私もセンチメンタルな方なので、とてもフジコヘミングさんの演奏が好きです(笑)。
画像:twitter/https://twitter.com/yamaseaco/status/1126102507350937600
着飾らず、自然体でいて正直にやっていれば必ず大丈夫という想いがフジコ・ヘミングさんにはいつもあるようです。前述の「ちっとも綺麗じゃないけれど、表情に満ちている」(手の話のくだり)という言葉がここと共通する気がします。
それはフジコ・ヘミングさんの絵画にも反映されており、「上手く見せよう」という気持ちではなく、いつもその時に浮かんだ感性を反映しているものだからこそ何か伝わってくる温度があるのかなと思います。
雑誌の取材でもフジコ・ヘミングさんこの辺りのことをお話されています。
実際にコンサートに足を運ぶ人たちは時折、その音色にぽろりとほころびを見せても、私が間違えたら間違えたで、それがかえって面白くて喜んじゃって。そんなお客様も多いみたい。ぽろぽろやった日でも、上機嫌で帰っていってくれるし。
その取材の記者はこんな風に語っています。
フジ子さん、貴女は音楽をはじめとする「芸術」が生まれた所以を思い出させてくれる、素敵な女性です。
芸術が生まれた所以。
技術だけが進みゆくこの国で、「芸術」という豊かさの種を人々に残してくれるフジコ・ヘミングさんの作品は演奏にしろ、絵画にしろ、今後ますますその価値と輝きを増すのではないかと思いました。命がけで残したと言ってもいいこうした生命力のある作品を現代で私たちが享受できるというのはとても恵まれたことですね。
そうして命がけで稼いだ金銭も、フジコ・ヘミングさんは猫をはじめとした動物保護団体だけでなく、米国同時多発テロでの被害者やアフガニスタンの難民のような震災の被災者や被災動物支援に寄付し、弱い境遇の人々へ分けているというのですから、どれほどの人格者なんだろうか、といったところです。

猫の餌代もしばらく大丈夫そうです(笑)
◆フジコヘミングの絵画の販売価格、値段は?猫の絵は?画像
絵画の価格は常に変動があるので、少しだけ調べてみたところ、フジコヘミングさんの描写の銅版画80枚刷りのうちの1枚が直筆のサイン入りで約24万円(絵のサイズ:縦54X横32cm)で販売されていました。
画像:http://www.ddart.co.jp/fujikosell.html
銅版画だけでなく、シルクスクリーンや木版画、リトグラフ、手彩色、など枚数が多く出回っているものに関しては、割と手軽な価格で購入できそうです。
猫が登場するフジコヘミングさんの絵画もたくさんありました。
◆フジコヘミングの14歳の子供の頃の夏休み絵日記が絵本になって販売された 画像
つい最近の話ですが…『フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記』というものが2018年6月に発売されました。この頃に育まれた絵と言葉による感性が大人になるまで続いていったことが分かる名作だと話題です。
世界的ピアニストにして永遠の少女
終戦翌年、1946年の東京。食べもの、配給、家族、ピアノの練習、お裁縫……、14歳のフジコさんが、水彩画とペンで、ていねいに美しく綴った、ひと夏の貴重な記録です。
書籍化にあたり、手書き文字は活字に起こして全ページを収録。加えて、絵日記には描かれていない、当時の心情を赤裸々に語っていただきました。
まだ私は残念ながら読んだことがないのですが、今回の記事に取り組む間にとても読んでみたくなったので、また読んだ後に感想を載せていきたいなと思います。
他の絵画にしてもそうですが、フジコ・ヘミングさんの絵画はとても色が鮮やかに使われて世界が明るく映し出されているように感じますね。とても終戦の翌年とは思えないような色使いです。
小さい頃は戦後のハーフということでよくいじめられたとも語っていましたが、絵だけを見るとフジコ・ヘミングさんにそのような影があったことなど全く感じさせないような絵が描かれています。
母親の大月投網子さんが日ごろから子供たちには
ピーピー泣くんじゃないわよ。
悪いことは何もしていないのだから堂々としなさい。
と言っていたという話があるので、そうしたことが無駄に子供たちに劣等感や悲壮感を抱かせなかったのかもしれませんね。何より、人よりもピアノが上手に弾けるという自信も幼い頃のフジコ・ヘミングさんにはあったはずです。母親の言葉は子供にとってとても大事だなと改めて感じます。
また、絵日記だけでなく、フジコ・ヘミングさんは昔から手紙の1枚1枚にも心を込めて送っていたようです。
小さい頃からフジコ・ヘミングさんの感受性が人一倍高かったのがよくわかる絵ですね。
この頃から、絵やピアノの音を通して、内面と対話する時間が多くあったことを感じさせるフジコヘミングさんです。
◆2018年フジコヘミングの人生が映画になった!『フジコヘミングの時間』が前売りチケットから大反響!画像
フジコヘミングさんのドキュメンタリー映画としてつくられた『フジコヘミングの時間』は銀座の映画館で公開され、瞬く間に全国の映画館で上映されることになりました。
60代一夜にしてピアニストとしての夢を実現した遅咲きのシンデレラと紹介されているフジコヘミングさん。ご本人もこんな風に自身の事を語っています。
「いや、だけど私、本当にまだ16歳くらいの気分よ。」
「楽しいことばかりあって、悲しいことがないって言うのはちょっとどうかなと思う。…センチメンタルなのもいいじゃない。」
フジコヘミングの時間、まだ映画の余韻が残っているのでうまくいえないけど、とても良かったです。エンドロールで一番好きなドビュッシーの月の光が流れて泣いてしまった。コンサートにも是非行きたい。今から遅めのお昼ごはん。 pic.twitter.com/WvLqJh584B
— シキ@にゃん式 (@shiki4kishiki) August 6, 2018
画像:twitter/https://twitter.com/akatsuki_alpha/status/1012876074345103360
人生を豊かに生きるためのヒントが凝縮されている映画だと評判のようです。
◆ピアニスト・フジコヘミングの強さと夢を諦めない気持ちの源は?
フジコ・ヘミングさんの半生には前述のように困難が多く、普通なら心が折れてしまうような出来事や困窮した時代も多かったわけですが、いつもフジコ・ヘミングさんを奮い立たせていたのはいったい何だったのでしょうか?
「どうしてそう強く生きられるのか?」というインタビューアーの質問にフジコ・ヘミングさんはかつてこう答えています。
人間の命というものはみんな神様から来ているから前へ進まなくてはならないんですよね。何のために生きているのか?人間というものは向上していかなくてはならない。
クリスチャンであるという理由だけではなく、フジコ・ヘミングさんには自身を見守っている存在について信じており、その想いが希望を抱かせ、生き方を支えたように思います。
神様の前に出た時に自分が恥をかかないように生きる。
私は日本人の典型であまり信仰心というものはないのですが、それでもおそらく同じように自身を見つづける存在についての同じような意識があり、フジコ・ヘミングさんの言葉には共感を覚えるところがあります。
「雲があると、ああ、お母さんどうしてるかなあ、って思って。」
また、フジコ・ヘミングさんは天国でまたお母さんに会えると信じているのだそうで、また会う日までピアニストとしての人生を全うし、天国で褒めてもらいたいのだと言っていました。お母さんに褒めてもらうためにピアノを愛し続けているとも語っています。
人生は時間をかけて私を愛する旅。
■フジコ・ヘミングさんをはじめとした素敵なオシャレグレイヘアの方々はこちらです

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