◆1971年9月(年齢38歳)黒柳徹子はニューヨークへ1年留学!
そうして、ミュージカル『スカーレット』でご縁があった後に、若い頃の黒柳徹子さんが「ニューヨークのお母さん」と呼ぶことになったフローレンス夫人から「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けます。
画像:NHKアーカイブス「1968年35歳頃の黒柳徹子さん」
女優としての勉強を重ねる為にとニューヨークへの留学を決意し、1971年(38歳)から1年間、黒柳徹子さんはニューヨークへ留学をします。
また、黒柳徹子さんの伯父には松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村氏や、日本ニュースのニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治氏がいたということなので、
若い頃の黒柳徹子さんがニューヨークへ行くのには他にも色々な関係者のサポートがあったのかもしれません。
そうしてニューヨークに降り立った若い頃の黒柳徹子さんは、セントラル・パーク西隣のワンルームに部屋を借りて生活していたそうです。
初の東洋人の生徒に!
「メアリーターサイ演劇学校」にて女優としての演技を学び、ここでも黒柳徹子さんは「開校以来初の東洋人の生徒」となりました。
また、その学校と同じ建物内にある「ルイジ・ダンススクール」で若い頃の黒柳徹子さんはモダン・ダンスも学んでいました。
若い頃の黒柳徹子さんはそうして、「感性」を育むことに人生をつかってこられたようです。この写真にもマリー・ローランサンらしき絵画の写真が写っていたり、ファッションや髪型もとてもモダンで素敵ですね。
◆黒柳徹子は昔結婚していた?40年愛の恋人・ピアニストの彼氏がいた!?2013年に語られた恋愛観と写真画像
2013年12月に放送されたNHK番組で黒柳徹子さんは自身の人生での「恋愛観」についてお話をされました。
画像:黒柳徹子公式インスタグラム
遠距離恋愛40年
だったことを告白。
黒柳徹子さんはこれまでの恋愛に満足をしていることを明かしたうえで、過去に外国人男性と、年に1、2度ほどしか会えない遠距離恋愛を40年続けていたと告白しています。
画像:黒柳徹子公式Instagram
2017年秋には若き日の黒柳徹子さんのエッセイである『トットチャンネル』が『トットちゃん!』としてドラマ化されたことで黒柳徹子さんの語っていた40年の恋のお相手の話も出てくることになりました。ドラマの中ではお相手の名前は「カール・祐介・ケルナー」という役で登場しました。
その「カール・祐介・ケルナー」のモデルとなった本人はブルガリアの国際的ピアニストである「アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg)」氏ではないかと言われています。
「アレクシス・ワイセンベルク」氏は残念ながら2012年1月に他界されています。そこから逆算して40年前ということになると、1972年以前、つまりちょうど黒柳徹子さんがニューヨークへ行かれた前後から交際していたこととなります。
◆黒柳徹子と若い頃から40年間もの愛情関係だった恋人と噂される・アレクシス・ワイセンベルクとは?ピアニストで指揮者?結婚は?
アレクシス・ワイセンベルクさんは1929年生まれのユダヤ人であった為、第二次世界大戦の終りに母親と二人でトルコの国境付近の強制収容所に入れられていました。

カッコいい男性です♡
それでも幸運なことに彼のアコーディオン演奏のすばらしさから看守に親子で逃がしてもらう事ができた事で、その後世界的な音楽家として活躍することができた数奇な人生を送っている人でした。
黒柳徹子さんは1933年生まれですから、4歳ほど年上だったことになります。
画像:黒柳徹子公式Instagram
ドラマ『トットちゃん!』の中では、若い頃の黒柳徹子さんはお相手となるピアニストと日本国内で一度あいさつ程度の接点があり、その後にニューヨークで再会し、恋に落ちます。
1年の留学が終わる帰国前には「パリに一緒に来ないか」とお相手に言われたものの、既に日本帰国後の『徹子の部屋』のスタートが決定しており、彼についていくという決断ができなかったと黒柳徹子さんは語っています。
画像:黒柳徹子公式Instagram
黒柳徹子さんはパリへ行かなかった自分について、こう考えているのかもしれません。
お相手だったと有力視されているアレクシス・ワイセンベルク氏も亡命後、27歳でフランス国籍を取得したことからパリを拠点に世界で活躍されていたようです。
黒柳徹子さんは帰国後も、お相手と忙しいスケジュールの中、当時は手紙やFAXを使ってやり取りを続け、連休がとれると遠く離れた異国の恋人に会いに行かれていたそうです。
なんて情熱的なw
現代の音楽界の
「巨匠」といわれるひとり!
若き日の黒柳徹子さんが実らせたその恋愛は、お相手と年に1.2回会うだけという切ない状況でしたが、長い目で見れば織姫と彦星より概算で年間倍も会えて(笑)40年間も続いたというのですから、とてもロマンチックな大恋愛ですよね。単純計算で80回。
大切な人と会える1回、1回を大事に過ごす意味では、そうした悪条件の方がかえっていい時間を過ごせるのかもしれません。多くても、少なくても「決まった数」しか、人と人が過ごせないことは皆同じなのですから。
◆2012年、黒柳徹子とアレクシス・ワイセンベルクとの若い頃からの恋愛は恋人の病気・パーキンソン病による脳梗塞で幕を閉じた。その時の年齢は?
お相手がアレクシス・ワイセンベルク氏かどうかは黒柳徹子さんからは明かされていませんが、アレクシス・ワイセンベルク氏は2001年のコンサートを最後に、パーキーンソン病との約10年間の闘病生活を経て、2012年1月にスイスのルガーノでパーキンソン病を原因とする脳梗塞で亡くなられています。
83歳での永眠となりました。当時、黒柳徹子さんは78歳。
今世での
最後の恋人になった黒柳徹子
それから約1年後の2013年12月に放送されたNHK番組で黒柳徹子さんが「40年間続いた恋のお相手が既に亡くなってしまっている事」を話しています。現世でのふたりの思い出の旅が静かに幕を閉じました。
■薬師丸ひろ子さんと玉置浩二さんの元夫婦の愛情はこちら↓

