日本で最初のテレビジョンの女優さんとして若い頃から現在も活躍する黒柳徹子さんですが、とっても豊かな女性である黒柳徹子さんが、当時どんな女性だったのか、昔の恋人や結婚歴など気になります。
今回は黒柳徹子さんの若い頃のニューヨーク時代、チャームポイントのタマネギヘアの秘密、黒柳徹子さんの人生を支えてきた40年に及ぶ大恋愛と恋人がいたお話など画像と共にお届けしたいと思います。
◆黒柳徹子の最も昔の時代の若い頃は障害だったという噂は?
黒柳徹子さんは子供時代に尋常小学校を1年生んで退学になるという経歴を持っています。
画像:黒柳徹子公式Instagram
後に「ADSD(注意欠陥・多動性障害)」やLD(学習障害)と呼ばれる子供たちの様子を見る機会があり、自分の小さなころとほとんど変わらないその様子に衝撃を覚えたようです。
また同じ時代に、そんな「少し変わった」女の子だった黒柳徹子さんの心を励まし、導いてくれた最初の恩師に黒柳徹子さんは出会っています。
■黒柳徹子さんの子供の頃のお話はこちらでご紹介しています。↓

そして、戦争、疎開を体験し、中学高校を香蘭女学校で過ごした後、黒柳徹子さんは東洋音楽大学に進学しました。
◆1953年1月(年齢19歳)黒柳徹子はNHKは放送劇団へ。若い頃の写真が美人!日本初代のドラマ女優だった!?応募理由と昔のファッションと意外な高身長 画像!
画像:黒柳徹子公式Instagram
オペラ歌手を目指していた!
しかし、大学卒業後、オペラ歌手にはなれないと分かったという若い頃の黒柳徹子さんは、新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募します。
そこで黒柳徹子さんは約6,000人の応募者の中から第6次審査を経て、たった13人の劇団員の1人として選ばれる事になります。
そこへ応募したきっかけを黒柳徹子さんはこう述べています。若い頃の黒柳徹子さんの初期の夢です。
「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立って、
「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と。

小さいころの夢はきっぷ切りの人やチンドン屋さんなど色々だったようです(笑)
そうした経緯で、若い頃の黒柳徹子さんはテレビ放送の開始を翌月に控えた1953年(昭和28年)1月、なんと我が国のテレビ女優第一号の一人として日本放送協会に入局します。
入社時の面接で若い頃の黒柳徹子さんは「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」など、
入社の面接としては今では考えられないような失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたということです。
黒柳徹子さんの著書『トットチャンネル』(若い時代の黒柳徹子さんのお話が満載のエッセイ)では、NHKアナウンサー時代の話があり、「くろやなぎてつこ」という言葉の発音がとても難しく、よく「くろななぎとつこ」等、読み方をよく間違えられる名前だと語っています。

