若い頃の石原慎太郎と結婚!妻・石原典子は慶應大学へ父母の本画像

◆結婚・夫婦

若い頃に石原慎太郎と結婚し嫁となった石原典子が子供と同慶応大学へ進学!旦那ファーストの妻の家族・父母

 

「石原家」の4人の個性的な息子たちを母親として育て上げ、同時に若い頃から石原慎太郎さんの妻として旦那さんの作家作家・政治家である活動を陰で支え続けたた妻・石原典子さんという女性について今回は調べてみました

◆作家で政治家・石原慎太郎という男の人生を支えた妻・石原典子さんが気になる 画像

 

石原慎太郎さんというと、1956年(昭和31年)に小説『太陽の季節』という作品で当時最年少(年齢24歳)で芥川賞を受賞し、その受賞をきっかけに実の弟である石原裕次郎さんのスター俳優としての道も切り開くこととなった立役者である作家です。

 


画像:http://sugarbabe49.hatenablog.com/entry/20140621

 

それから半世紀以上もの間、日本の各時代で作家・政治家として旋風を巻き起こし続けてきた剛腕・石原慎太郎さんですが、その活躍の背景に居た、妻・石原典子さんというあまり知られることがなかった女性の生き方が興味深いものとなっています。

 

まず、大前提で
かなりお美しい女性!

 


画像:https://young-days.com/yoshizumi/

 

石原典子さんは石原慎太郎さんとは高校卒業後にすぐご結婚されたというお話でした。

 

いくらなんでも
早いのではw

 

 

◆夫・石原慎太郎との結婚期間は石原典子の高校卒業後から現在でなんと65年目!「戦争を知っている子供」だった夫妻の年齢差は?今何歳?

 

夫である石原慎太郎さんは1932年(昭和7年)9月30日生まれで2020年現在88歳となります。一方、妻の石原典子さんは1938年(昭和13年)生まれという事なので2020年に82歳となります。お二人とも終戦前に生まれている「戦争を知っている子供」ということとなります。

 


画像:https://festy.jp/web/posts/1001312

 

石原慎太郎さんは一般的に日本国内で「終戦の日」とされる1945年8月15日、(世界的には大日本帝国政府が公式にポツダム宣言受諾による降伏文書に調印した1945年9月2日に対して呼ぶことが多い)において、13歳になる直前という事ですから、戦争については鮮明にイメージがある世代だろうと思われます。

 


画像:https://grapee.jp/208746

 

石原夫妻の年齢差は6歳

 

ご夫婦の年齢差は6歳ですから石原典子さんは終戦時に7歳になる年齢。とても過酷な世代だったと言わざるを得ません。

 

石原慎太郎さんと石原典子さんがご結婚されたのは1955年の12月ですから石原慎太郎さんが23歳石原典子さんはなんと17歳・・・。2020年の夫婦の結婚期間は65年目という事となります。終戦から約10年後のご結婚だったことになります。

 

石原慎太郎さんは2020年で88歳、妻の石原典子さんは82歳となります。

 

◆石原慎太郎の嫁・石原典子の幼少期、出身地は母親の生家の広島市。改名前の本名は?兄弟は?画像

 

石原慎太郎さんの妻・石原典子さんの母親広島県広島市己斐町(現・西区己斐)出身の女性で、石原典子さん自身も母の実家で生まれています。石原典子さん(石田由美子さん)の母親の石田まさ子さんと父親の石田光治さんは1934年にご結婚され、1935年には長男の石田省三さんが誕生していました。

 


画像:https://4travel.jp/travelogue/10405067

 

少し気になったので調べてみると、石原典子さんが生まれた母方の実家のある広島市西区己斐エリアから原爆ドームまではおよそ10.4㎞車でわずか17分という距離にありました。

 

 

もともと石原典子さんが広島の母方の実家で生まれた経緯としては、父親である石田光治さんが東洋麻糸という落下傘の紐などを製造する紡績会社の彦根工場に赴任していた為、おそらくその時期までは滋賀県北東部にある彦根市に家族は居住していたようです。

 

 

◆父親は召集令状を受け、中国戦線に出征、娘・石田由美子が生まれ、国家総動員法施行の年に戦死 画像

 

けれども、その父親の石田光治さんが召集令状を受け、中国戦線に出征したため、身重の母親・石田まさ子さんが広島の実家へ身を寄せて1938年1月に出産したという事です。1938年というと第1次近衛内閣によって5月5日に「国家総動員法」が施行されています。

 


画像:twitter

 

国家総動員法とは?