◆黒柳徹子のトレンドマークのタマネギヘアは若い頃ニューヨーク時代に〇〇をモデルに開発された!?
さて、もうひとつ、ニューヨーク時代には黒柳徹子さんにとって、とても大きな出来事がありました。
画像:黒柳徹子公式Instagram
黒柳徹子さんがニューヨーク留学中の若い頃は、アメリカのカルチャーですから、アフターファイブに振り袖を着て、カクテルディナーなど社交の場に足を運んでいたというお洒落なエピソードがあります。
そこで実は黒柳徹子さんを象徴する「歴史的なモノ」が生まれていました!
若かりし頃の黒柳徹子さんがパーティへ参加して強く思ったことは、
着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい。
という事でした。
そこへニューヨークで知り合って、友人となったヘアメイクアーティスト・須賀勇介氏のアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案されたという事です!一説によると、マリー・アントワネットの髪型をモデルにしているとか。
タマネギヘア誕生!!
画像:黒柳徹子公式Instagram
2017年に黒柳徹子さんは若い頃のタマネギヘア誕生秘話を自身のインスタグラムで公開しています。(抜粋転載)
先週のお昼のドラマ「トットちゃん!」にも、須賀勇介さんが出てきましたが、私の「たまねぎ頭」の生みの親です。
須賀勇介さんは、髪の毛がどういうものかを、良く知っていました。
お話をしていると、二人はとっても気が合うのが分かって、すぐにお友達になり、私が、ニューヨークに遊びに行く時は、須賀勇介さんのお家に、いつも居候させていただきました。
須賀勇介さんのNYのお家にいると、ハリウッド女優のブルックシールズや、ダイアナロスなどが、突然、遊びに来たりしました!世界の有名人たちからのオファーが、殺到しました。
私が、たまたまニューヨークに行っている時に、須賀勇介さんが、オードリー・ヘップバーンのヘアーも担当しました。須賀勇介さんは、若い頃からものすごくオードリー・ヘップバーンのファンだったので、とてもうれしそうでした。
引用元:黒柳徹子公式Instagram(抜粋転載)
黒柳徹子のトレンドマークへ
画像:pinterest.jp
黒柳徹子さんの若い頃のタマネギヘアの生みの親は何やらとってもすごい、世界的なヘアメイクアーティスト須賀勇介さんだったようです。
◆黒柳徹子の若い頃ニューヨーク時代の着物姿とタマネギヘアに現在の若い世代からも歓声が上がったインスタ写真画像&小さな恋?サバ読んでない?というくらいかわいいNY振袖 画像
こちら、ニューヨークのど真ん中、NY5番街で撮られた黒柳徹子さんの振袖姿です。
画像:黒柳徹子公式Instagram
圧巻!
この写真は、若い頃の黒柳徹子さんがニューヨーク時代にイースターパレードに参加したときの写真だそうです。
パレードに参加していたニューヨークの人たちみんなから一緒に写真を撮りたいと言われ、翌日のニューヨークの紙面に無名時代の昔の黒柳徹子さんが大きく掲載されていたという逸話があります。

