黒柳徹子家系図に北原白秋や洋画家!父親・母親側共にスゴい!弟妹も

―昔・若い頃・子供時代・親・兄弟

◆黒柳徹子の【父親・黒柳守綱(旧姓:田口)】側の家系は映像・音楽の才能が秀でている家族・親戚だった

 

次に、黒柳徹子さんの父方の家系図に居る家族と、ご両親が築いたご家庭、つまり黒柳徹子さんのご兄弟についてみていきたいと思います。

 

黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱(もりつな)さんの父(黒柳徹子さんの父方祖父)である田口潔矩氏も実は偶然ながら、医者でした。また、田口家も代々クリスチャンの家系です。

 

医者の息子として生まれた黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんでしたが、田口家の四男である田口守綱さんはたった8歳の時に父親・田口潔矩氏が亡くなってしまったこともあって、たった12歳という年齢から、兄である田口修治さんと共に働き始めることになります。

 


画像:2020年6月作成

 

田口家の四男だったこともあってか、黒柳徹子さんの父親・田口守綱さんは母方の生家である黒柳家の養子となり、以後、黒柳姓を名乗ることになりました。黒柳徹子さんのお名前は父方祖母の家の姓という事になります。

 

 

◆黒柳徹子の父親・黒柳守綱の兄弟【伯父・田口桜村】は松竹蒲田撮影所の初代所長

 

黒柳徹子さんの父方の家系図に出てくる伯父(長男)にあたる田口桜村さんは撮影技師であり、松竹キネマ俳優学校の第1回映画作品である『荒野』の製作(結局製作は中止)の監督にも就任するような映画監督でもあり、連続活劇のノヴェライズ作家でもありました。

 


画像:松竹

 

松竹キネマの
礎を築いた人。

 

1921年には、田口桜村さんは松竹キネマ合名社蒲田撮影所初代所長にも就任しています。

 

 

◆黒柳徹子の父親・黒柳守綱の兄弟【伯父・田口修治】【従兄弟・田口寧】は報道カメラマンで映画監督

 

黒柳徹子さんの父親の家系図にいる別の兄(三男)田口修治さんは四男の黒柳守綱さんと共に、少年時代に三越呉服店で働いていましたが、黒柳守綱さんとはまた別の視点を持っており、

田口修治さんは仕事の合間に英語を学ぶという事をしていました。また、関東大空襲の焼け跡で小型カメラを拾い、そこから興味を持ってフィルム現像所で働くという経験をします。

 


画像:www.eiganokuni.com

 

報道カメラマン。

 

田口修治さんと息子の田口寧さんのお話は、『窓際のトットちゃん』でも登場し、田口寧さんが黒柳徹子さんより1歳ほど年下であるだけでとても近い年齢の子供だったことから交流があったことがわかっています。

 

 

田口修治さんはアメリカニュース映画会社の日本支社で特派員として働き、1939年に「社団法人日本ニュース映画社」ができると、初代ニューヨーク支社長就任、日米開戦時には収容所へ収監されるという経験もされています。

 


画像:http://www.eiganokuni.com

 

戦後は田口修治さんが英語が堪能な親米家であったことから、日米合作の映画や、ドキュメンタリー映画のプロデューサー、や監督、PR映画の製作という仕事も手掛けています。

 

しかし、51歳という若さで狭心症で亡くなり、長男の田口寧さんがシュウ・タグチ・プロダクションズを引き継ぐこととなりました。

 

◆黒柳徹子の【父親・黒柳守綱】はバイオリニストでコンサートマスターを務める音楽家だった画像

 

黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱(もりつな)さんは兄と共に12歳で働き始めた三越呉服店(現在の三越伊勢丹)で働き始めたことがきっかけだったのか、すぐに吹奏楽団である三越少年音楽隊へ入隊しています。そしてヴァイオリンを学ぶことになりました。

 

不運か幸運かなんて
後にならないと分からないもの。

 


画像:https://ja.gluons.link

 

新交響楽団の
首席ヴァイオリン奏者だった

 

1927年に後の妻となる黒柳朝さんが上京して東洋音楽学校に入学しており、1933年8月に長女の黒柳徹子さんが誕生しているため(一部情報によるとデキ婚)、父親・黒柳守綱さんと黒柳朝さんはおよそ1930年前後に結婚したと推定されます。

 

当時住んでいた住居の1階にあった喫茶店に連れ込み、夜遅くまで話し込んだ末に「家に帰れないだろ?」と自分の住居に連れ込み、そのまま結婚に至ったと、娘の徹子、妻の朝が語っている
引用元:Wikipedia

 

