2019年のNHK朝ドラ『おしん』の再放送で泉ピン子さんの昔若い頃がかなり美人!ということが話題となっています。
今回は泉ピン子さんの若い頃の美人っぷりと女優として花が咲くまでの経緯、歌謡漫談家として師匠・牧伸二の付き人をしていた頃の下積み時代、師匠との決別について調べました。
◆泉ピン子の昔が別人!橋田寿賀子ドラマ最高傑作ドラマ『おしん』2019再放送で「若い頃美人説」が浮上!かわいいと話題!当時の年齢は?写真ツイッター画像
2019年は若い頃の泉ピン子さんも出演するNHK朝ドラ『おしん』の通年放送が実現し、おしんの生きざまに共感し、勇気を貰える!と既に令和おしんブーム再来を起こしています。

いつもパワーみなぎる泉ピン子さん
画像:ライブドアニュース
泉ピン子さんが
若い頃、美人だって??
その中で、おしんの母親役を演じた泉ピン子さんが『おしん』のドラマの中で目を疑うほど美人だ!ということが話題となっています。私の知人男性もちょうどおしん通年再放送を観ており、
「なんだか、良く分からないけど、徐々に泉ピン子さんが美人に見えてくるのは俺だけ??」
と語っておりました(笑)。早速見ていきましょう!こちらが報告されている『おしん』の泉ピン子さん!?
画像:twitter
ひょえー。間違いなく美人!!
もう一枚!

『おしん』でおしんの母を熱演する泉ピン子さん
画像:twitter
おおー。
動画でも『おしん』視聴者に素敵な泉ピン子さん動画をあげてくださってる方の投稿がありました!
画像:twitter
外見もそうですが、『おしん』ドラマ内で我が子おしんを想う、母親としての切ない感情表現が、泉ピン子さんの素晴らしい演技によって見事に表現されており、ドラマの魅力を盛り立てていることも理由の一つのようです。
当時の泉ピン子さんの年齢はなんと放送開始時で36歳になる年!ですから、撮影時は34-35歳ほどだったと思われます。

2019年の再放送で初めておしんを見た男性が「泉ピン子が可愛いくて好きになりそうになった自分にビックリした…。」と語っていましたw
◆橋田寿賀子ドラマ大御所女優の泉ピン子も若い頃『おしん』ではセリフが飛んだ?子役の小林綾子がサポートの昔エピソード!
泉ピン子さんと言うと、今でこそ橋田寿賀子ドラマ常連出演の大御所女優さんというイメージですが、1983年に放送されたNHK朝ドラ『おしん』出演の際はまだ若手だったということで、そうした若い頃ならではのエピソードも残っています。
画像:NHK公式
橋田寿賀子さんのドラマは、1人1人の役者のセリフが何ページにも及ぶ長台詞となるため俳優陣泣かせの台本だという話は有名です。
ただでさえ長い台詞に主演という立場で出演した『おしん』の子役時代を務めた女優・小林綾子さん(当時10歳)も、学校へ通いながら約1か月で主演6週間分もの台詞を覚えなくてはならなかったことがとても大変だったというお話をされています。
画像::NEWSポストセブン
しかし、もともと記憶力がよかったことに加え、小林綾子さんは毎日のように母親と一生懸命練習したことで、撮影時には自分以外の登場人物のセリフもすべて丸ごと記憶していたということです。
そして、ある撮影の日に泉ピン子さんがとあるシーンでセリフに詰まってしまった場面があり、それを小学生の小林綾子さんに教えて貰ったのだそうです。小林綾子さんは大人になってからこんな風に話します。
「母ちゃん、次はこういうせりふだよ」と教えてあげました。よかれと思ってふと出た言葉でしたが、後になってスタッフから、「あの時はピン子さんを傷つけてしまったようだ」と教えられ、失礼なことをしてしまったと、反省しています。
引用元:NEWSポストセブン
小林綾子さんもそうして小さい頃かが芸能界の俳優陣に囲まれ、空気を感じながら育った大女優さんとなりました。
◆泉ピン子は『おしん』で世界各国でオシンマザーとして国賓扱いでの歓迎されているらしい!橋田寿賀子とも仲良し
『おしん』は初回放送時、日本国内での平均視聴率は52.6%、最高視聴率62.9%となる統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録を現在でも保持している歴史的大ヒットテレビドラマでしたが、なんと現在では日本にとどまらず世界各国で愛されているドラマとなっており、外国の方々もおしんが大好きなのだそうです
画像:NHKオンデマンド
国内でドラマ『おしん』が放送中には、ドラマと現実の区別がつかなくなった熱狂的な視聴者が多数発生したそうで、ドラマ以外にもそうした『おしん』ブームを象徴した事柄がたくさんあったようです。
ストーリーでは貧しい農村に生まれたおしんがたった米1俵で過酷な環境の奉公先へやられてしまうシーンなどがあり、「これでおしんを取り返してやって欲しい」と国内の視聴者から子役時代のおしん役の小林綾子さんやおしんの母親・ふじ役を演じた泉ピン子さん宛てとして、白米や多額の金銭がNHK放送局へ送ってこられるという事象もあったそうです。
画像:NHKオンデマンド
泉ピン子さんも放送された国々へ行くと小林綾子さんと共に大歓迎を受けることもあったようです。
泉ピン子さん、海外旅行したら凄い反響があったって言ってましたね。同行していた橋田壽賀子さんが「私が作者なのにみんな無視・・・」って不満だったそうです。#おしん、泣ける(T-T)
— suzuki hiroco (@hiroco2003) May 8, 2019
橋田寿賀子さんが泉ピン子さんを「全然友達じゃない」というのはこの為でしょうか?(笑)
画像:日経新聞
橋田寿賀子とはプライベートでも一緒に旅行に行くなどの交友があり、橋田寿賀子の熱海の家に遊びに行くうちに泉も熱海にマンションを購入し移住することとなった。だが橋田寿賀子は泉ピン子に対して「全然友達じゃありません」と『ビートたけしのTVタックル』出演時のインタビューにて語っている。
引用元:Wikipedia

