今回は、黒柳徹子さんの「トットちゃん」だった子供時代から香蘭女学校、そして東洋音楽学校の「チャック」というあだ名がついた時代までの学生の頃の生い立ちとエピソードを集めました。
『窓際のトットちゃん』でも有名になったトモエ学園、校長先生だった小林宗作先生や母親の黒柳朝さんが子供の頃のトットちゃんへ注いでいた愛情やそれによって摘まれずにすくすく天真爛漫に育った黒柳徹子さんの感性や個性の原点に迫ります。
◆子供時代の黒柳徹子は「トットちゃん」。出身地は東京府赤坂区乃木坂(現港区)、自宅は?生まれた1933年の日本は?
日本で最も有名な女性の1人と言っても過言ではない黒柳徹子さん。黒柳徹子さんが生まれたのは1933年という時代の日本。出身地は東京府東京赤坂区乃木坂(現・港区乃木坂)でした。
港区女子w
けれども、実際は父親の仕事の関係で、黒柳徹子さんは1944年に東京大空襲が起こるまでの子供時代を、旧東急目蒲線の洗足駅にほど近い大森区北千束(現在の大田区)で過ごしています。
◆「黒柳徹子」は本名。子供時代のあだ名、愛称は「トットちゃん」「トット助」名前の由来は?画像
黒柳徹子さんの本名はそのまま「黒柳徹子(くろやなぎてつこ」さんです。
当初、親戚や両親の友人に至るまで「男の子に違いない!」と皆が言ったために、初めて子供を持つ父親と母親がそれを信用して、てっきり男児が誕生すると思っていた為に「徹(とおる)」という名前を用意していたという話が黒柳徹子さんの子供時代の誕生エピソードとしてあります。
画像:黒柳徹子公式Instagram
ところが、誕生したのが女児だったため、「徹」という字に既に大きな思い入れを持っていた両親によって、「徹子」と名付けられたという由来を持っています。(『窓際のトットちゃん』より)
黒柳徹子さんが胎児の時から相当暴れん坊だったことが目に浮かぶようです(笑)。
画像:twitter
トットちゃん。
後に1981年に黒柳徹子さんの自伝書として発表されるベストセラーの1冊『窓際のトットちゃん』でも有名なこの名前「トットちゃん」という愛称について、
当時まだ幼くて「徹子ちゃん」をきちんと発音できなかった黒柳徹子さんが自分でそう自分のことを呼んでたことに由来するという話が語られています。
周りの人たちが皆「テツコちゃん、テツコちゃん」と呼んだことで、自分の名前は「トットちゃん」なのだと子供時代の黒柳徹子さんは思っていたようです。
画像:2018年撮影
私事になりますが、私も実際に祖母の事を亡くなるまで「チャアチャン」と呼んでいたという事があり、、伯母が姑である祖母を「お母さん」と呼び、それを聞いた伯母の子供である私の年上の従兄弟が「オカアチャン」と言い、
それを今度はヨチヨチ歩きの私が真似して「チャアチャン」という3段階で変化した形で残っていました。
呼び名というのはなかなか突然変えるタイミングというのがなく、とうとうなくなるまで「ちょっと変だな」と思いながら呼び続けてしまいました。
画像:http://ja.gluons.link
もう一つ、黒柳徹子さんの父親だけは「トットちゃん」ではなく「トット助」というあだ名で呼んでいたことが著書からも分かっています。
「あっ!トット助、来てたのか?」
引用元:『窓際のトットちゃん』
子供時代の黒柳徹子さんが父親のオーケストラの練習場へよく遊びに行っていたということと共に、お父さんとの温かい関係が見えてくる文章が残されています。
実はもう少し先で、黒柳徹子さんにはもう一つのあだ名「チャック」というものがつきますが、それについては後述します。
◆黒柳徹子さんが誕生した、1933年以降、子供の頃の時代の世界や日本は・・・
黒柳徹子さんが生まれた1933年(昭和8年)という年は1月にドイツでアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、独裁体制が開始した年です。
3月にはアメリカでは世界恐慌からの脱却のため、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が就任し、ニューディール政策を示して経済復興を目指していました。