かなり(笑)。

このせいで、黒柳徹子さんの母・黒柳朝さんは生家から勘当同然となってしまったというわけです。

 

けれども、黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんは黒柳朝さんより前に、自分も生家からヴァイオリンを選んだことで勘当になっていたようです。

 

それは、『窓際のトットちゃん』「ヴァイオリン」というお話の中で出てきます。

 

トットちゃんにはまだ芸術とか、思想とか、また、仕事のことは、よくわからなかった。

でも、パパが本当にヴァイオリンが好きで、そのために、勘当というのになって、

家や、親戚ののけものにされたことや、あといろんな大変なことがあったけど、それでも、絶対にやめなかったこと知っていたから、いやなものは、弾かない方がいい、と思った。

引用元『窓際のトットちゃん』

 

父親の黒柳守綱さんが、砂糖やコメが貰えるという話があっても、「ヴァイオリンで軍歌は弾きたくない」といった話です。

 

 

そして、1937年1月には黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんはNHK交響楽団の前身である新交響楽団コンサートマスターに就任しており、

 

小さい「トットちゃん時代」黒柳徹子さんも頻繁に父親の通う洗足池近くの練習所へ行っていた様子が、時代特有の話と共に『窓際のトットちゃん』でも書かれています。

 

■トモエ学園の校長・小林宗作先生が戦後に美輪明宏さんを指導していたお話はこちら↓

黒柳徹子の恩師・小林宗作は美輪明宏にもリトミックと自信を与えてた
黒柳徹子の恩師・小林宗作先生が戦後に美輪明宏さんにも国立音楽大学府増高校で「リトミック」を教え、自信をつけさせる言葉を残していた!という話、そしてリトミックによる幼児指導法とは何か?トモエ学園の理念とどのように関係していたのかを追います。

 

1937年は
時代の変わり目でした。

 

ナチスドイツ軍がスペイン内戦中にゲルニカを空襲したのもこの年です。

 

トットちゃんが練習所が好きなわけは、学校は子供ばかりばっかりなのに、ここは大人ばっかりが集まっていて、

しかも、いろんな楽器で音楽をやるし、指揮者のローゼンシュトックさんの日本語が面白いからだった。

ローゼンシュトックさんはヨーゼフ・ローゼンシュトックといって、ヨーロッパでは、とても有名な指揮者だったんだけど、

ヒットラーという人が、怖いことをしようとするので、音楽を続けるために、逃げて、こんな遠い日本まで来たのだ、とパパが説明してくれた。

引用元:『窓際のトットちゃん』

 

コンサートで汗ビッショリになる
指揮者のおじさん。

 

みんなが拍手をしたら、
座って弾いていたパパと握手をするのが不思議だったトットちゃん

 


画像:https://www.kosho.or.jp

 

クロヤナギサン!
トテモ、イイデス!

 

ヨーロッパの芸術家たちが故郷を追われ、遠い日本にまで逃げてきて、活動を継続しようとしていたという事を、小さな黒柳徹子さんはリアルタイムで実際に見ていたのでした。

 

ローゼンシュトックさんは黒柳徹子さんのことも、会うといつも抱き上げてほっぺたを寄せるほど可愛がってくれていたようです。

 

もしこういうことがなかったら、ローゼンシュトックは日本に来るはずもない人だったし、

また、山田耕筰がつくった、このオーケストラも、こんなに急速に、世界的指揮者に依って、成長することもなかったのかもしれない。
引用元:『窓際のトットちゃん』

 

それでも、日本もまた、徐々に音楽ができる状況ではなくなってゆくのでした。1938年5月、日本では国家総動員法が施行されます。

 

 

◆1944年黒柳徹子の父親・黒柳守綱は満州へ出征し、戦後はシベリア抑留

 

1942年に黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんは満州国建国10周年を祝して、日本から派遣された演奏家による「満州国建国十周年慶祝交響楽団」による慶祝楽曲演奏会に第一バイオリンで「音楽家」として参加しています。

この時のことを黒柳徹子さんも自身のInstagramで語っています。

 


画像:黒柳徹子公式Instagram

 

私の父は、ヴァイオリンの最優秀演奏者として、賞を受賞したこともあって、清朝最後の皇帝、「ラスト・エンペラー」と呼ばれた溥儀に招待され、皇帝の前で、演奏することになりました。

父が、満州に行く前に、
「トット助、おみやげは、何がいい?」と、聞いてくれたので、私は、
「クマのぬいぐるみ!」と、答えました。

何日か経って、父が、帰国した時、ヴァイオリンのケースと、それよりも大きなクマのぬいぐるみを、持って帰ってきました。

それまで、見たこともない、大きくて、可愛いクマのぬいぐるみ💕
とっても、嬉しかったです。私の、大切なものになりました。

引用元:黒柳徹子公式Instagram

 