日中戦争の長期化による総力戦の遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。
引用元:Wikipedia

 

結局、父親・石田光治さんは娘の石原典子旧姓本名:石田由美子)さんが生まれてから約10か月後の秋に中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で亡くなってしまったそうです。娘を一度も抱くこともないまま無念の想いで他界されています。

 

その後、どの時期かの詳細は不明ですが、石原典子さんの一家は神奈川県へ転居し、石原典子さんは鎌倉、金沢八景、逗子でその後の幼少期を過ごしたようです。

 


画像:いつもNAVI

 

石原慎太郎さんとは、少なくとも石原典子さんが小学生の頃に(おそらく逗子で)出会っているため、1950年頃までには神奈川県へ移転していたことになります。父親の戦死後すぐに転居されていたのかもしれませんが、

 

母親としての目線で考えると、生まれたばかりの乳児を抱えて、仕事もあるかどうか、また勤められるかどうかも分からないのに不慣れな土地へ転居するというのはあまりにも不自然であるため、終戦の1945年前後の時期までは広島県に居たのではないか?と思うのが自然かなとは思います。

 


画像:http://globe.hatenablog.com/entry/2015/08/19/202219

 

終戦の時に石原典子さんは7歳になる年、ということでとても過酷な幼少期であったことは間違いないでしょう。のちに一度も会う事のなかった父親の面影を追いかけるように、2010年『君よわが妻よ:父石田光治少尉の手紙』という本を72歳という年齢で出版されています。

 


画像:http://www.a50.gr.jp/jp/2ndwar.html

 

日本では、310万人の生命が失われ、1,000万人以上もの人々が家を失ったといわれます。主要な都市はほとんど焦土と化し、街の至る所に焼け爛れたトタン板を使った急造のバラックが散見されました。(中略)

街には戦災孤児や失業者が溢れていました。
(中略)腹を空かした子供たちが、街中で、通りすがりの進駐軍兵士たちにガムやチョコレートなどをねだる光景もあちらこちらで見られました。
引用元:http://www.a50.gr.jp/jp/2ndwar.html

 

これだけ長い間、人生のほとんどの時間をその声も知らない父親への想いを抱き続けて生きてこられたという事かと思います。子供の親に対する焦がれた想いというものを感じずにはいられません。

 

昭和の戦争前後の時代の女性の生きざまが分かるドラマ『おしん』の若い頃のお話、あらすじはこちら

 

◆石原典子の将来の旦那・石原慎太郎の若い頃は父親・石原潔の勤務する山下汽船の転勤で北海道小樽市、神奈川県逗子市へ移住 画像

 

一方の石原慎太郎さんはというと、父親の石原潔さんと母親の石原光子さんの間の長男として1932年(昭和7年)に兵庫県の神戸市須磨区で誕生しており、実の弟・石原裕次郎さんもその地で2年後に誕生しています。

 


画像:wikipedia

 

当時は父親・石原潔さんが勤めていた海運会社である山下汽船の社員寮に一家は暮らしていたそうです。社員寮と言っても中産階級以上の人が住むエリアであり、社員寮も立派だったという情報です。

 


画像:ジャパンアーカイブ

 

石原慎太郎さんの誕生から5年後には石原一家は父の会社の辞令で北海道の小樽市に移転していたようです。やがて1942年には、父親の石原潔さんは貿易港として重要度の高くなった北海道小樽市の小樽出張所の長となり、翌年には小樽出張所は小樽支店に格上げされ山下汽船初代小樽支店長として赴任しています。

 

しかし、2か月余りで東京支店副長の辞令があり、それに伴い、石原慎太郎さんを含め家族は転居しています。石原慎太郎さん一家は数年間を北海道小樽市で暮らしていました。

 

 

◆「石原家」が神奈川県逗子市へ転居、12歳の石原慎太郎が進学した湘南中学がエリート「海軍士官」を志す神奈川県イチ一流画像と、その頃に出会った未来の妻・石原典子

 

そして、日本の敗戦間近となる1945年の4月までに今度は父親・石原潔さんは子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改称)に転出となったことで一家は神奈川県逗子市へ転居

 

その春から中学生となる石原慎太郎さん(当時年齢12歳)は神奈川県一の名門校であった神奈川県鵠沼の湘南中学へ入学しています。

 


画像:http://210.136.153.187/novel/novelm.html

 

海軍高級士官の子弟が多く通う
海軍士官養成所のような学校。

 

石原慎太郎さんが進学した名門湘南中学校海軍士官を志す者が通う「エリート養成所」のような学校だったようで、戦争の最中にもその教育や育成が優遇されているような学校だったようです。

 

他の中学校の生徒は1年生の時から工場に動員される世情でしたが、石原慎太郎さんの通う湘南中学では一般授業が継続して行われており、戦争のさなかでも生徒達には英語の授業が施されており、教師も生徒に対し、「海軍士官」を志すことが至上のものであるという教育を行っていたそうです。

 


画像:石原光子

 

それとは別に、石原慎太郎さんが中学生だった1945年~1947年の間までに、未来の妻となる当時小学生の石原典子さんとすでに出会っています。

 