「全然友達じゃありません!」(笑)
余談ですが、友達ではない割には橋田寿賀子さんの豪邸ご自宅のある静岡県熱海市に泉ピン子さんも熱海パサニアクラブマンションを購入し、自宅として旦那さんと暮らしているようです。
画像:https://tomami.net/izumipinko-jitaku
噂によると、かなりいい部屋でも3000万円前後で購入できるマンションのようですが、リノベーションにその数倍かけており、1億円ほどかかったのではないか?と言われています。
画像:ステーキハウスはまだ
また、熱海ご自宅の近所にある「ステーキハウスはまだ」という鉄板焼きのお店で橋田寿賀子さんと泉ピン子さんは30年以上通っているというお話です。

いつも全て橋田寿賀子さんのおごりだとか(笑)
◆泉ピン子の若い頃の「結婚に関する名言」に女優魂がこもってる!昔演じた『おしん』での入水シーンは橋田寿賀子直々の依頼から。写真
泉ピン子さんの『おしん』での名シーンと言えば、貧困で育てることができない子供を懐妊してしまった泉ピン子さん演じる母親・ふじが子の堕胎の為、真冬の寒い川へ入水するというシーンです。
画像:NHKオンデマンド
そのシーンの撮影については、泉ピン子さんは橋田寿賀子さんから出演依頼を受けた際から直々にそのような真冬に極寒の川に入水するというかなり体を張った過酷なシーンについて挑戦してほしいという依頼があったようです。泉ピン子さんとしてもまだまだ出産が可能な若い年齢であり、大事な年頃だったはず…。
画像:twitter
しかし、
女優生命をかけて
泉ピン子さんはその大役を受けます。
1988年(年齢:41歳)に出演された「徹子の部屋」で当時まだ独身だった泉ピン子さんが結婚について尋ねられた際にも、その女優としての強い信念のようなものがありました。
画像:https://blog.goo.ne.jp/66setuko/e/223db8d66149bb3be71b17e7aa105465
「幸せは両方の手に乗りませんから、女優は結婚しなくてもいいんです。」
あの『おしん』での過酷な名シーンも、その後の自分自身に起こるかもしれない私生活の事を考えるとなかなかまだ未婚の女性に覚悟できる内容ではないのかな、と思うと同時に、そこまでの覚悟を抱いて演じた狂気のシーンであったことを改めて感じます。
6時間にも及ぶ撮影で
数か月生理が止まった泉ピン子。
画像:https://blog.goo.ne.jp/66setuko/e/223db8d66149bb3be71b17e7aa105465
■『おしん』泉ピン子さんの伝説の川の名シーンについてはこちら
つまり、あのシーンを受けた段階で、泉ピン子さんは女優としての人生を最優先にしていくこと、その為であれば私生活のその他の事まで手に入れようとは思わないというような覚悟があったのかもしれません。
◆若い頃の泉ピン子は学歴を追わず高校卒業後に地方興行へ。キャバレードサ回り!過酷なギター漫談家下積み時代があった。年齢とエピソード写真
泉ピン子さんは品川区立日野小学校→品川区日野中学校と進学した後、芸能界に憧れて日本音楽高等学校を中退し、18歳を迎えた1966年、ウクレレ漫談家である牧伸二氏に師事して歌謡漫談家としてデビューします。
その頃の泉ピン子さんは…というと…