画像:フランクリン・D・ルーズベルト大統領
日本はというと、国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を可決したため、3月に国際連盟脱退の詔書を発布しています。
じわじわと忍び寄る
非常時の空気感。
さらに同3月の日本では、マグニチュード8.1、死者3021名の大きな被害をもたらした三陸地方地震が起きており、4月に児童虐待防止法が交付されたかと思えば、同月には少年航空兵制度が始まっています。
黒柳徹子さんが生まれた1933年8月には、陸軍少年航空兵という、徴兵ではなく志願による20歳未満生徒の採用を開始し、定員170名に対して9731名が応募し、倍率57倍という状況でした。
画像:Wikipedia
すごく張りつめた空気が
現代に近い印象。
文学の話では、2月に現代ではプロレタリア文学『蟹工船』で名を残している作家の小林多喜二氏が治安維持法違反容疑で逮捕され特別高等警察の拷問により虐殺されるという事件が起き、
6月には谷崎潤一郎の小説『春琴抄』~幼少期に失明した三味線奏者の春琴を丁稚として支えた佐助が、最後に両目を針で突き刺してでも春琴の傍で彼女を支えていくという、ホラーのような作品が発表されていたり、
歴史的事実もさることながら、文学の中でも時代の張りつめた緊迫感や人間の「生死」が現代よりももっと生活の近くにあるような緊張感を感じます。
画像:映画『春琴抄』の三浦友和と山口百恵
「生の意味」の追求が、その「生命自体」を超えているかのような刹那的な価値観がある時代だったようです。
黒柳徹子さんが生まれた時代は、こうした「歴史」や「文学史」で学ぶような出来事、つまり「現代人にとっては現実感のない、でも事実とされてきた伝承のようなもの」が多くあり、
それが「本当にあったこと」で、現代はその延長にあるのだという事を証明するのが黒柳徹子さんの90年に迫ろうとする人生でもあります。
歴史の証人・黒柳徹子。
画像:『日録20世紀』
また、12月には皇太子明仁親王も誕生されています。黒柳徹子さんは上皇陛下と同い年!
2020年には87歳というご年齢になります。
◆黒柳徹子は家庭の第一子長女として誕生し、トットちゃん子供時代を多彩な家族に影響を受けて育った。祖父は生涯無医村を回る医師
黒柳徹子さんの家族は父方、母方の家系ともにとても多才な才能に恵まれた方々が存在していました。
黒柳徹子さんの父親・黒柳守綱さんが人生の道としてヴァイオリン奏者を選んだこと、また母親・黒柳朝さんの方は親に秘密で黒柳守綱さんと結婚をしたことで両者は双方の生家から半ば勘当状態が続いていたという話もありました。
画像:滝川市
けれども、少なくとも黒柳徹子さんの子供時代には、父親・黒柳守綱さんの兄で、第一級の報道カメラマンであった田口修治さんの家へ遊びに行っており、
その息子である田口寧さんが黒柳徹子さんより1つ下くらいの同年代だったことから、トットちゃんと仲よく遊ぶ光景などが著書にも描かれていることから、家族の関係性は徐々に良好なものへ変化していったと言えそうです。
画像:鎌倉市川喜多映画記念館
その他にも黒柳徹子さんの母方の家系図に登場する、祖父・門山周通さんは生涯無医村を回った医者であり、その他にも画家として名前を残した村山槐多氏や山本鼎氏、詩人で童話作家の北原白秋氏の名前なども出てきます。
また、両親は生家から勘当状態ではありましたが、父が有名な音楽家になったことから黒柳徹子さんの幼少期の家庭は裕福だったとみられ、
子供時代には、本屋で気に入った本は「ツケ」で買っていたという事があったり、おしゃれが大好きな少女だった事が語られています。また、落語が好きだったりユニークな感性がのびのび育つ少女時代を過ごしています。
様々な分野の刺激的な大人の感性に触れて子供時代を過ごした黒柳徹子さんが居ました。
■黒柳徹子さんの父方母方の家族の家系図はこちら↓

