- ◆2019年(年齢35歳)モデル【山田優】はロサンゼルスへ拠点を移し、夫・小栗旬のハリウッド進出を支えつつ夫妻でセレブな生活の中、日本と行き来/海外移住の有名人・芸能人の今現在 画像
- ◆1959年(年齢19歳)スカルノ大統領元第3夫人【デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)】は「東日貿易の秘書」としてインドネシアへその後、フランス、アメリカニューヨークに拠点を移し、日本帰国/国際結婚した有名人・芸能人の今現在 画像
- ◆1961年(年齢29歳)タレント【松居一代】お騒がせ離婚後、投資で100億円以上稼ぎ、ニューヨークマンハッタン高級マンション・ONE57購入!/海外進出した有名人・芸能人の現在
- ◆1953年(年齢20歳)芸術家【オノ・ヨーコ】アメリカニューヨークで詩と音楽を学び、イギリス・ロンドンでジョン・レノンに出会う/海外留学した有名人・著名人の今現在
- ◆1961年(年齢29歳)ピアニスト【フジコヘミング】ドイツ国立ベルリン音楽大学へ進学するがヨーロッパ時代に貧困で聴力を失い絶望の時代へ。日本帰国後に起きた奇跡とパリ、ロサンゼルス、下北沢、京都の自宅/海外生活を選んだ有名人・著名人の今現在
◆2019年(年齢35歳)モデル【山田優】はロサンゼルスへ拠点を移し、夫・小栗旬のハリウッド進出を支えつつ夫妻でセレブな生活の中、日本と行き来/海外移住の有名人・芸能人の今現在 画像
山田優さんは夫で俳優の小栗旬さんと共に2019年にアメリカ・ロサンゼルス
の海外拠点へ引越されたようです。きっかけとなったのは旦那の小栗旬さんがハリウッド映画『ゴジラvsコング』に出演したことだったようです。
画像:女性自身
小栗旬はハリウッドスターになるの?
ロサンゼルスへの転居は、この映画をきっかけに、ハリウッドでの活躍経験を俳優として踏みたいという小栗旬さんの野心からのようです。日本の家は残したまま、ロサンゼルスでの新居での生活を始められたと報道されています。山田優さんももちろん子供たちを連れて更なる国際的なセレブを夢見てランランついて行った模様。
が。しかし
2020年
新型コロナウィルスが世界で大流行(;’∀’)
画像:映画.COM
4月頭には新型コロナウィルスによる米国での死者が4000人を超え、
食料品、薬局、病院、銀行以外の外出ができない状態に・・・。
しかも、アメリカは医療費で自己破産者が多数出る程、もともと医療費が超高額であり、住んで10年のべテラン住人であればともかく、まだ住んで半年ほどのにわか移住者、さらには欧米での差別が無くならないアジア人のご夫妻がこの苦境を迎えたとなると、だいぶシビヤなものとなったと言えそうです。
画像:MSNニュース
2020年4月
第3子を予定外で海外出産したらしいw
『ゴジラvsコング』の興行収入もどうなることか・・・。
もともと本作は2020年3月に米国公開予定だったが、複数回の延期を経て、米国公開日は11月20日の予定。
引用元:the river.jp
しかし、
ここは肝っ玉が違う強妻・山田優さんの腕の見せ所とも言えます。
画像:『スポニチ』2018年8月25日
是非、2020年は
コング・山田優の伝説を
世界へ見せつけて欲しい。
■山田優さんをはじめとした有名人芸能人の恐妻・強妻伝説はこちら↓

新型コロナになんか負けるわけない!