18歳という若い頃の泉ピン子さん
わっほ!かなりの迫力!
ティーンズとは思えない「およげ!たいやきくん」の子門真人さんに近い空気。
画像:https://career-find.jp/archives/158598
同じ惑星!
今ならこれだけでも注目されそうな絵づらの泉ピン子さんですが(笑)当時はデビューと言っても、師匠・牧伸二氏は神様のような存在で、誰も逆らえないような人物であり、その師匠の付き人として同行する日々は過酷さを極めていたという話です。
画像:https://トレンド芸能ニュース.jp/izumi-pinko-13363
ピン子さんは雨のときでも傘をさすことすら許されず、牧さんの荷物持ちをさせられていました。地方キャバレーのドサ回りの際も、彼女には宿も用意されませんでした。
引用元:NEWポストセブン
そして、泉ピン子さんにとって芸能界への下積みとして師匠・牧伸二氏の付き人をしていた期間は約8年にも及んでいたそうで、その時代はキャバレーのドサ周りが続く生活だったようです。
寝泊まりはキャバレーの楽屋なんです。当時、ピン子さんはまだ20代。夜な夜なキャバレーの経営者が夜這いに来るので、ビール瓶を片手に、震えながら寝ていたそうです。
引用元:NEWポストセブン
泉ピン子さんのキャバレーでの出演に対する報酬はおよそ1日500円前後だったと言われています。
画像:https://i-article01.com/2016/08/23/泉ピン子の病気の真相がヤバイ牧伸二を許さない/
そして、地方キャバレーでの舞台では、泉ピン子さんがステージに立つこともあったようなのですが、肝心の漫談をせっかく披露しても、キャバレーのお客さんからは「ブス、引っこめ!」というような野次が飛び交う事が常で、時にはテーブル上の料理を投げつけられることも日常茶飯事だったと言われています。

これは日々安眠することすら許されず、大変な日々だったことが想像できますね。
さらに、当時、泉ピン子さんが牧伸二氏の付き人として貰っていた給与は月に8,000円だったと言われており、住んでいた四畳半の部屋の家賃がちょうど月8,000円だったという話です。
当然それだけでは暮らしていけないことから、昼間に師匠の付き人をする一方で、深夜には飲食店の皿洗いのアルバイトまでしてようやく何とか生きていけるという生活をしていたと言われています。

1972年 あさま山荘事件当時の泉ピン子さん
出典:ザ・テレビジョン
また、2017年に『渡鬼』シリーズのパチンコ台が発表された時には泉ピン子さんはキャバレー回りの時代についてこんなお話もしています。
画像::デイリー
泉ピン子は
売れない時代
パチンコで食べていた!
「キャバレー回りをやってた頃、空き時間はパチンコ屋にいた。売れてない時はずっとパチンコで食べてましたね」とブレーク前の漫談家時代のエピソードを披露。
引用元:デイリー
芸人をつくるには
10年かかる
そんな信念を貫いて愛弟子の泉ピン子さんにも厳しさを貫いていたという師匠の牧伸二氏でしたが、本当にその言葉通り…ともいうべきなのか?泉ピン子さんが世間の注目を浴びる転機となったのは1975年という年の事でした。牧伸二氏の弟子になって9年目の事でした。