『窓際のトットちゃん』もとても素敵なエッセイですが、個人的には『トットチャンネル』も負けないくらい大好きです
その他にも『トットチャンネル』の中には、黒柳徹子さんは芸名を「白川リリー」にしようと思った等の面白いエピソードが詰まっています。また、意外と身長が高くて163㎝もあるんですね!
◆若い頃の黒柳徹子の選んだテレビジョンの仕事に希望を与えたテッド・アレグレッティー氏の講演
若い頃の黒柳徹子さんには、女優時代の初めの頃、ディレクターにずーっと降ろされていた、という挫折もあったようでしたが、ある時プロとしての女優意識が芽生えます。
画像:黒柳徹子公式Instagram
うまく使えば
永久的な平和が
テレビジョンによってもたらせる。
アメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で
「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース・教養番組はテレビ放送全体の15%だが、公共放送のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、うまく使えば永久的な平和がテレビジョンによってもたらせる」
を聞いて、プロとしての女優意識が目覚めたという。
テッド・アレグレッティーさんの講演は、若い頃の黒柳徹子さんに仕事に対する大きな「希望」を与えることとなりました。
幼少期にこの国で実際に「戦争」を体験した黒柳徹子さんにとって、「平和」は何よりも大きな宝だという思いが大きくあったのでしょう。
◆1954年(年齢21歳)若い頃の黒柳徹子の仕事での挫折に希望を与えた人生二人目の恩師・飯沢匡氏の存在と『ヤン坊・ニン坊・トン坊』初主演
ところが、仕事を開始した後の黒柳徹子さんが経験したのは挫折の数々でした。「声がヘン」「話し方がヘン」「個性が邪魔」・・・とたびたび演出家から散々なことを言われて仕事を下ろされる日々が続きます。
画像:黒柳徹子公式Instagram
個性的な声が
煙たがれる存在に・・・
「ちょっとそこのお嬢さん、一人だけ目立つと困るんだよね」
「お嬢さん今日は帰っていいよ」
「お嬢さん来ちゃったの。いいよ、いいよ、やらなくて」(中略)「喋り方を明日までに直せ!」
「みんなと同じにできませんか?」引用元:『デイリー新潮』
そのような厳しい言葉は、演出家からだけでなく、先輩からも言われ続けることになり、役を下ろされることが続いたことで、黒柳徹子さんはすっかり自信を失っていました。
画像:黒柳徹子公式Instagram
そこへ、ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』への出演のオーディションがあり、黒柳徹子さんは劇作家の飯沢匡(いいざわただす)氏の目に留まり、「トン坊」役に見事合格します。
ところが、黒柳徹子さんは合格しても、これまでの事があったので自信がなく、また降板させられるのではないかという不安ばかり抱いていました。そして、必死で飯沢匡氏に訴えます。
「私、日本語も喋り方も歌い方もヘンだとみんなに言われています。個性も引っ込めます。勉強して、ちゃんとやりますから。」
引用元:『デイリー新潮』
すると、飯沢匡氏は黒柳徹子さんへ生涯忘れることの出来ない言葉を笑いながら返してくれることとなりました。
画像:Wikipedia
そのままがいいんだよ。
「直しちゃいけません。あなたの喋り方がいいんですから。どこもヘンじゃ、ありません。そのままで、いて下さい。それが、あなたの個性で、それを僕たちは必要としているんですからね。
心配しなくても大丈夫。いいですね? 直すんじゃ、ありませんよ。あなたの、そのままが、いいんです!」
引用元:『デイリー新潮』
この言葉が、黒柳徹子さんにとって、本当に救いとなる一言となったと何度も色々な場所で話されています。
世の中には
私のような個性も
必要としてくれる人がいる
そう思えたことが何よりもうれしかったそうです。
画像:NHKアーカイブス
そうして、1954年(21歳)に黒柳徹子さんは初主演となるラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』が開始し、三男・トン坊役を演じて一躍有名になります。
劇作家である飯沢匡さんの発案「大人でも子どもの声を出せるはずだ」というものから、同番組は日本のラジオドラマ史上初めて、大人の女性が子供の声を演じた番組だったのですが、それを見事に実現したのが他でもない黒柳徹子さんだったということになります。
画像:黒柳徹子公式Instagram
以降も若い頃の黒柳徹子さんは『チロリン村とくるみの木』、『ブーフーウー』などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じたそうで、当初の志望理由だった「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」は、若くして果たせたと言えそうです。
■黒柳徹子さんの恩師が美輪明宏さんの恩師でもあったお話はこちら↓

◆1958年(年齢25歳)黒柳徹子はNHK紅白歌合戦の司会を始めて担当!仕事は多忙を極めることに
1958年(25歳)に黒柳徹子さんは『第9回NHK紅白歌合戦』にて初めて紅組司会を務めています。後に1978年から『ザ・ベストテン』という時代を制した歌番組の司会をされていましたけれども、最初の歌番組の司会は25歳という年齢で果たされていたことになります。
画像:第9回紅白歌合戦
その後、黒柳徹子さんが第1回放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞した1961年以降の5年間は週6.7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになっていきます。
下の写真は、昔あまりにも忙しい日々だったために、黒柳徹子さんが撮影の合間によくやっていたポーズ。マイクの後ろ側に鼻を乗せて、頭部の重みをマイクに掛けることで立ちながら休むという、独自の休憩スタイルだったようです(笑)
黒柳徹子の休憩ポーズ
画像:黒柳徹子公式Instagram
休憩スタイルまで個性的!(笑)
その後、舞台出身の俳優の演技力に目を付けた若い頃の黒柳徹子さんは、慕っていた杉村春子さんに文学座への入団を相談し、入所して演技を学びます。
■泉ピン子さんも杉村春子さんを師匠と呼び、演技を学んでいました
そこからしばらくたった1970年には、東宝のミュージカル『スカーレット』がきっかけとなり、作曲家のハロルド・ローム夫妻と親しくなったことで、ニューヨーク留学を決心したのでした。
画像:黒柳徹子公式Instagram