◆1959年(年齢19歳)スカルノ大統領元第3夫人【デヴィ・スカルノ(デヴィ夫人)】は「東日貿易の秘書」としてインドネシアへその後、フランス、アメリカニューヨークに拠点を移し、日本帰国/国際結婚した有名人・芸能人の今現在 画像
日本のバラエティ番組で現在でも大活躍中のデヴィ夫人は1959年に「東日本貿易の秘書」としてインドネシアへ送り込まれ、1962年に正式に当時大統領だったスカルノ大統領の第3夫人として正式に結婚を果たします。
画像:with on line
■デヴィ夫人の若い頃の結婚、恋愛はこちら↓

ところが、たった3年後の1965年9月にはインドネシアで軍事クーデターが起こり、スカルノ大統領は失脚。デヴィ夫人は1967年に都内の病院でスカルノ大統領の8番目の子供を出産後、フランスに亡命します。
画像:https://www.joseishi.net/2018/10/15/78964/
1991年にはアメリカ・ニューヨークへ移住、その後日本へ帰国を果たしています。世界を股にかけての壮絶な人生を生き抜かれたデヴィ夫人ですが、現代の日本人女性に不足している戦後の「生命力」と弱い女性が子供を守り生き残っていく「したたかさ」を存分に見せつけてくれる半生となっています。
弱いなら
生き残りに工夫が必要。
◆1961年(年齢29歳)タレント【松居一代】お騒がせ離婚後、投資で100億円以上稼ぎ、ニューヨークマンハッタン高級マンション・ONE57購入!/海外進出した有名人・芸能人の現在
松居一代さんというと、日本でもお掃除タレントとして「松居棒」をぶんぶん振り回しながらの元気なキャラクターが人気となるなど、どちらかというとポジティブで幸福感に満ちたタレントさんでした。
元旦那の船越英一郎さんと再婚された後には、息子さんと3人で大変幸せそうな家族の姿が印象的でもありました。
しかし、
夫とのバランスが崩れた途端に人格が豹変。
画像:ガールズチャンネル
誰がどこからどう見ても、
完全にコワレてしまった人へ突入。
生きるホラーだったw
画像:https://jonny.click
しかし、ココもオモシロいもので、
捨てる神あれば拾う神ありとでもいうべきか、
コワレタ人と
株やFX投資は
どうも結構相性がいいらしい
というのは本当だったっぽい(笑)
船越英一郎さんとの離婚後、どこでどう築いたのかは分かりませんが、松居一代さんはトランプ大統領が就任した時期には50億円とも100億円とも言われる資産を投資で形成することを達成。
現在では拠点を外国の不動産購入をきっかけにアメリカ・ニューヨークへ移し、マンハッタンの高級マンションを購入。松居一代グッズのビジネス展開に鼻息を荒くしているようです。
■松居一代さんをはじめとした有名人・芸能人の外国の不動産、海外投資についてはこちら
アメリカへの進出に
「命を懸けている」
とのこと。
画像:松居一代公式ブログ
その
ショッキングピンクの
カリフラワーみたいな生き方
キライじゃないわ(笑)
遠目で見る分には・・・。
是非アメリカでも、奇天烈な松居一代ブレイクを期待しています。
というか、国内でも上沼恵美子さんとデヴィ夫人、松居一代さんと松野明美さんあたりが人の話をさえぎって好き勝手語る「パラレルホラーハウス劇場」なんていうものがあったら怖いもの見たさで見てしまう気がします(笑)
◆1953年(年齢20歳)芸術家【オノ・ヨーコ】アメリカニューヨークで詩と音楽を学び、イギリス・ロンドンでジョン・レノンに出会う/海外留学した有名人・著名人の今現在
オノ・ヨーコさんは1953年、20歳の時に父親の仕事の赴任先であったアメリカ・ニューヨーク郊外に移り住み、サラ・ローレンス大学に入学。音楽と詩を海外の地で学びます。
画像:nippon.com
在学中の1956年にはオノ・ヨーコさんは大学を中退してピアニストの一柳慧氏と一度目の結婚をし、以後は前衛芸術活動をニューヨークで開始し、美術作品制作やパフォーマンスを行いますが、当時、日本国内での評価はとても低いものでした。
1963年にオノ・ヨーコさんは最初の夫である一柳慧氏との離婚成立後、米国の映像作家アンソニー・コックス氏と二度目の結婚を果たし、娘・キョーコさんを出産します。