師匠・牧伸二氏と泉ピン子さんとの決別騒動については後述します。
◆泉ピン子下積み時代は、ブスリポーターでのブレイクが転機!芸名となった名前の由来は麻雀牌のイーピン?当時の年齢、本名は?国籍は?昔の可愛い写真
泉ピン子さんというと、最初に気になるのが芸名である「泉ピン子」というかなり個性的なお名前です。そのお名前が付くまでにいくつかの経緯があったようです。
画像:NHKオンデマンド
泉ピン子さんが歌謡漫談家として牧伸二氏の元デビューした際の名前は三門 マリ子(みかど まりこ)の芸名だったそうですが、駈け出しの前座歌手時代には泉小百合(いずみ さゆり)の芸名を一時使っており、1975年になると泉ピン子さんはテレビ番組のリポーターとして活躍を開始し、そこから泉ピン子と芸名を改名したそうです。
泉ピン子さんの現在の本名は武本小夜(たけもと さよ)さんと言うそうです。旧姓は江口さんだそうです。
画像:https://lime7.fun/5950.html
泉ピン子さんの国籍は日本で、中央区銀座のお生まれのようです。父親、継母共に浪曲師で、叔母(父親の妹)は漫談家、その旦那は落語家の4代目桂福團治氏だということで、泉ピン子さんの芸能活動のルーツとして影響を与えているようです。
父は命名する時、『小夜』と書いて『いざよ』と読ませる名前にしたかったが、区役所に受け付けてもらえず断念した。
泉は後になって自分の名前について「画数が結婚出来なさそうな後家の相が出てる」と父に話したところ、父に「そのために名付けたんだ」と言われたという
引用元:Wikipedia
また、泉ピン子さんは実母を2歳の時に亡くされているのだそうです。
しかし、実母とはあまりに小さいときに死別したため、その後父親が再婚し、後妻を迎えていたことを知らなかったのか、泉ピン子さんが継母を実母ではないと知ったのは小学校4年生の時だったということです。
画像:twitter
泉ピン子さんの継母にあたる三門お染さんは泉ピン子さんをそれだけ実の娘のように責任をもって育ててくれた女性だったということです。
おしんの母親役に対し、泉ピン子さんの演技にあれだけの熱意が込められていたのも、母と娘の関係について泉ピン子さんが色々と体験し感じてきた思いがあったのかもしれませんね。
画像:NHKオンデマンド
泉ピン子という芸名の由来はもともと「芸人」を目指していた泉ピン子さんでしたので、表向きは
「芸人にはピンからキリまであるのだから、志しの一番なピンの芸人になれ」
引用元:Wikipedia
という意味があったのだそうです。そして、もう一つの芸名の由来として面白いものに「顔が丸くて麻雀牌のイーピンみたいだから」ということがあったそうです(笑)。
イーピンってww

イーピン牌
また、もう一つの理由として、「泉」という苗字は過去に芸名で売れた芸人がいないから、試してみよう!と言われたという理由で牧伸二氏から名付けられたと言われています。
その、イーピン時代、1975年の泉ピン子さんがどんなお姿だったか?ということで、当時28歳という写真がありました!女性の美しさが輝いているはずの年齢!

若い頃の泉ピン子さん
画像:twitter
まさにイーピン!
隠しきれない絵づらの破壊力(笑)!

輝いてはいる!
泉ピン子さんは、18歳から28歳という女性の一般的なゴールデンシーズンを、確かに牧伸二氏のおっしゃる通り、イーピンでお過ごしだった模様(笑)これではなかなか泉ピン子さんは「美人のイメージ」へ転換とはいかなかったのだと思われます。
ちなみに…泉ピン子さんと現在でも親交のあるデビュー当時の和田アキ子さんがこちらです。(1968年 当時18歳)
和田アキ子も
若い頃すごかったw

デビュー当時の和田アキ子さん
画像:pinterest.jp
!!!
空気だけ見たら同じ星にいる感!!
荒れ方に近いものが(笑)!
画像:twitter
それゆえに、大人になっても何かと仲良しの泉ピン子さんと和田アキ子さんです。泉ピン子さんは和田アキ子さんのことを「アッコちゃん」と呼んでいるそうです。(笑)。お二人ともそれぞれ「結婚生活」において大きな試練があったようです。
和田アキ子さんは公式では1950年生まれですが1949年生まれと言われていますので、それが事実だとすると1947年生まれの泉ピン子さんとは2歳違いということになります。
■和田アキ子さんと旦那さんに結婚後すぐに訪れた夫婦の試練のお話はこちら
1975年に日本テレビ『テレビ3面記事 ウィークエンダー』の番組リポーターを担当したのを機に泉ピン子と改名。
引用元:Wikipedia
そうして
転機となった1975年でしたが
欠員が生じた日テレの番組『テレビ3面記事 ウィークエンダー』で、泉ピン子さんは漫談家だけに話しぶりの面白さを買われて起用されるというチャンスを得ます。
ブスレポーター
としてブレイク。
しかし、泉ピン子さんが担当するリポートは初回からことごとく下品な印象を与える下ネタ中心になっていた時期があったようで著名人女性で構成される社会運動団体『新日本婦人の会』が選ぶ「ワーストタレント1位」として選ばれてしまうような状況もあったようです。
画像:https://i-article01.com/2016/08/23/泉ピン子の病気の真相がヤバイ牧伸二を許さない/
なかなかの汚れ仕事。
また同年、現在へ続くテレビドラマデビュー、つまり女優としての活躍もスタートした泉ピン子さんだったようなのですが、
「美人でなく、知的でもなく、金もない“3ナイ女優”を探していた」
出典元:Wikipedia
女優業スタートの初期である1975年、鴨下信一氏演出のテレビドラマ『花吹雪はしご一家』に出演することになった際にかけられた言葉はこうだったそうです。
ひどい言われよう(笑)。

こんな屈辱的な言われ方をしていた泉ピン子さんが大女優になってしまうのですから、人生いつどうなるか分からないものですね。
女優デビューは、同年のTBSドラマ。 下は77年の歌手デビュー曲 「哀恋蝶」。
画像:twitter
なかなか写真では妖艶な印象の泉ピン子さんです(当時30歳)

「哀恋蝶」の泉ピン子さん
画像:twitter
若い頃から泉ピン子さんは芸人としてのイメージ戦略かもしれませんが、「ブス扱い」が定番となっていたようです。しかし若い頃の泉ピン子さんのお姿を見るとかなり素敵な女性らしい顔立ちをされています。
◆泉ピン子の昔出演した大河ドラマ『おんな太閤記』で奇跡の壇蜜似でカワイイ!?そっくり!ツイッター話題画像!その時の年齢は?
さらに、泉ピン子さんの「若い頃美人だった説」を裏付けするような内容が徐々に発掘されました。
岸本加世子 のり平 森さん 泉ピン子 小野田先生 pic.twitter.com/He4h03XvW0
— のり一 (@noribiyori) September 30, 2017
イーピンからの
美女転換が凄いことに!
1978年『男はつらいよ』出演時の若い頃の泉ピン子さん(年齢:31歳)
もちろん泉ピン子さんがマドンナ役ではありませんが(マドンナ役は大原麗子さん)この時には寅さんに失恋を慰められる年頃の女性、小嶋瞳という役を演じています。
さらに、1979年の出演映画『関白宣言』での泉ピン子さんの姿がこちら!(年齢:32歳)

山口百恵さんか!?と見間違うほどの泉ピン子さん
画像:pinterest.jp
当時の大スター山口百恵さんと見間違うほどの美人オーラを泉ピン子さんは発しています。
最も驚愕の画像は『おしん』の放送開始の2年前1981年のNHK大河ドラマ『おんな太閤記』での泉ピン子さんがこちら!(年齢:34歳)

若い頃の美しい泉ピン子さん
画像:NHKオンデマンド
この画像に、泉ピン子さんと壇蜜さんが近いミラクル!!
とtwitter上で話題となりました。
泉ピン子の壇蜜感。 #おしん #nhk pic.twitter.com/P1D2XhQExC
— Saitoh Masaya (@MS3110) April 26, 2019
確かに近いものが!

若い頃の美女感を漂わせる泉ピン子さん
画像:NHKオンデマンド
『おしん』時代の1984年の泉ピン子さんに至ってはこの美貌!(37歳)
画像:https://candy17.club/19094.html
これは「美人」というのでは??
いやホントに壇蜜さんと近いものが!

