今回は黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さん側の家族と、母親・黒柳朝さん側の生家の家系図をつくって、それぞれの親戚の中に存在したたくさんの才能ある文化人、芸術家たちを紹介します。
黒柳徹子さんの弟や妹についても調べてみました。父方・母方である傾向が見えてきました。
◆黒柳徹子の父親・母親側、双方超芸術家の裕福な家系図!北原白秋もいた!画像
黒柳徹子さんの家系図は父方も母方も才能に溢れた親戚の方々が揃っていることが分かりました。
まずは父親・黒柳守綱(もりつな)さん側、母親・黒柳朝(ちょう)さん双方のご家族を合わせた黒柳徹子さんの家系図がこちら。
画像:2020年6月撮影
黒柳徹子さんのご家庭は『窓際のトットちゃん』を読んでも黒柳徹子さんの「大きなリボン」の話が出てきたり、何となくとても裕福なご家庭出身の印象でしたが、
やはり黒柳徹子さんの母方の両親(黒柳徹子さんの祖父母)が共に裕福だった様子です。
母方の祖父は開業医、母方の祖母の兄弟が『経済日報』の創業者であり、のちに黒柳徹子さんの母・黒柳朝さんの兄弟が『経済日報』の社長を継いでいます。
◆黒柳徹子の【母親・黒柳朝(旧姓門山)】側の家系は医者の家族。親戚は文学・美術の才能が秀でている家族・親戚だった
黒柳徹子さんの母親・黒柳朝(ちょう)さんの生まれた生家の家系、門山家は代々松山藩の家臣だった名家だったようです。
◆黒柳徹子の【母方曾祖父・門山周智】は開業医の医者で地元の盟主の町会議員
家系図には出てきませんが、黒柳朝さんの開業医の祖父(黒柳徹子さんの母方の曽祖父)門山周智さんも医者で、東京で医学を学んだ後に、故郷の山形県松山町(現・酒田市)で開業医となっており、町会議員を務めるなど地元の盟主だったようです。
◆黒柳徹子の【母方祖父・門山周通】も婦人科の開業医。親戚に洋画家【山本鼎】と【村山槐多】、さらには童話作家で詩人の【北原白秋】も!
母方家系図に登場する門山周智さん(黒柳徹子さんの母方の曽祖父)の次男で黒柳朝さんの父親・門山周通さん(黒柳徹子さんの母方の祖父)も同様に医学の道へ進み、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)卒業し、北海道に渡って産婦人科医として開業した人物です。
画像:2020年6月作成
黒柳朝さんの父親・門山周通さん(黒柳徹子さんの母方の祖父)の親戚家系図には多数の芸術文化に関わる人物が輩出されています。まず近いところから、黒柳徹子さんの母親の黒柳朝三のは床に当たる人物に、洋画家で詩人の村山槐多氏が居ます。
22歳という若さで夭逝していながら、その才能を高く評価されて作品と共に名前が残っている稀有な作家です。
村山槐多(むらやまかいた)1896-1919年
日本の洋画家・詩人、作家。愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市中核)生まれ、京都市上京区育ち。母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(台湾総督府官僚)
母・たまが結婚前に森鴎外家で女中奉公していたという経歴を持つ。
1919年猛威を振るっていたスペイン風邪により、22歳で夭逝。高村光太郎から哀悼の死を寄せられている。
また、村山槐多氏の母方家系図に居る従兄弟も版画家・洋画家として名を残している山本鼎(やまもとかなえ)氏が居ます。
山本鼎(やまもとかなえ)1882-1946年
日本の洋画家・版画家で教育者。愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)出身。父は開業医の山本一郎、長男が詩人の山本太郎氏。村山槐多は従弟にあたる。
与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表している。
山本鼎(やまもとかなえ)氏は与謝野鉄幹氏の活動の中心となった雑誌『明星』に版画を発表していますが、山本鼎氏の妻となったいゑ子さんの兄が与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流のあった、詩人で童話作家の北原白秋氏でした。
『明星』がきっかけとなった出会いだったのかもしれません。
北原白秋(きたはらはくしゅう)1885-1942年
近代日本を代表する詩人、童話作家、歌人。熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)出身。
弟たち2人は出版人として名を残している。北原鉄雄は写真・文学系出版社「アルス」を、北原義雄は美術系出版社「アトリエ社」を創業、従弟の北原正雄も写真系出版社「玄光社」を創業。
母方家系図に出てくる、この3人の中で黒柳徹子さんと血が繋がっているのは実際は村山槐多氏だけで、あとの方々は婚姻によって親戚になった方々ではあります。
◆黒柳徹子の【母親・黒柳朝】は声楽家出身の随筆家でエッセイリストの「チョッちゃん」画像
そうして多感な親戚家族をもつ黒柳徹子さんの母親・黒柳朝さんもまた、とても多才な女性でした。随筆家・エッセイリストとして名前を残している黒田朝さんですが、元々は1927年には東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科入学しています。
画像:滝川市「チョッちゃん・アンティークコレクション」
医者の父親に
内緒で音大を受験し合格w
こんなところは何となく黒柳徹子さんにも共通する血のようなものを感じます。
黒柳朝(くろやなぎちょう)1910-2006年
日本の随筆家・エッセイリスト。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)声楽科在学中に黒柳守綱と結婚。