黒柳徹子さんの父親が音楽家だったので、ご縁があったのかもしれないですね。
◆ひし美ゆり子の昔の写真が黒柳徹子の若い頃と間違われ有名に!?比較画像
こちらの写真は黒柳徹子さんではなく、ひし美ゆり子さんという方の若い頃の写真です。こちらの画像が2012年には「黒柳徹子18歳」としてTwitter上で5000RT(リツイート)以上されてしまい、大ごとに…。
情報社会の
修正機能も凄かった(笑)!
「ウルトラセブン」のアンヌ隊員として知られるひし美ゆり子さんは有名なので、すぐに様々な人からツッコミが入って間違いが訂正されていました。
ちなみに黒柳徹子さんの若い頃のお写真も、とってもかわいいです。
チャームングなところも含めて、若い頃の黒柳徹子さんこそ、和製オードリー・ヘップバーンですね。
◆黒柳徹子は昔結婚を考えていた?旦那さんはいたの!?若い頃の恋人とはお見合いも破談?失恋がニューヨークへ行くきっかけに?
ここまで若い頃の黒柳徹子さんを見ても分かることですが、とてもチャーミングで人間的魅力あふれた美人です。ですから、沢山のステキな恋愛もあったようです。
たくさん恋愛もあったようだ。
22~23歳のころは何回も若い頃の黒柳徹子さんにお見合いの話もあったというお話があり、普通の女性たちと同じように、昔は好きな男性も何人かいたようです。
「30歳ぐらいまでの間にいろいろあった」と、ご本人も語っています。
まだ20歳前後の頃にお見合いをした相手とは、黒柳徹子さんは交際もし、結納まで行ったようですが、その結婚は破談となってしまったそうです。
サラッと話しましたが
よく考えると
なかなか大きな出来事。
その後に、また結婚話まで出た相手とはふたたび破局(;’∀’)、その時までには黒柳徹子さんのお仕事が充実してきた分、かなり私生活も忙しくなっていたようです。
こうしていくつかの「結婚するタイミング」はあったものの、そのどれもが、若い頃の黒柳徹子さんやお相手のタイミングと合わないことから、結婚までには至らなかったと話しています。
画像:黒柳徹子公式Instagram
黒柳徹子さんはその後、38歳の時に1年間ニューヨークへ行くことを決意していますが、年頃の女性がこうして海外へ行く、しかも40歳を目前にして・・・。というのは
どう考えても
タダごとではありません。
タイミングもあったでしょうが、何か「変わっていかなければならない必要に迫られた」と考えるのが自然かなと、同じ女性の私は感じます。
また、逆に言えばもともと好奇心旺盛な若い頃の黒柳徹子さんは、その好奇心を満たすことにわざわざ集中したとも言えます。
それを裏付けるようなお話として、30代半ばに若い頃の黒柳徹子さんはとある男性に逆プロポーズをして、見事に断られてしまうという経験をされているようです。その相手には
結婚はいいものではない。
と断られたようです。
結構、バッサリフラれてた(;’∀’)
画像:黒柳徹子公式Instagram
若い頃の黒柳徹子さんにとっては、自分から結婚してほしいと言うほどの相手だったわけですから、よほどの愛情だったと思われますし、
それだけに大きな失恋でもあったのだと思います。そうして黒柳徹子さんは30代半ばの悲恋を消化するため(?)
か、どうかは分かりませんが、38歳にしてニューヨークへ行きます。
テツコ、
38歳でニューヨークへゴー!
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