壇蜜さん

色気にも瞬間的に共通点が!
■壇蜜さんの若い頃の経済的自立のための資格・免許取得や職業のお話はこちら
次に珍しいセーラー服姿の泉ピン子さんを。1987年から放送された橋田寿賀子ドラマの『おんなは一生懸命』での1シーンです。(年齢:40歳)

1987年 『おんなは一生懸命』主演・山辺江梨役の泉ピン子さん
画像:twitter
さすがに制服は無理目ですが(笑)泉ピン子さんの年齢不詳感から言うとありかもしれません。同じく、1987年から放送の『おんなは一生懸命』での泉ピン子さん(年齢:40歳)
画像:https://koimousagi.com/4272.html
40歳でこれは若い!!
◆若い頃は確かに壇蜜に近かった美人女優・泉ピン子が、最近似ていると密かに言われている一流芸能人がGACKT!?画像
若い頃の泉ピン子さんは妖艶美人女優の壇蜜さんにそっくりという事でしたが、最近の泉ピン子さんもある意味カリスマな一流芸能人に似ているということで…。

かわいらしいイメージの泉ピン子さん
それは一体誰だ??というお話ですが、ナントこちらも意外な一流芸能人でした!
画像:Twitter
泉ピン子さんが似ていると言われているのが誰かというと、なんとGACKTさん!