ユーモアな子育てをなどを語った自作エッセイ『チョッちゃんが行くわよ』を雑誌『主婦と生活』に連載し後に出版されベストセラーとなる。同作をドラマ化したNHK連続テレビ小説『チョッちゃん』が放送される。
けれども、声楽科進学後、間もなく在学中の演奏会をきっかけにヴァイオリン奏者・黒柳守綱氏(黒柳徹子さんの父親)に出会い、あれよあれよという間に大学を卒業することもなく結婚してしまったようです。
音楽学校を卒業することもなく、志半ばでパパと出会い、まるで人さらいに遭ったように結婚させられていた
引用元:黒田朝『トットちゃんと私 』
教育が受けられる女性が殆ど居なかった時代に黒柳徹子さんの母親・黒柳朝さんは大学まで進学したにもかかわらず(父親は医大受験をしたと思っていたという情報もw)、父親に秘密でこのような事態を迎えてしまい、
新聞に尋ね人として
掲載されたらしいw
そして、現実を知った父親からは激怒され絶縁状態へ・・・。
駆け落ちってやつ?(笑)
画像:amazon
かなり
黒柳徹子さんとも
ちかいものがw
医師の家に生まれ育ち、裕福な家庭の箱入り娘という印象の黒柳徹子さんの母親・黒田朝さんですが、このような「女道の厳しさ」を若い時代に経験されていたようです。ですから、当然結婚後は生家からの援助などはなかったと思われます。また、時代の影響で1944年には夫・黒柳守綱氏も出征。
残された母親・黒田朝さんは黒柳徹子さんを含む当時3人の子供を食べさせていかなければならない状況となり、東京大空襲をきっかけに子供達を連れて青森の諏訪ノ平へ疎開。暫く野菜や果物を行商することで生計を立てていた時期があったようです。
画像:https://japaneseclass.jp
本当に『おしん』さながらの現実が当時の女性たちにはあったことが伺えます。
ちなみに、黒柳徹子さんの母方の祖母「三好」さんは仙台出身のお嬢様で、嫁ぎ先へ提示した親御さんの条件が「娘に何もさせないこと」だったのだそうです。そのため、活発な黒田朝さんとは異なり、殆ど身の回りの事や家事を出来なかった人だったそうです。
*「ジャパネスク — 行商」
… 昭和40年代まで、かつぎ屋のおばあさんたちが常磐線、京成線、成田線などにいた。
千葉や茨城の農産物を東京で売るためだ。 pic.twitter.com/fkI89HQiGV
— Hiroshi Matsuura (@HiroshiMatsuur2) December 29, 2019
疎開先の青森の諏訪ノ平へ行く前までは、当時11歳だった黒柳徹子さんも1日に大豆を15粒しか食べられない程の食糧難状況にあり、栄養失調で体中におできができたり、爪の間がすべて化膿して「ずきん」という、とても痛い思いをしていたというお話をされています。
その症状も、やがて青森の諏訪ノ平へ移ってから、諏訪ノ平でとれた果物や野菜を八戸港まで母親・黒田朝さんと黒柳徹子さんもお手伝いして八戸港まで担いでいき、交換して貰った魚を煮魚にして食べたことで、3回程食べたらすべて完治したというお話もありました。
塩も醤油もない時代
たんぱく質はスゴイ。
という経験
黒柳徹子さんの母親・黒柳朝さんは夫が不在の間、農協でも務めており、弟はまだ3歳ほどで妹に至ってはまだ赤ちゃんでハイハイしているような状況だったというお話があり、いったい、どうやって働いていたのだろう?と戦争に行かなかった女性たちもまた、別の戦場に居たのだという壮絶な状況を想像します。
画像:滝川市
戦争が終わった時に
12歳の黒柳徹子さんが
思ったこと
近所のおじさんのとこ行って、「戦争終わるの?」って聞いたら、「どうも終わるらしい」って聞いて、ああ、じゃあ東京帰れるかなって思ったんだけど、うちはなんか焼けたらしいって聞いたので、それから父もいないし、帰れないかもしれない、
でも戦争が終わってよかったなって、本当によかったと思いました。それはもうそれ以上みんなの上に爆弾が落ちてきたり空襲もなくなって、(中略)
東京にいた人たちはみんな栄養失調になってたと思ったので、そういう栄養失調がなくなるし、
みんなやっぱり不安の中で生きなくてもいいというのは、やはりうれしいことだと思って、とっても私、喜んでそのおじさんのうちから自分のうちへスキップしながら帰ったの覚えてます。
引用元:NHKインタビュー『戦争証言アーカイブス』2015年7月6日
画像:https://ameblo.jp/cocohana888
黒柳徹子さんに似てるw
朝起きて寝るまで、子育ての大変さ、夫との深刻な葛藤・・・これでもかこれでもかと、辛いことが押しかけてきて、夢も希望もないほど悲しい日々もありました。
生きている事の喜びを心から感謝して床につく日が、どのくらいあったでしょうか。祈っても祈っても、祈りの届かない悲しさに苦しむ日々が続いたこともあります。
引用元:黒柳朝『チョッちゃんはもうじき100歳』
夫婦や子育ての悩みというものだけは、時代を超えても同じようです。
それでも、黒柳朝さんは「困っちゃう」「お金がないからどうしよう」「パパはいつ帰ってくるのかしら」というような子供達が心配するようなことは言わず、楽しそうに母らしく切り開いていってくれていたそうです。
画像:www.pinterest.jp
黒柳徹子が
母と同じ声楽科へ
しかし、後に長女の黒柳徹子さんも、後に母親・黒田朝さんと同じ同東洋音楽学校の同専攻である声楽科へ進学しており、それがきっかけでテレビで活躍する未来が開かれています。
だったと言えそうです。
感度の高い
親戚一族w
■雑誌『明星』の与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の夫婦の関係はこちら
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