1994年に
父親が満州へ出征。

 

ところが、そこからたった2年後の1944年には、黒柳徹子さんの父・黒柳守綱氏も、情勢から召集されて満州国へ出征しています。1944年というと、黒柳徹子さんの弟が亡くなった年と同年でもありました。

 


画像:滝川市

 

すぐに
クマのぬいぐるみとも
お別れに。

 

私は、父からもらった、そのクマのぬいぐるみを、疎開先に絶対に持って行きたかったのだけど、母に

「そんなに大きな物を、持っていたら、汽車には乗れないのよ」

と言われて、泣く泣く諦めて、父がいつも座っていた、アームチェアーに、座らせて、家をでました。

東京の家が、「焼けた!」と聞いた時、真っ先に思い出したのは、その父の椅子に座った、クマちゃんでした。

引用元:黒柳徹子公式Instagram

 

戦後、父はシベリア抑留。

 

また、戦後も黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんは、1949年末に無事帰国するまで長くシベリアに抑留されていました。

抑留先で父親・黒柳守綱さんは、ソ連からバイオリンを渡され、ハバロフスク沿岸の日本人捕虜の収容所に行ってバイオリンを弾き、慰安で回るという仕事をしており、そのため帰国が遅かったと黒柳徹子さんは語っていました。

 

でも、実際は1956年まで
抑留者47万3000人の日本への帰国事業
は続きました。

 


画像:prideofjapan.blog10.fc2.com

 

手紙や連絡も一切来ない中、ある日新聞に「捕虜の中に黒柳守綱がいる」という言葉が大きく報道されたことがあり、どこにいるか、いつ帰れるかは分からないけれど、生きているんだということを黒柳徹子さんたち家族は知ったと言います。

 

黒柳徹子さんの母親の黒柳朝さんも、駅に汽車が止まると「黒柳守綱のバイオリン聞いた方、この中にいらっしゃいませんか?」と聞いて回る日々を続け、ある日「聴いたという人がいた。元気でしたよ。と言われた」と帰ってきたことがあったそうです。

 


画像:trend–box.com

 

1949年末に
父・黒柳守綱帰国。

 

帰国後の黒柳守綱さんは、東京交響楽団の近さんとマスターに就任し、ご活躍されました。

 

 

◆黒柳徹子の弟(長男)黒柳明兒(くろやなぎめいじ)は1944年に敗血症で夭逝。

 

黒柳徹子さんの家族の家系図には記載しなかったのですが、すぐ下の長男の弟、黒柳明兒(くろやなぎめいじ)くんは黒柳徹子さんが11歳になる年の1944年5月に 敗血症で幼くして亡くなっています。

 


画像:twitter

 

敗血症とは?

全身の臓器障害につながり、高い致死率の疾患のようです。

 

敗血症とは何ですか?
敗血症とは、生命を脅かす感染に対する生体反応です。組織障害や臓器障害をきたすため、集中治療室(ICU)での全身管理および治療が必要になります。ショックや著しい臓器障害をきたす場合は死に至る場合もあります。

引用元:敗血症.com

 

長男・黒柳明兒くんが亡くなった時のことも、黒柳朝さんは著作の『チョッちゃんが行くわよ』で強い思いを語っていました。

 

長男・黒柳明兒くんが亡くなって、黒柳朝さんのクリスチャンの母親は、「明ちゃんは神さまの御用をするために天に召されたのよ。そして、あなたたちの信仰がそれによって深くなるようになさったのよ」と慰めたそうです。

 

でも、それに対して、黒柳朝さんが感情として持った想いは「母親」という生き物の偽りのない生の感性でした。

 

子供が死んで、
信仰が厚くなって
だからなんなのよ。

 


画像:twitter

 

冗談じゃないわ。
自分の可愛い子供が死んで、信仰が厚くなって、なんになるのよ。

私はこの世的な人間だから、この世で明ちゃんとみんなで楽しく暮らしたかったのよ。」とオイオイ声を上げて泣いた日もありました。

引用元:黒柳朝『チョッちゃんが行くわよ』

 

この直後に黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんが満州へ出征することになり、家族は長男・黒柳明兒くんの最期をみんなで見送った後、家族はそれぞれ試練の時代を迎えることとなったのでした。

 

 

黒柳朝さんも、長男・黒柳明兒くんの死については、後にこうも思ったと最後に綴っていました。

 