え‐そんなに似てるかな??
とおもいきや・・・。
じゃん。

GACKTさんに寄せてきた泉ピン子さん
画像:twitter
た、確かに
GACKTだ(笑)。

芸能人格付けスペシャルに出演する泉ピン子さんとGACKTさん
画像:twitter
同じ画面で奇跡の共演もしていました!泉ピン子さんとGACKTさんレンジャーぽいですねw
■司会の浜田雅功さんと妻の小川菜摘さんご夫婦の浮気事件と円満の秘訣はこちら
◆泉ピン子の下積み時代のウクレレ漫談家の師匠・牧伸二と事務所への反発からの独立、その後の関係修復せずに決別したまま師匠は自死。その胸中は?
泉ピン子さんのその後の出来事として大きな節目となったのは、『おしん』で女優として大ブレイクした後の独立騒動だったようです。
なんでもそこから女優として事務所の稼ぎ頭となった泉ピン子さんでしたが、下積み時代のあまりにも圧迫した経済状況での苦悩、そして師匠・牧伸二の長い付き人生活が大変過酷な時代だったためか、金銭感覚が麻痺してしまい、ブランド物を衝動買いする時期が続いたようです。
全身シャネル時代到来。
それは1999年(年齢:52歳)に所属事務所からの泉ピン子さんの借金総額が3億5000万円を超えたと報じられてもなお続きます。結局、借金を事務所に残したまま独立したと言われており、その後4年もの裁判が続いたそうです。
3億5000万円の負債額!
「堪忍袋の緒が切れた事務所側は、それ以上お金を貸すことを拒否し、肩代わりしていた自宅の公共料金の支払いもストップした。これに激怒したピン子さんは、師匠である牧さんにも黙ったまま、事務所を飛び出す形で独立したんです」(前出・芸能関係者)
出典元:NEWポストセブン
その後、実は泉ピン子さんと師匠の牧伸二氏は泉ピン子さんの独立問題(2000年前後)をきっかけに絶縁状態となったと言われています。
そこには苦しい下積み時代の日々に感じた泉ピン子さんの何らかしらの師匠・牧伸二氏に対する特別大きな失望感が影響したようで牧伸二氏にも黙ったまま、事務所を飛び出す形での独立となったと言われています。
画像:https://i-article01.com/2016/08/23/泉ピン子の病気の真相がヤバイ牧伸二を許さない/
またそんな形で独立した泉ピン子さんに対し、師匠の牧伸二氏も怒り心頭であり、さらに泉ピン子さんがインタビューの取材に対し、自分にとって恩師は杉村春子先生と語り、
実の師匠だった牧伸二氏の名前はおろか、漫談歌手時代の話すら何ひとつ出なかったことに対し、「あまりにも恩知らずだ」と泉ピン子さんを破門にしてしまったという経緯もあったそうです。
愛弟子・泉ピン子を破門に。
そして、泉ピン子さんの師匠だった牧伸二氏は2002年(当時泉ピン子さんの年齢は55歳)には脳梗塞で倒れ、2013年(泉ピン子さんの年齢:66歳)牧伸二氏は自宅から2キロの距離にあった多摩川に身を投げて亡くなっています。享年78歳でした。
泉ピン子さんは2002年の脳梗塞の際にも見舞いにはいかず、亡くなってからも線香1本どころかお悔やみの言葉すら寄せなかったと言われています。
この経緯について、週刊誌メディアも同じ漫才の人々からも泉ピン子さんは理にかなっていない逆恨みだと猛批判を受けることになりました。しかし、ただ一人、泉ピン子さんは沈黙を守ったと言われています。
画像:https://atmatome.jp/u/rameka/41uqwv0/
泉ピン子さんが最初のブレイクをした情報番組『テレビ三面記事ウィークエンダー』でのリポーター抜擢の際は、牧伸二氏の付き人としての仕事から解放された直後でしたが、その頃のインタビューではまだ牧伸二氏を師匠として話の中で語っており、
『実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな』というように、売れても礼儀を忘れるんじゃない。
引用元:https://blog.goo.ne.jp/wag18470/m/201305
そう、師匠に言われたという話を泉ピン子さんはしているようです。ですから、ここまでは師弟関係としては特に信頼が大きく壊れていたということはなかったのかなと思えます。
画像:https://blog.goo.ne.jp/66setuko/e/223db8d66149bb3be71b17e7aa105465
それが、ここまでの信頼関係の崩壊へ至ってしまったのはその後の泉ピン子さんの人生の中で、特別信頼関係を大破壊させる「何か」が起こったか、発覚したかではなかったかと想像します。
それが一体「何」であったかは
沈黙を守った
泉ピン子さんしか分かりません。
画像:https://asajo.jp/excerpt/71537
◆苦しかった若い頃の下積み時代を「人生であの時が一番楽しかったかもしれない」と振り返り語る泉ピン子
しかし、時は過ぎ、2018年(年齢:71歳)出演映画「あなたの旅立ち、綴ります」のトークイベントにおいて、泉ピン子さんは映画のストーリーにちなんで自身の下積み時代の出来事を話しました。
画像:映画.com
歌謡漫談家・泉ピン子
としての下積み時代の話を披露!
私が『男の人に裸を見せてつらいだろうな』と思っていたストリッパーのお姉さんに、『(歌謡漫談家として)キャバレー回りをするなんて、かわいそう』と言われ、価値観は人によって違うと思った。
引用元:http://bitabinabcz.jugem.jp/?eid=140
さらに、
そして、とても長く報われない辛い思いが多かったとされてきた地方キャバレーへのドサ回りが続く下積み時代について泉ピン子さんはこう語ったのです。
画像:https://eigajoho.com/161605
私の人生の中では
あの頃が一番
面白かったかもしれない。
「私の人生の中では、あの頃が一番、面白かったかもしれない。よくしてくださった方々に会いたい。」と、しみじみ語った。
引用元:http://bitabinabcz.jugem.jp/?eid=140
『おしん』ドラマや橋田寿賀子ドラマで数々の成功を達成し、女優として有名になった時代や、大女優として芸能界を生きてきた時代についてよりも、泉ピン子さんはとても苦労して報われない思いを沢山抱えた付き人の下積み時代が一番面白かったかもしれないと語ったのです。
画像:twitter
かつてのストリッパーのお姉さんとの価値観の違いではありませんが、若い頃の泉ピン子さんと現在の泉ピン子さんでは幸せに対する価値観が全く違うものになっていることを感じさせられる言葉です。
また、その辛い下積み時代について愛おしさすら抱いている今の泉ピン子さんは、周りには分からない沈黙の中で、きっと愛弟子としての祈りを捧げているのではないかと私は感じました。
また、下積み時代のVTRを見る機会があった際に、こんな話も泉ピン子さんはされています。その時の司会者が自分も売れない若手時代は辛かった、ピン子さんも辛かったですか?と問いかけると一喝。
辛いとき辛いと思うのは二流。辛いときに辛い顔をしてると売れなくなるぞ。
引用元:https://ent.smt.docomo.ne.jp/article/620792
とても長く、辛かったはずの下積み時代について、泉ピン子さんは現在、「辛い」という感情の向こう側の喜びと幸福感を噛み締めているようです。いつの時間も、本当はその時にしかない価値的なものというものはあるようです。たとえその時には「辛い」しか目に入らない時間だったとしても。

「幸せをもたらす手」 竹田光幸 2006年
人生は心が折れても、挑む旅。
■泉ピン子さんの家族愛についてはこちら↓

■泉ピン子さんの首振り症状についてはこちら↓

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