1966年にオノ・ヨーコさんはロンドンの現代芸術協会の招きでイギリスへ渡り、活動の場をロンドンに移すことになりました。
ロンドンのインディカ・ギャラリーで開かれたオノ・ヨーコさんの個展『未完成の絵画とオブジェ』で、ジョン・レノン氏と出会うことになります。
そこに展示されていたオノ・ヨーコさんの作品「天井の絵」では部屋の中央に脚立が置かれており、その脚立に上って天井からぶら下げてある虫眼鏡で覗くととある言葉が読めるような仕掛けとなっていたという事です。
画像:オノヨーコ作品
そこに書かれていた言葉は
「YES」
1969年2月には二度目の夫であったアンソニー・コックス氏とも離婚をし、ジブラルタルでオノ・ヨーコさんはジョン・レノン氏と結婚しています。
けれどもその後「ビートルズを解散させた女」として痛烈な非難をされ続けることとなり、1971年にはアメリカ・ニューヨークへ拠点を移しています。
ニューヨークへ移り住んだあとは夫婦で「作品」というよりは社会的政治活動家としての運動が顕著となっていきました。
引用元:wikipedia
激化するベトナム戦争に反対。
1975年にはオノ・ヨーコさんとジョン・レノンさんの間にショーン・レノンさんが誕生します。
1980年12月にオノ・ヨーコさんの夫のジョン・レノンさんは自宅前で事件に巻き込まれ他界。
画像:Wikipedia
海外の地で、世界中から注目されることとなった日本人女性。
現在に至るまでオノ・ヨーコさんはニューヨークに住み、平和のための祈りを捧げる活動をされています。
―オノ・ヨーコ
ほんとうに。それぞれがそれぞれの立場で幸せであることは、世界にとって最大の有益な活動である気がします。
■ジョンレノンさんなど自然葬・散骨された有名人芸能人はこちら
◆1961年(年齢29歳)ピアニスト【フジコヘミング】ドイツ国立ベルリン音楽大学へ進学するがヨーロッパ時代に貧困で聴力を失い絶望の時代へ。日本帰国後に起きた奇跡とパリ、ロサンゼルス、下北沢、京都の自宅/海外生活を選んだ有名人・著名人の今現在
フジコ・ヘミングさんと言えば、今では日本国内でも大人気のピアニストですが、幼少期から過酷な人生が続き、ピアノ教師だったシングルマザーの母の元で厳しいピアノを訓練を受けながら成長します。
母親が朝から晩まで働いても貧しい生活の中でフジコヘミングさんは16歳で右耳の聴力を失ったり無国籍状態となったりと次々に困難を迎えます。29歳でようやくドイツの国立ベルリン音楽大学に進学することが出来ましたがそのヨーロッパ時代は人生の中でも最も困窮した時代だったようです。
外国で困窮する生活の中、
ピアノ弾き続けたフジコヘミング
そんな中で手に入れた人生最大のチャンスであったレナード・バーンスタイン氏からの推薦で得られたリサイタルの機会も、あまりの貧しさで風邪をひいたことで、左耳の聴力までも奪われてしまう悲劇に至ります。リサイタルも中止となり、フジコヘミングさんはピアニストとして未来を断たれる状況となりました。
数々の困難。
画像:母がドイツから持ち帰ったブリュートナー社製のピアノ
しかし、1999年に海外、ヨーロッパの地ではなく、母国日本でフジコヘミングさんの運命は奇跡を起こすこととなりました。
現在では多くの聴衆が、フジコヘミングさんのピアノの音を聴くために会場を訪れ、フジコヘミングさんのピアノだけでなく、困難な人生を切り抜けてきたことで得た、精霊のような清くしなやかな空気と、あたたかな眼差しに触れる為に会場を訪れています。
現在、フジコヘミングさんは下北沢の他に京都、ロサンゼルス、パリに拠点があり、それぞれの家にいる猫たちと話をして暮らしているようです。
自分が恥をかかないように生きる。―フジコヘミング
壮絶な半生を経て、フジコヘミングさんがいつも心に思っていたことは、このような事だったそうです。
■フジコヘミングさんの海外留学と外国での半生と猫、絵の話はこちら↓

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