石原慎太郎さんの母親・石原光子さんと、石原典子さんの母親・石田まさこさんが母親同士が知り合いだったという話ですが、石原慎太郎さんの母親がテレビ番組で放送された『グレートマザー物語』では広島県の生まれと紹介されていたという事なので、母親同士も故郷を同じくする者として気が合ったのかもしれません。

 


画像:『君よ わが妻よ』表紙

 

こちらは石原典子さんが後に書かれた著書『君よ わが妻よ』の表紙の女性ですが、おそらく石原典子さんの母親である石田まさ子さんの肖像ではないかと思われます。とてもお綺麗な方です。

 

石原良純さんにとってお婆ちゃんとは長男の石原伸晃さんと大学時代にカナダへ行った事があるようです。

 

 

石原典子さんの回想にも中学生だった頃の石原慎太郎さんについてのくだりがあります。

また、石原典子さんが12歳の頃には、石原慎太郎さんという男性は淡い恋心をいだく対象だったという話でした。6歳差のお二人ですから、当時の石原慎太郎さんは18歳ということになります。

 

旦那・落合博満の三冠王を支え、年収を100倍にした嫁・落合信子さんのお話はこちら

 

◆若い頃の石原慎太郎の日本敗戦後のおちこぼれ湘南高校時代の父親の病死と公認会計士を目指し一橋大学への進学、妻・石原典子の高校時代 画像

 

将来の妻となる石原典子さんから淡い恋心を抱かれていた高校時代の石原慎太郎さんはというと、最初の人生の苦境に立たされていました。終戦後の日本では価値観ががらりと変化し、石原慎太郎さんは新制「湘南高校」へ進学します。

 


画像:https://kirakuossa.exblog.jp/23786783/

 

ところが進学後2年間はサッカー部に所属し、レギュラーとして活躍していたこともあってか何とか高校へ通っていたようですが、学校教師たちがちぐはぐの民主主義を説き、東大への進学「国の役人」になることを強要する体質にうんざりし、学校へ行くのが嫌で嫌でたまらなかったそうです。

 

そして、石原慎太郎さんは湘南高校3年生になると元々以前から弱かった胃腸の不良を仮病の理由にし、なんと1年間もの長期間、高校を休学してしまいます。一方で、この青年時代の葛藤が作家としての豊かな感性を育む大事な時間をもたらしてもいます。

 


画像:http://210.136.153.187/novel/novelm.html

 

その頃、石原を捕らえて離さなかったものは、サンボリズムの詩シュールレアリズムの絵であった。石原は絵を描き、芝居やオペラを観、真昼間から映画鑑賞に耽り、フランス文学が好きという理由からあてもなくフランス語の勉強をしたりしていた。

引用元:http://210.136.153.187/novel/novelm.html

 

1年後に高校3年生を
復学した矢先、
父親が他界

 

石原慎太郎さんの父親は前述のように山下汽船へ入社して14歳という年齢で店童 (てんどう)と呼ばれる身分から最後は関連会社の重役にまで出世するほどの人材として働き続けました。

 

けれども、体に悪いと知りながらも仕事の付き合いである酒をやめられず、1951年の10月(享年51歳)で若くして亡くなってしまいます。石原慎太郎さんの年齢はその時19歳でした。

 

 
もちろん父の会社からは弔慰金が支払われ、それ以外にも父の仲間が私たち兄弟の大学までの資金を積み立ててくれた。
しかし、慶應の付属高校に進んでいた弟が友人に見栄を張って放蕩し、家計はどんどん傾いていく。この時から長男として一家を背負って立つ意識が芽生えるようになり、学業や部活動の傍ら、家庭教師のアルバイトをして生計を立てた。
 
引用元:https://ameblo.jp/abcd5963dcba/entry-12482001801.html
 

 


画像:https://ameblo.jp/hoseiyakyuubukenkyuu/

 

大黒柱を失った「石原家」は破綻の危機が迫っていましたが、経済観念のない母親と放蕩を繰り返す弟の間で葛藤し、一家の生計を担う為、公認会計士になろうと決心し、最も有利であると言われていた一橋大学進学へ進学します。

 

ところが、公認会計士という職業について学んでいくと、全くもって自分には不向きであるということが分かり、半年ほどでその匙を投げてしまったということでした。そこからは様々な職業について検討しては、バツ印をつけていく日々だったようです。

 

暗中模索の大学時代。

 

一方の石原典子さんが高校に進学した頃(年齢15歳)になると、いつのタイミングかは分かりませんが石原慎太郎さんとの交際が始まっています。

 

 

その後、高校卒業後の17歳で結婚することになるわけですが、交際相手の石原慎太郎さんの精神状況が青年期と家長しての重圧でかなり不安定だったことが伺えますので、その精神的な寄り添いを続け、自身が集中して学びたいことは後回しになる状況だったのではないかと推測されます。

 

⇒次ページ【若い頃の石原慎太郎さんと石原典子さんが結婚!子供たちや家系が凄いことに!】

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