◆1987年(年齢29歳)女優・萬田久子は不倫相手である佐々木力氏との間の子供(息子)をニューヨークで出産。未婚の母へ
さらに、不倫期間であった時期にあたる1987年10月、萬田久子さんは29歳で佐々木力さんとの間の子供をニューヨークで出産します。出会いから3年目でした。
不倫中に子供を出産。
未婚の母へ。
臨月にニューヨークへ行って出産したのは、既に二人の不倫関係が日本中で騒ぎになっており、国内で出産することが母子にとって安全ではないという判断からだったのかもしれません。
出産についても、反対されるほどの大バッシングが既に起こっていました。萬田久子さんが初産に際してこうしたことに精神を追い詰められたことは、自分が選んだ道とはいえ、とても過酷な時間だっただろうと想像します。
けれども、自身の妊娠中に不倫相手が発覚し、子供まで生まれてしまった本妻もかなりの苦しみだっただろうと言えます。
◆1988年1月に子供を出産後に日本帰国した萬田久子は「不倫」「未婚の母」で大バッシングを浴びる
翌、1988年1月に萬田久子さんは「未婚の母」としてニューヨークから日本帰国をします。
その時には空港に待ち構えた新聞社、雑誌社、テレビ放送の各局が萬田久子さんの日本帰国を待ち構え、連日のように「不倫」「未婚の母」と大バッシングを繰り広げることになりました。
バッシングの主な内容は主に以下のようなものでした。
●不倫で生まれた未婚の母を持つ子供がかわいそう、無責任
◆1994年秋(年齢36歳)萬田久子と佐々木力氏は不倫~猛烈なバッシングを受けながら自宅目黒(自由が丘?)で事実婚を開始。
香港から帰国した佐々木力さんは、萬田久子さんとの間の子供(息子)を認知し、新しい生活を築くために東京目黒区に大豪邸を購入しました。
画像:https://ameblo.jp/jewelbox310/entry-10669777185.html
佐々木力さんが亡くなる前の2010年10月の投稿の写真に、萬田久子さんの目黒区自由が丘のご自宅の写真がありました。
この自由が丘の家が、萬田久子さんの出産後に佐々木力さんが購入した豪邸かどうかは不明ですけれども、「目黒区」という点で一致しています。
けれども、後に佐々木力さんは自身の法人を会社清算する手続きをしているため、写真の自由が丘のご自宅は、その後改めて購入した不動産である可能性もあります。
◆萬田久子と佐々木力氏の事実婚開始、「不倫相手」から「内縁の妻」へ格上げの理由に前妻との正式な離婚。「再婚をしない」という条件があったらしい。
さて。
我が子がいるにもかかわらず、不倫を突き通し、不倫相手との子供を認知した佐々木力さんに対して、本妻の女性がとても大きな失望と不安を抱いたのは察するに余りあることでもあります。
1994年秋というと、萬田久子さんと佐々木力さんとの間の子供も8歳となる年齢であり、それより年長の子供たち3人を抱えた本妻の気持ちを考えると、自身の将来だけでなく子供たちの将来の養育にも不安を抱える状況だったことでしょう。
離婚に際し、本妻の女性は「生涯、誰とも結婚をしないこと」を条件に離婚に合意したそうです。とても離婚条件について、もめにもめたという話もありました。
ここに関しては、
●ましてや家族を壊した元愛人に、財産まで奪われたくない
ということも、もちろんあったのだろうという推測が及びますが、個人的には
という信じて人生を託した男に、はしごを外された「女性としての怒り」も込められていたのではないかと感じます。
自分の人生をかけて結婚をして、子供を産み育ててきた女性としては、この大きな怒りから解放されるまでに、ご本人も大きな苦しみを持って生きていかれたのだろうと思います。
「生涯、誰とも結婚をしないこと。」
この条件は「民法」上では身分にかかわる問題なので、法律的には「無効」である条件です。もちろん国内外で活躍されていた佐々木力さんも、言った張本人である元妻も、そんなことは十分承知されていた事だったでしょう。
しかし、法律的な有効、無効という意味以上に、この言葉には大きな重みがあります。自分の勝手で人生をめちゃくちゃにしてしまった元妻子の「意思」というものは、佐々木力さんにとって、とても大きな人生の十字架となっただろうと思われます。
法律は許したとしても、元妻子や自分自身の内側に居る正義を司る人、お天道様が許さないと思った事でしょう。
また、そういう大きな十字架を背負う立場であった佐々木力さんであることを知っていて、それでもなお愛した萬田久子さんは、すべてを承知の上で共に伴侶として生きて行くことを受け入れたのだろうと思います。
元妻の想いの重み、それに対する佐々木力さんの気持ちしっかりと受け留めて、萬田久子さんは生涯「事実婚」「内縁の妻」という形を通したのでした。
■阿川佐和子さんの旦那さんの元妻もカッコイイ件はこちら↓

◆1998年(年齢40歳)会社倒産。華やかな時代だけではなかった萬田久子と佐々木力氏の時間
ここまでの話を追っていくと、もうすでに成功を手にしていた佐々木力さんという人物と、財力権力のある男性について行った、プリティウーマン的萬田久子さんを連想してしまうわけですが、事実関係を追っていくと、全くそうではなかったことが分かります。
画像:https://kaikumikodaisuki.com
1984年に出会ってから1990年代までは階段を駆け上がるように上り詰めていった佐々木力さんでしたが、事業拡大が続く絶好調の裏で、在庫管理に目が届かなかったことによって、あっという間に会社清算にまで追い込まれ転落してしまいます。離婚成立から4年後のことです。
離婚成立から
4年後に会社清算。
従業員の給与を確保するために、萬田久子さんも佐々木力さんの香港の自宅整理・売却を手伝って「夜逃げってこんな感じかな?」と思ったという経験をされています。
すごいジェットコースターに乗っちゃったな、でも、あたふたしても仕方がないし、どうせ最初は何にもなかったのだから、と思っていました。
引用元:『Forbes』2018年7月4日
どん底の状況を味わうことになった佐々木力さんの傍にいたのも萬田久子さんだったのです。その当時は「よし、私が面倒見るか」と思っていたとも語っています。
画像:萬田久子公式Instagram
その後、佐々木力さんは50代でファーストリテイリングの柳井正さんに出会い、傘下に入れて貰ったことで人生を好転させるきっかけを改めて掴むことになりました。
後に佐々木力さんは萬田久子さんにこんなことを語ったと言われています。
キミがあのとき能天気でよかった。一緒にどん底に陥らずに済んだ
引用元:『Forbes』2018年7月4日
この辺りの話は、落合博満さんの年俸を100倍にした恐妻として知られている落合信子さんにも共通した感性のお話があるように思えます↓


大きな偉業を遂げる人には、いつも精神的にタフなパートナーが傍にいるのかも?しれません。
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