でも、明ちゃんが生きて行くにはこの世は厳しすぎますもの。

あれでよかったのだと、今では負け惜しみではなく本当にそう思っています。

引用元:黒柳朝『チョッちゃんが行くわよ』

 

それだけ、1944年以降の日本にあった現実の時間は「生き続ける」というだけでも大変過酷なものだったのだという事がにじみ出ることばです。

 

 

◆黒柳徹子の弟(次男)黒柳紀明は父と同じ音楽家。ヴァイオリニスト、ヴィオラ奏者画像

 

家族の家系図に出てくる次男で黒柳徹子さんの7歳年下の弟・黒柳紀明さんは父親と同じバイオリニストになっていました。元々は黒柳紀明さんは自分の意志でヴァイオリンをやりたいと思う前に、父親に強制的にヴァイオリンを持たされ、強制的に練習させられてきたようです。

 

母親の黒柳朝さんは夫のスパルタ教育をとても心配して見ていました。

 

黒柳紀明(くろやなぎのりあき)1940年-

日本のヴァイオリン、ヴィオラ奏者

 

黒柳朝さんはその時の気持ちも『チョッちゃんが行くわよ』に書いています。

 

主人は自分の意志と情熱でヴァイオリンの道を選んでやってきた人です。でも、紀明は違います。

自主的な意欲を持つ前に、父から、いわばヴァイオリンを強制的にも他され、かんしゃく持ちの芸術至上主義の父に厳しい練習をさせられてきました。

出発点がまるで違うのです。おまけに、やってもやっても、追いつけない父がいるのです。

引用元:黒柳朝『チョッちゃんが行くわよ』

 

ヴァイオリンだけが
人生じゃない。
きっと、何かを掴んで帰ってくる。

 

そうして、黒柳朝さんは、黒柳紀明さんを父親から離してオーストリアのリンツへ向かわせたのでした。けれども、黒柳紀明さんはヴァイオリンの道を選んで帰ってきたという結果になりました。

 

 

黒柳徹子さんの弟・黒柳紀明さんはヴァイオリニストとしてNHK交響楽団で2000年まで活躍され、2006年10月の東京芸術劇場で開催された「宇宿允人の世界」でヴィオラ演奏で出演したという情報が現在では調べたところの最新です。

 

 

◆黒柳徹子の妹(次女)黒柳眞理は元バレリーナで美容家 画像

 

黒柳徹子さんの家族の家系図に出てくる11歳年下の妹・黒柳眞理さんは、幼少期からバレリーナを目指し、チャイコフスキー記念東京バレエ学校で学びました。

 

その後は、ボリショイ・レニングラードバレエ団で念願のプロのバレリーナになったものの、足首にけがを負ってしまい、19歳という若さでその道を絶たれています。

 

黒柳眞理(くろやなぎまり)1944年-

元バレリーナ、エッセイリスト、美容家、コメンテーター。

ボリショイ・レニングラードバレエ団に入団しプロバレリーナとして活躍したが、ケガで引退。元夫が元プロ野球選手の井石礼司。

 

 

その後は黒柳眞理さんは美容家・エッセイリストへ転身し、北海道のテレビ番組でコメンテーターをするなど、様々なご活躍をされているようです。

雰囲気がどことなく姉の黒柳徹子さんと似ています。

 

 

◆黒柳徹子の弟(三男)黒柳貴之は母親が47歳の時に出産した子供。実子・隠し子説や逮捕説

 

黒柳徹子さんの家系図には登場していませんが、3番目の弟・黒柳貴之さんはなんと母親の黒柳朝さんが47歳の時に出産した男の子です。1957年又は1958年に誕生したと考えると、黒柳徹子さんとの年齢差は24.25歳前後です。

 

 

年齢的に、黒柳徹子さんのNHK時代の子供なのではないか?という噂もあったようですが、現在まで黒柳徹子さんの弟という事で公表されています。

 

また、黒柳徹子さんの母親・黒柳朝さんの著書『チョッちゃんが行くわよ』では3番目の息子・黒柳貴之さんのお話が出てきます。ですから、おそらく本当に息子さんなのだと思われます。

与謝野晶子さんや、オノヨーコさんも40代で出産されているので昔の時代でも、産むタイミングがあった方は多くはなくとも居たのだと思います。

 

高齢出産有名人・芸能人はこちら↓

40代50代妊娠も!超高齢出産な芸能人有名人・女優の喜びと体験談
高齢出産で子供を迎えた女性有名人・芸能人、女優の方々をピックアップしました。40歳を超えてからも妊娠する方が増え、子どもへの母性は膨らむばかりです。

 

他にも3番目の弟・黒柳貴之さんは、1998年1月に同姓同名かもしれない方の事件から、逮捕の話なども噂されましたが、真相の分かる情報はないので割愛します。

 

黒柳徹子さんの兄弟や父方・黒柳守綱さんの親戚、は音楽や映像の分野に秀でた才能があった家系

 

と言えそうです。

 

 

◆黒柳徹子は父方・母方親族の家系のエネルギーを両方引いたハイブリッドマルチタレントだった!