とってもかわいいですもんね!
画像:pinterest.jp
黒柳徹子さんはトレンドマークとなったタマネギヘアを考案してくれた須賀勇介さんとの若い頃の思い出について自身のInstagramでこのように語っています。
今でも思い出すと、須賀勇介さんの海の別荘で手をつなぎながら、モーツアルトのオペラ「魔笛」の中の「夜の女王のアリア」を二人で声を揃えて歌いながら歩いていたことを懐かしく思い出します。
須賀勇介さんはだいぶ前に、お亡くなりましたけど、今でもふっと「須賀さん」と呼びかけたくなります💕
良いお友達は持つべきものだとつくづく思います。
このお話の中には、とても興味深いくだりがあります。「須賀勇介さんの海の別荘」、「手をつなぎながら」、「「魔笛」の中の「夜の女王のアリア」を二人で声を揃えて歌い」
小さな恋では??
どう読んでも、黒柳徹子さんにとって若い頃の「小さな恋」だった印象です。違和感があるとすれば、「なぜ夜の女王マリア」wwという点くらいでしょうか(笑)。でも、きっとそれに付き合ってくれる男性だったからこそ黒柳徹子さんが恋に落ちたとも言えそうな気がします。
アリアは100人中
99人
付き合ってくれないと思うw
昔、ニューヨークで出会った須賀勇介さんが黒柳徹子さんに残してくれた若い頃の思い出と同じように、黒柳徹子さんは彼が残してくれたタマネギヘアもずっと大切に側に置いてきたのでしょう。

最近思うのですが、素敵な思い出があると、だんだん相手が近くにいるとかいないとか、この世に生きているとか生きていないとか、あんまり関係がなくなってきますね。
◆黒柳徹子の「タマネギ頭」は実は久米宏が名づけ親!昔から収納ポケット?飴玉にパスポート?
余談になりますけれども、この黒柳徹子さんのヘアスタイルに「タマネギ頭」という呼び名を付けたのは若い頃の久米宏さんだそうです(笑)さすが久米宏さん(笑)!
「玉ネギ頭」を命名
久米宏さんは黒柳徹子さんのヘアスタイルのとある秘密をばらした人でもありました(笑)
おやつが出てくる!?
もともと、「ザ・ベストテン」の放送中に頭からアメを出したことがあるんです。久米宏さんが「あなた、その頭の中に何か入れてるんですか」とおっしゃるから、「入れてますよ」って、アメとかおせんべいとかいっぱい出したんですよ。
それをごらんになった方たちが、いまお母さんの世代になってるんですね。だから、子どもたちが「ちょっと訊いていいですか」と言うわけです。楽しいわよね。
黒柳徹子さんは若い頃からタマネギヘアを小物入れとして活用していた!
『徹子の部屋』で青山テルマが出演した時に髪の毛の中から飴玉を取り出し、その際に「いつもはお煎餅も入れているんですけど、今日はないわ」とも発言している。
また、黒柳徹子に近い関係者によると、黒柳徹子はかなり前から髪の毛をポケットとして使っており、海外に行く時はパスポートや大事な書類も髪の毛の中に入れることもあるという。髪の毛に小物を入れる理由は、子供たちに会った時にプレゼントするためと話す。
一説によると、
携帯電話も入るらしいw
画像:黒柳徹子公式Instagram

やっぱり、子供にプレゼントしてた(笑)!
そうそう、こども店長の加藤清史郎くんが来たときも、頭からアメを出しました。
「頭のなかにアメ入ってますか?」
「うーん、どうかな、今日」
まぁ、そのときも入ってましたから。そしたら、こども店長もものすごく驚いてました。妹さんがいること、知ってたから「妹さんにもあげて」って、ふたつ渡したら、固まっちゃったの。
この黒柳徹子さんのプレゼントは割と、評判がいいみたいw

とにかく昔からユニークな方です(笑)
◆黒柳徹子の若い頃から40年の恋人だったアレクシス・ワイセンベルク氏は徹子の部屋に出演していた!まだ結婚をあきらめてない(笑)!?若者へ伝える恋愛観
アレクシス・ワイセンベルク氏は1969年に初来日として黒柳徹子さんの番組である『徹子の部屋』と『音楽の広場』という番組に出演されており、1982年の来日の際は再度『徹子の部屋』に出演されていたそうです。
若い頃から生涯で9回日本に来たと言われています。
2012年7月10日放送の『徹子の部屋』では、その年亡くなったアレクシス・ワイセンベルク氏が『徹子の部屋』に出演した際の映像も放送されました。
黒柳徹子さんは日本の若者に向けてこんなメッセージを送っています。
誰かを信頼して、好きだと思える人がいることはこういう仕事をしていく上で大事。今はいません。
良い恋愛をすると、別れても、その人が死んでも、いつまでも生きていくことができる。
私みたいに変なっぽい人を、変なっぽい人と思わないで見てくれた。
画像:黒柳徹子公式Instagram
別れても死んでも
いつも一緒に居ると思えるから。
過去に自分を愛していてくれた人たちがいたこと、それがどんなに自分のこれまでの人生を輝かせ、支えてきてくれたか、これからも変わらずに支えてくれるものであるか。
そして若者には、「結婚するとかしないとかじゃなく、良い恋愛をしてほしい」と黒柳徹子さんはエールを送ったそうです。
黒柳徹子さんはここまでの人生ではずっと独身でした。
しかし、後のインタビューで黒柳徹子さん「結婚を諦めたわけではない」とも語っていたそうです(笑)。

豊かな女性には、その花を咲かせ続ける為に、たくさんの栄養を注いでくれる人がいました。
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