小学校へ入学する少し前の子供時代の初期には、黒柳徹子さんは5歳で結核性股関節炎で3か月もの岐南入院をし、医者からは「松葉づえが一生必要になる」と言われたこともあったようです。
画像:face5.blog.fc2.com
これは幸い温泉治療、電気療法などで奇跡的に回復しましたけれども、その後、同じ病気で入院していた女の子が偶然、町で松葉杖をついて歩いてきて、出会ってしまうという事がありました。
女の子は私の顔を見ると、さっと目線を落として私の脚を見たのです。私はとっさに「あ、この子に私の治った脚を見せてはいけない。きっと悲しくなるわ」と思いました。それ以来、近所で赤い松葉杖が見えるといつも、私は物かげに隠れたりしていました。
引用元:spring
後に尋常小学校での暮らしとして、色々と「鈍感である」かのような印象をもつ経緯が語られているわけですが、黒柳徹子さんは子供のころから「人の気持ち」特に痛みに対してはとても繊細で鋭い感受性を持っていたという事が分かります。
この体験があって、黒柳徹子さんは後にトモエ学園で出会う「泰明ちゃん」という小児まひの男の子に対しても特別な思いやりの気持ちと思い出が持てたのかもしれません。
◆黒柳徹子は子供の頃、最初の尋常小学校を1年生でチンドン屋を呼び込み、退学になった経歴をもっていた。母親・黒柳朝の苦労と娘の未来を守ったエピソード
黒柳徹子さんの名著といえば、戦後最大のベストセラーと言われた『窓際のトットちゃん』ですが、その本の中には黒柳徹子さんがかつてトットちゃんだった子供時代のお話がたくさん出てきます。
1981年に出版されたこの本を、私が祖母から贈られた(と言っても祖母の読んだものを貰ったもの)は1990年前後ではなかったかと思います。
画像:Amazon
ショートストーリーがたくさん詰まっている『窓際のトットちゃん』は、いつどこから読んでも楽しむことができる特徴があり、時間が無くても触れることが出来ることから、私のこれまでの各年代の転機や挫折、苦悩の際に、いつも祖母の優しい顔と共に私の傍にありました。
本の中にある内容の時代としては、終戦前までの東京でのお話が中心で、
後に1944年、黒柳徹子さんの弟さんがひとり敗血症で亡くなり、間もなく父親が満州へ出征、東京でも東京大空襲があって、残された家族、当時11歳の黒柳徹子さんと母親の黒柳朝さんが幼い弟妹を連れて青森へ疎開する直前までの暮らしが描かれている1冊となっています。
◆黒柳徹子は小学校1年生のトットちゃん時代に最初の学校を退学になる、個性的で天真爛漫すぎる子供だった。
そういうわけで『窓際のトットちゃん』の本の中では、11歳までの黒柳徹子さんの、主に小学生だった頃の子供時代の話やその当時の日本の風景、特に東京の様子がたくさん登場します。

最初の小学校の頃の黒柳徹子さん
物語の序盤に出てくるのは、黒柳徹子さんが小学校に上がったばかりの頃、6歳や7歳といった年齢の姿です。トットちゃんは現在の子供の中では正直見かけることがないほど、とてつもなく天真爛漫な様子です。
でも、この物語を読んでいくと、「現在の子供の中では正直見かけることがない」その理由のようなものが透けて見えてくるようなところもあったりします。
物語として読んでいるだけであれば、面白おかしく、とても可愛らしい少女・トットちゃんであるわけですが、
描かれた様子を現実のシーンとして想像して考えてみると、そのとてつもなく強い個性が、集団で全体の学習向上を目指さなければならない現在まで続く教育制度では「とても手に負えない」という事情もよく分かる内容です。
集団一律の環境に
全く適合しなかった子供時代
当然、教師たちは子供時代の黒柳徹子さんに手を焼き、トットちゃんはなんと小学校1年生にして学校を退学となっています。
小学校1年生で
最初の学校を退学に。
担任の先生の一存でひとりの子供を退学にできる時代だったことも、なんだか現代とはだいぶ大きな違いを感じます。
おたくのお嬢さんがいると、クラス中の迷惑になります。よその学校にお連れ下さい!本当に困ってるんです!