 

黒柳徹子さんの母方は文学・美術系、父方は音楽映像系に才能が秀でている家系であることが分かりました。

 

そして黒柳さんは??

 

黒柳徹子さんのここまでの活動を総合すると、両方の家系の様々なエッセンスが生かされて花咲いているという事がよく分かります。

 


画像:黒柳徹子公式Instagram

 

音楽系である東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科を卒業した後の黒柳徹子さんは

 

自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう
引用元:Wikipedia

 

という理由からNHKの放送劇団に入団しています。まさに映像系の職業。

 

そして、今度はテレビ女優第1号として活躍。慕っていた杉村春子さんに文学座への入団を相談し、3期生として演技を学んでいた時期もありました。

 

泉ピン子さんも若い頃下積み時代に杉村春子さんから演技を学んでいます

 

さらに1981年には著書『窓ぎわのトットちゃん』という作品が、戦後最大のベストセラーとなって数々の賞を受賞することになります。この辺りは完全に母方の文化芸術系の血筋を感じる活動です。

 


画像:Amazon

 

それだけでなく、母方父方に共通するクリスチャンという属性と、自身の食糧不足と恐怖の戦争体験から、

 

世界の飢餓に苦しむ子供たちのために芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動を続けられてきました。

 

ユニセフや国連という言葉が少し疑わしくもなる昨今ではありますが、

 

黒柳徹子さんは、戦争で貧しく恐怖だけが大きく膨らんで溢れる時代に、たくさんの子供達の心を支えてくれた「トモエ学園」校長、小林宗作先生への恩返しと、

 

5人もの子供を出産し、子供たちそれぞれの気持ちに心を寄せて育て上げた母親・黒柳朝さんへの思いを胸に、ある日、わたしは世界中の子供達のお母さんになろうと思ったのではないかな?と私は長年思い続けてきました。

 


画像:2018年5月撮影 安曇野いわさきちひろ美術館

 

『窓際のトットちゃん』はたくさんの黒柳徹子さんの本の中で、

私の中では実はとても特別な1冊です。それは小さい頃に毎日のように叱られ続けてきた私を、唯一「存在する」ということだけで可愛がってくれた新潟の祖母が小さい頃に私に贈ってくれた本だったからであり、

 

祖母の温もりや笑顔と共に、「私が大切にしたいものはいったい何だったのか」いつも思い出させてくれる本だからです。

 

トモエの外では、アメリカは敵国となり、英語は敵国の言葉という事で、すべての学校の授業からはずされた。

「アメリカ人は、鬼!」と政府は、発表した。

このとき、トモエのみんなは、声を揃えて、叫んでいた。

「美しいはビューティフル!」

トモエの上を通り過ぎる風は暖かく、子供たちは、美しかった

引用元:『窓際のトットちゃん』

 

たくさんの恐怖と、不安の情報を我々大人までも、浴びせられる現代ですが、

子供たちの未来を詰んでしまわないように、私たちは声を大きくして、いまこそ言わなければならないのだと、子育てをする母親として思います。

 

美しいは
ビューティフルだよと。

 


画像:i-article01.com

 

たとえ大豆5粒しかなくても、
それだけで夢や希望を描いてきた子供が、黒柳徹子さんになったお話でした。

 

黒柳徹子さんの子供時代のトットちゃんのお話はこちら↓

黒柳徹子の子供時代トット退学でトモエ学園へ。戦後は女学生チャック
黒柳徹子さんの子供時代、「窓際のトットちゃん」だった時の小学校退学から、トモエ学園入学で出会った校長の小林宗作先生の存在が、個性や自尊心を守り、香蘭女学校、東洋音楽学校の学生となった後も大人になっても、心を大きく支え続けることになりました。

 

黒柳徹子さんの若い頃からの40年愛!恋人はこちら↓

黒柳徹子は若い頃ニューヨーク恋愛を40年!?結婚歴・恋人画像!
黒柳徹子さんの若い頃のニューヨーク時代、タマネギヘアの秘密、結婚歴はあったのか?40年にも及ぶ大恋愛と恋人の存在がいたというお話を当時の画像と共に調べてみました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました