◆『窓際のトットちゃん』最終話は、子供時代の黒柳徹子が戦争で青森の疎開先へ向かう電車の中の風景と、トモエ学園がB29の焼夷弾で焼けてしまう話
そうして、黒柳徹子さんは子供時代に「トモエ学園」で、自分も含め子どもたちには、それぞれ得意なこと得意ではないことがあるということや、その違いを大事にしながらお互いを思って、一緒に生きていくこと、いくつかの出会いと別れ、その嬉しさと悲しさを経験して育っていきます。
感性の豊かさを極めた
黒柳徹子の子供時代。
そんな大好きだった「トモエ学園」も、東京大空襲を期に、母親の黒柳朝さんが青森への疎開を決意したことで、子供時代の黒柳徹子さんは去ることになります。
画像:黒柳徹子公式Instagram
トモエ学園は
B29の焼夷弾に
焼かれてしまった
疎開先の青森へ向かう電車の中の話が『窓際のトットちゃん』の最終話であり、同時進行としてトモエ学園がアメリカのB29の落としていった焼夷弾によって丸焦げになって無くなってしまうという衝撃的な事実が淡々と語られることで、この本は幕を閉じます。
◆子供時代の黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』の後の時間は、極度の食糧難と飢え、栄養失調で全身にオデキが出来た状態で疎開先の青森県三戸へ行くという現実だった
青森へ向かう時の黒柳徹子さんは、他の多くの東京の人たちと同じように、最悪の食糧難によって飢えで苦しんでいました。
黒柳徹子さんの地域の配給は、当時「ホンダワラという海藻を透明の麺状に加工したもの」だったそうですが、みそやしょうゆや塩のような味のするものも手に入らず、配給とはいっても全く味気も栄養価もなさそうな食べ物だったと戦争証言のインタビューで語っています。
画像:NHK
1945年の東京は
本当に食べ物が無かった。
それほとんど私、栄養がなかったと思うんです。「私ね、そんなもの食べてたんだ」って言ったら小沢昭一さんがね、
「でもそれでもね、君が生きているのはね、そんなものでもあったからなんだよ」って言われて
引用元:『戦争証言アーカイブス』
栄養失調で体中にオデキができ
すべての爪の間が膿んで
激痛を起こした
黒柳徹子さんも当時、栄養失調から全身にできたオデキと爪の間が化膿する症状で、薬もなく痛みをただただ堪えるしかない状況だったと語っています。
画像:2018年撮影
1945年3月に
疎開先の青森へ
しかしそれも、家族で青森の疎開先へついて、母親の黒柳朝さんと長女の黒柳徹子さんが一緒に果物や野菜を持って八戸の漁港まで行商に出かけ、魚と野菜を交換して貰って食べたことで、何とか乗り切り、栄養失調の症状だった全身のオデキや爪の間の化膿もすぐに回復します。
この時、父親の黒柳守綱さんは既に前年の1944年から満州へ出征していた為、黒柳徹子さんはまだ11歳でしたが、下の弟は3歳前後、妹はまだ赤ちゃんだったそうなので、母親の黒柳朝さんにとって、夫不在の中、
黒柳徹子さんは残る家族を生き延びさせるための、頼もしい大きな戦力だったと言えそうです。
親子から戦友へ
◆黒柳徹子は終戦を子供時代に青森県三戸で迎え、1946年には東京品川区の香蘭女学校へ進学、この時期に父親がシベリア抑留から帰国
黒柳徹子さんが終戦を迎えたのは疎開先である青森県の三戸の地でした。疎開先でも母親が農協で働く中で、黒柳徹子さんは学校へ行っていたという記述があるので、トモエ学園を去った後に青森県でも小学校へ通っていたのだと思います。
終戦を迎えた年の翌年にあたる1946年には、黒柳徹子さんは東京品川区の香蘭女学校というお嬢様学校へ入学しています。旧制度の「高等女学校」である為、現在でいう中学校と高校を合わせたような5年間の教育機関でした。
香蘭女学校に通っていた女学生時代に当たる、1949年に黒柳徹子さんの父親の黒柳守綱さんがようやくシベリア抑留から解放されて日本へ帰還され、同年に東京交響楽団のコンサートマスターに改めて就任されています。
ようやく
家族が揃った高校生時代。
画像:香蘭女学校
父親がまだシベリア抑留の生活に居た時期には新聞に大きく「シベリア抑留者の中にヴァイオリニストの黒柳守綱がいる」という事が載ったという話もあったため、黒柳徹子さんの女学校時代には学校でもそんな話が持ち上がったのかもしれません。
やっと
戦後を迎えた黒柳家。
最近でも、黒柳徹子さんは、香蘭女学校維持後援会の会長を務められているようです。(2017年12月現在)トモエ学園だけでなく、香蘭女学校についても母校として大切に想われているようです。
◆黒柳徹子は子供時代にピアノの習い事をしていた。オペラ歌手を目指して、東洋音楽学校(東京音楽大学音楽学部声楽家科)へ進学、夢のきっかけは?
香蘭女学校を卒業した黒柳徹子さんは、1951年、オペラ歌手を目指し、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)声楽科へ進学します。子供時代の習い事にはピアノもあり、父親のオーケストラの練習も自主的に見に行っていたりと、音楽は好きだった様子です。
画像:twitter
しかし、黒柳徹子さんの将来の夢についての内容は、子供時代から「駅の切符を売る人」「トモエ学園の先生」「競馬騎手」「女スパイ」など、様々なジャンルのものを描いてはやめており、オペラ歌手も割と簡単にあきらめたことが伺えます。
父親が音楽家であったため、自分も音楽の道を進みたいという気持ちが元々あったのかもしれませんが、オペラ歌手を目指した直接のきっかけとなったのは香蘭女学校時代、オペラ映画の『トスカ』を観てとても感動したことだったと語っています。
『トスカ』と言えば、
1953年のマリア・カラス
私が思うに・・・。
オペラ歌手というより、
マリアカラスに対する
憧れだったのでは!?(笑)
黒柳徹子さんも、在学中にその事に薄々気付いたのか(?)自分はオペラ歌手にはなれないという予感を何となく感じて辞めています。
そもそも、
歌詞が覚えられないという欠点
オペラ歌手になれないなら、という事で同じ音楽の方向である音楽評論家も選択肢として考えていたようですが、ヴェートーヴェンの『悲壮』『未完成交響曲』の違いが分からなかったことでこちらについても諦めるという事をしています。
何となく、気になったので調べてみると・・・やっぱり!
画像:黒柳徹子公式Instagram
マリア・カラスになってた(爆)!
たまたま今回見つけてしまいましたけれども(笑)、黒柳徹子さんは1996年と1999年の2度にわたって芝居『マスタークラス』で主人公のマリア・カラス役を見事に演じていました。
画像:黒柳徹子公式Instagram
夢、しっかり叶えてた(笑)
◆東洋音楽学校(大学)時代に黒柳徹子のもう一つの愛称「チャック」というあだ名が誕生!同級生からのプロポーズも
そして、大学生だった東洋音楽学校時代、黒柳徹子さんは、同級生からプロポーズをされるという経験をしています。その後も何度か人生でプロポーズはされてきたようですが、おそらくこれが初回だったのではないかと思われます。
そして、もう一つの愛称「チャック」というあだ名を手にしたのもこの時代でした。
画像:Amazon
いつものように機関銃のようにしゃべり続ける黒柳徹子さんに対し、シャープさんはこのような形であだ名「チャック」を命名しています。
「それ以上、無駄なおしゃべりはしないでください。今日は大事なオケ合わせなんですから。お願いだからそれ以上しゃべらないで。口にチャックして下さい。あなたのアダ名は今日からチャック!」
引用元:『トットちゃん』31話
なんとも
黒柳徹子さんらしいあだ名w
これも、聞く人によってはショックを受けるような場面だったでしょうが、黒柳徹子さんはこの時に
「芸名・黒柳チャック!ステキ!」
というなんともポジティブな感想を持っています。これも、子供時代に小林宗作先生や、母親の黒柳朝さんが大切に育み、守ってくれた才能と言えそうです。
黒柳徹子さんを知れば知るほど分かるのは、いつも「好奇心」でいっぱいということ。
画像:メルカリ
この好奇心の種を、黒柳徹子さんに撒き、幼い芽を見守ってくれたのは、子供時代に傍にいてくれた暖かい大人たち、子どもの声にも耳を傾けてくれた、その心の温もりだったことが分かった今回でした。
本当にとにかく戦争はやめてもらいたいということが第一ですよね、何よりも戦争はやめてほしいということです。
大人が引き起こすことなんでね、子どもたちはみんな分からなくてもついていくんですから、それはかわいそうすぎますよね、本当に戦争は全部やめてほしいっていつも思ってます。
引用元:戦争証言アーカイブス
黒柳徹子さんは子供時代に受け取った温もりを、世界の内戦に巻き込まれる子供たちに渡そうと活動してきました。
みんな一緒だよ。
一緒にやるんだよ。
今この国で、そんなことを我が子に教えられる大人はどれほどいるのだろうと、子育てをする身として、とても心に鈍痛を覚える感覚がしました。
■黒柳徹子さんの若い頃、ニューヨークのお話はこちら↓

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