引用元:『窓際のトットちゃん』
黒柳徹子さんの担任の先生としては、1940年代という時代に「学級崩壊」のような感覚にあった様子です。
ごく最近の社会と違って、少し前までは私の小学校時代もそうでしたけれども、子供や親側に「権利意識」などというものは概念すらなかった時代であり、何よりも輪を乱すことを許されない「一律の強制」「人に迷惑をかけてはいけない」という教育が子供達に対して、とても熱心になされていたことが分かります。
◆黒柳徹子の小学校時代は発達障害が疑われるADHD(注意欠陥・多動性障害)、LD(学習障害)だったのではないかという話
物語の中で描かれている子供時代の黒柳徹子さん、最初の小学校の担任の先生を困らせたトットちゃんの具体的な行動にはこんなものがありました。
●静かになったかと思うと授業中に教室の窓のところでずっと立っている
●窓から外を見て、チンドン屋さんを呼び込む
●チンドン屋さんが授業中に演奏を開始して子供がみんな大騒ぎ
●かとおもえば、今度は授業中につばめに大声で話しかける
●絵を描く時に、クレヨンが画用紙からはみ出して机にいってもおかまいなし
●隣のクラスの教師からも苦情が出ている
これら黒柳徹子さんの子供時代の行動について、現代だったら1990年頃からその名前が出てきたADHD―Attention Deficit Hyperactivity Disorder(注意欠陥・多動性障害)や1960年代に出てきたLD(学習障害)という症状として診断されるのではないか?という話があります。
◆黒柳徹子は、著書『小さなときから考えてきたこと』で自身の子供時代の姿を発達障がい、学習障害であった可能性を告白
黒柳徹子さんは後に出版した『ちいさいときから考えてきたこと』という著書の中で、自分の幼少期が発達障害だったように思うと言っています。
テレビ番組でLDと呼ばれる子供たちの様子を見て、自分の子供時代の姿と全く変わらないことに衝撃を覚えた様子です。
画像:黒柳徹子公式Instagram
自分の子供時代のようだった
私がテレビを見て涙したのは、テレビに映っているLDといわれている子どもたちが、小さかったころの私のように見えたことだった。
どんなに落ち着きがなく走り回って先生に注意されても、職員室が大好きで、どんどん中に入っていって、先生の机のところで一人で勉強している子供も、いた。私もそうだった。
引用元:『小さいときから考えてきたこと』
このお話の中で、黒柳徹子さんは、LDの子供達をトットちゃん時代の自分、そのもののように見ていました。
画像:Amazon
また、それでも黒柳徹子さんは「特別な症状」であるとか「悪い子」だなんて微塵も思わずに豊かな子供時代を過ごし、大人になることができたことについて、
後に、特殊な個性を持った自分を受け入れ、「みんな一緒だよ、一緒にやるんだよ」と導いてくれた「トモエ学園」と、その学校の校長だった小林宗作先生の采配があったことを、改めてこのテレビ番組を見たことで感じることとなったという内容です。
みんな一緒だよ
一緒にやるんだよ
トモエ学園では、身体的に障がいのある児童も何人か通っていて、校長先生はいつも「みんな一緒にやりなさい。一緒だよ」とおっしゃっていました。
「助けてあげなさい」とはおっしゃいません。そこで、子どもたちは当たり前のように知恵を絞って、全員が一緒に楽しく遊べる方法を考え出しました。
引用元:spring
画像:黒柳徹子公式Instagram
最初の小学校では、黒柳徹子さんのその輝かしい「個性」が、集団一律の学習向上を目指す学校において実際には「有害」だったことで退学になっていたわけですが、
そこにしがみついて本当に「自分は悪い子だ」とか「自分は邪魔者だ」などと思ってしまう前に、新しい学校へ行くことが出来たのは幸運としか言いようがない結果だったと言えます。
そういった、神様の思し召しというか導きというものって、本当にあるよなあと私自身も自分の人生に対して思うことがたくさんある気がしました。流れに逆らって執着すればするほど、人生はどんどん困難を極めていく気がします。
画像:spring
色々な本を読んでみると、黒柳徹子さん以前に、母親の黒柳朝さんという女性がとても聡明な人格者だったので、小学校を退学になるタイミングでも「そこをなんとか。」と社会が勝手に決めた鋳型に適合することに対して執着をすることなく、
我が子の人格や豊かさにとって、最も大事になるところを守ったという意味でも、とても感慨深いものがあります。
母親が黒柳徹子の
未来を守った功績は大きい。
母親として最初の子供を育てるときは、誰しも勝手も分からず、色々なことに神経質に保守的に、なるものだと思います。それに加えて黒柳徹子さんという長女の強烈な個性があったことは、表にはあまり出てきませんが相当な苦労だったと思います。
それでも母親の黒柳朝さんは黒柳徹子さんがコンプレックスを持つことが無いように、退学の事も大人になるまで話すことはなかった(実際は20歳の時に知ったらしいです)というのですから、本当に素晴らしいお母さんに恵まれたと言えます。
黒柳徹子さんの母親・黒柳朝さんの著作の中にはこんな言葉も出てきます。
人の為と書いて、偽りと読む
この言葉を母親の黒柳朝さんは、まだ小さな娘である黒柳徹子さんに対しても「ひとりの人間」として同じように抱いていたことが伝わってきます。娘のためなんて、おこがましくて生意気、結局はいつも自分の喜びのためなのだと。
それであれば、「この子のために」と、周りの大人が社会適合と引き換えに摘んでいく個性や自尊心を、むしろ自分は母親として守らなければならないのではないか?そんな風にも受け取ることが出来ます。
◆子供時代のトットちゃんの救いになった自由が丘駅近隣にあった「トモエ学園」と黒柳徹子が大人になっても感謝している小林宗作先生の存在 画像
最初の小学校を退学になったことで、黒柳徹子さんの母親の黒柳朝さんは娘が通うことの出来る別の小学校を一生懸命探します。そこで見つけたのが、現在の自由が丘駅近隣にあった、「トモエ学園」という学校でした。
画像:2018年5月撮影
小さなトットちゃんが最初にお母さんと「トモエ学園」へ行く日に、大井線に乗って自由が丘の駅の改札を降りるシーンから『窓際のトットちゃん』のお話は始まります。本の中では九品仏周辺の話など、当時の風景がたくさん登場します。
黒柳徹子さんが子供時代に感性を育んだ「トモエ学園」は、電車の車両を改造して教室として使っている学校で、その電車の教室は現在では長野県の北安曇郡松川村にある「安曇野ちひろ美術館」の庭園内に再現されています。『窓際のトットちゃん』の本の挿絵を描いた、画家のいわさきちひろさんの美術館です。
子供時代の黒柳徹子さんはこの学校へ大井町線の電車に乗って通うことになります。
トモエ学園。
画像:『世界一受けたい授業』
黒柳徹子さんが未来にはばたく感性を、大事に育ててもらう基盤になった「トモエ学園」での暮らしは『窓際のトットちゃん』というストーリーの中心となっています。日本という国家が目指していたものも、時代や社会、そこで生きる大人が持っていた価値観も現在とは全く異なりますが、
子供達が生き生きと暮らすには?という1点については時代が変化しても全く変わらないという印象を持ちます。
◆黒柳徹子が子供時代に感性を磨き、個性を守って貰ったトモエ学園と校長の小林宗作先生という存在
『トモエ学園』での黒柳徹子さんの子供時代の生活の詳細については『窓際のトットちゃん』を是非読んでいただくことをお奨めしますが、私が特に心に残った内容についてピックアップしてみたいと思います。
画像:黒柳徹子公式Instagram
今、子供たちが皆、何かどうでもいいことに神経質にさせられている全く同じこの国で、
絶望的な終戦を目前に控えた、物も何も「なかった」と言われる時代に、今よりも幸福度の高い、豊かなものがたくさん「あった」ことを思い知らされます。
それは、トモエ学園や小林宗作先生の影響だけでなく、黒柳徹子さんの母親の黒柳朝さんによっても、補完されています。
素晴らしいものはみんなタダ。
愛情、太陽、空気、水、勇気、信じること、工夫、情熱、想像力、好奇心・・・。(中略)自分で育てた豊かなものは、尽きることなく増えていくはずです。命あるかぎり、心の中、頭の中に、素晴らしい宝石をいっぱい詰め込みましょう。
引用元:黒柳朝『バアバよ 大志をいだけ』
画像:黒柳徹子公式Instagram
豊かさや幸福力は、子供時代に影響を与えた大人の思想で大半が決まるのかもしれない・・・。と私はチョット思ってしまいました。
◆校長先生・小林宗作が初対面のトットちゃんに行ったこと
トモエ学園に子供時代の黒柳徹子さんが最初に行った日、まだトモエ学園の生徒として入園する前の「面接」段階でした。電車の教室に一目ぼれをした黒柳徹子さんは面接の前の時点でもう「この学校に入りたい!」と決心していた様子でした。
画像:『世界一受けたい授業』
そして、校長先生に会ってお辞儀をするな否や、「校長先生か、駅の人か、どっち?」と強烈なスタートを切り、「校長先生だよ」と笑いながら答える小林宗作先生に対し、
「よかった。じゃ、おねがい。私、この学校に入りたいの。」
引用元:『窓際のトットちゃん』
と自分の気持ちを単刀直入にぶつけます。もう迷いはない、と言った雰囲気です。
小林宗作先生も、子供時代の黒柳徹子さんが一体どういう女の子で、どんなことを考えているのか、トモエ学園のほかの子供達と一緒に仲良くやっていけそうかどうか、そんなことを知るためだったのか、入学を決定する前に1対1で話をする時間を設けています。
「じゃ、僕は、これからトットちゃんと話がありますから、もうお帰り下さって結構です。」
引用元:『窓際のトットちゃん』
黒柳徹子さんの母親の黒柳朝さんは小林宗作先生からこのように言われ、そのまま潔く帰るという形で、トットちゃんの学校教育を信頼して任せるという事をしています。
小林宗作先生が
トットちゃんに最初にしたこと

トモエ学園校長の小林宗作先生
母親の黒柳朝さんが扉を閉めて帰ると、小林宗作先生は黒柳徹子さんの正面まで椅子を引っ張ってきて向かい合わせとなり、このように言います。
「さあ、なんでも、先生に話してごらん。話したいこと、全部。」
引用元:『窓際のトットちゃん』
「トモエ学園の入園にあたっての校長先生との面接」という事で、ちいさな黒柳徹子さんが想像していたことは、
何かを質問されて、それに答える
というスタイルだったため、少し驚きながらも、何でも話していいと言われたことがとてもうれしかった様子が描かれています。
順序も話し方もぐちゃぐちゃでしたが、一生懸命に黒柳徹子さんは次から次と話を続け、校長先生はと言うと、その間、一度もあくびをしたり、退屈そうにしないで、思いつく最後の1つの話になるまでトットちゃんの話を聞き続けてくれたという伝説のようなエピソードが残っています。
トットちゃんは
4時間に渡って、
永遠と話つづけます
「この衿ね、ママ、嫌いなんだって!」
それを言ってしまったら、どう考えてみても、本当に、話はもう無くなった。トットちゃんは(少し悲しい)と思った。
トットちゃんが、そう思ったとき、先生が立ち上がった。そして、トットちゃんの頭に、大きくて暖かい手を置くと、
「じゃ、これで、君は、この学校の生徒だよ。」そういった。
引用元:『窓際のトットちゃん』
校長先生は4時間
トットちゃんの話を
聞き続けてくれた。
そして、子供時代の黒柳徹子さんにとって、生まれてからその日までで、一番自分の話を聞いてくれた人となった小林宗作先生は、子ども心に、絶対に信頼の出来る大好きな人となっていました。
その日初めて出会った小林宗作先生に対して、黒柳徹子さんは生まれて初めて、本当に好きな人に逢ったような気がしたと語っています。
画像:黒柳徹子公式Instagram
母親の黒柳朝さんにとっても、この日のお話はとても鮮やかな記憶としてずっと残っていたようです。
徹子は、はじめて会った小林先生に何時間もしゃべりつづけ、この幸せな邂逅は、徹子の小さな胸にキラキラの勲章をつけてくれたようでした。
引用元:黒柳朝『チョッちゃんが行くわよ』
母親にとっても、手探りの子育ての中で、我が子の気持ちに心を寄せて可愛がってくれる存在というのは、例えば理解の無い夫や親戚などよりも、よっぽど大きな心の拠り所となり、救われたような思いになったことだろうと思います。
◆校長先生・小林宗作は「君は本当はいい子なんだよ」と言い続けてくれた
もうひとつ、私が心に残った黒柳徹子さんの子供時代、トモエ学園の小林宗作先生とのお話として、
君は本当はいい子なんだよ
と言い続けてくれたというお話がありました。
画像:2018年5月撮影
それは黒柳徹子さんの自著『小さなころから考えてきたこと』にもお話として出てきます。
自分は悪い子だなんて
思わずにすんだ
校長先生は、あとで分かったことだけど、どの子にも自信をつけるような言葉をかけていた。私には一日に何度も「君は本当はいい子なんだよ」と言い続けてくださった。
私はいい子なんだと思っていたけど、大人になって思い出したら、「本当は」というのがついていたことに気がついた。でも、先生の言葉は私の一生を決定してくれたくらい、私にはありがたい言葉だった。
私はこの言葉で、勝手にいい子だと思い、先生を信頼し自信をもって大人になれた。 こういう、いつも校長先生に守られている、と安心できる学校。(中略)
その子の持っている個性をできるだけ早く見つけて周りの大人や環境で、その芽が摘まれないように大切に育てようという校長先生の教育は、そのままLDを持った子供にも当てはまるのではないかと、テレビを見ていて私は大きな衝撃を受けた。
引用元:『小さいときから考えてきたこと』
子供時代の黒柳徹子さんは、最初の小学校を自分が退学になったことも、周りの大人たちが自分の振る舞いによって「手こずっている」という事にも気づいていなかったと語っています。
しかし、同時にどこかになんとなく疎外感のような、他のことは違うひとりだけ冷たい目線で周りから見られているような空気感というものには、うっすら感じそうになる瞬間も記憶の片隅ににあったようでした。
画像:2018年5月撮影
それでも、校長先生といると、圧倒的な安心感と暖かさで、
実際にトモエ学園にはポリオの子や小児まひを持っているといった色々な事情や個性の子供達がいたようでしたが、その中でも「みんな一緒だよ」と言われて暮らした学校の友達との一体感があったことが『窓際のトットちゃん』の中ではつづられています。
「君は本当はいい子なんだよ」と言い続けて下さった、この言葉が、どんなに私のこれまでを支えてくれたか計り知れません。
もし、トモエに入ることがなく、小林先生にも逢わなかったら、私は恐らくなにをしても「悪い子」というレッテルを貼られ、コンプレックスにとらわれ、どうしていいか分からないままの大人になっていたと思います。
引用元:『窓際のトットちゃん』あとがき
黒柳徹子の未来を支えた
小林先生の存在。
画像:2018年撮影
子供時代の黒柳徹子さんにとって、自尊心を害する不要なものを浴びずに成長できたという事が、何よりもの宝だったという主旨の事を、たくさんの著書の中で何度も記しています。
■恩師・小林宗作先生は戦後に美輪明宏さんの恩師にもなっていたお話はこちら↓

→次ページ 『窓際のトットちゃん』最終話
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