勝新太郎と中村玉緒息子・鴈龍太郎の映画『座頭市』真剣事故と親子愛

◆人物

2019年11月に勝新太郎さんと中村玉緒さんの長男で俳優だった鴈龍太郎さんが急性心不全で亡くなりました。今回は芸能界のサラブレッドと言われて新星のごとく登場した若き男性に降りかかった大きな事故と、親子の愛情や関係について調べてみました。

◆大俳優・勝新太郎と梨園出身女優・中村玉緒家族に生まれた芸能界のサラブレットと称された長男息子・鴈龍太郎の幼少期、本名は? 画像

 

1962年にご結婚された大俳優・勝新太郎さんと梨園出身の箱入り女優の中村玉緒さんの間には2人のお子さんが誕生しています。

 


画像:https://芸能人の子供.com

 

・1962年誕生<第一子長女・娘>奥村真粧美
・1964年誕生<第二子長男・息子>鴈龍太郎(本名:奥村雄大

 

特に、大俳優・勝新太郎に息子が生まれた!ということで、鴈龍太郎さんが誕生した時には多くの勝新太郎ファンだけでなく、日本中が将来の芸能界を牽引することになるであろう新星の誕生に興奮を覚えていたようです。

 

芸能界のサラブレット!

 

と言われ、勝新太郎さんと中村玉緒さんの長男・鴈龍太郎さんがどんな大物俳優になるか期待が大きく先行する状況だったようです。

 

◆父親・勝新太郎は子育ても型破り。長男・鴈龍太郎(奥村雄大)に対して幼少期、少年時代はドラマのような無茶苦茶な教育方針だった!学歴は英語を武器に 親子エピソードあり画像

 

鴈龍太郎さんの幼少期時代のエピソードには「昭和」という時代を彷彿とさせる厳しい親子関係もあったようです。

 


画像:gendai.ismedia.jp/

 

ぜん息もちだった鴈龍太郎さんはその影響からあまり体力のない幼児だったのかもしれません。勝新太郎さんはそうした体の脆弱さが目立つ息子・鴈龍太郎さんの心身を鍛える為といって、水を張った洗面器に毎日のように顔を押し付けて体を鍛えようとしていたという話があります。

 

その習慣によって少年時代の鴈龍太郎さんは中耳炎を起こしたこともあったほどだったそうです。普通に考えて、現代だったら正直、問題と言われてもおかしくない種類の教育方針です。

 


画像:https://akasann.biz/ganryuutarou-wakaikoro/

 

幼い頃に水が苦手だったということからの勝新太郎さんならではの息子を「強い男」にするための教育方針だったかもしれませんが、鴈龍太郎さんが「水が苦手」というと、息子を問答無用でにプールや川へ容赦なく投げ入れていたという事です。

 

息子よ、向こう側へいくんだ。

 

合理的な指導方針というよりは、こんな印象です。さらに、高い所も苦手だった鴈龍太郎さんは父・勝新太郎さんからこのような無茶苦茶な指令も受けていました。

 

僕は幼いころ、高いところが苦手だったのですが、それを知ったおやじは撮影所の照明台の最上部に僕を登らせ、下から
『よし、俺のところに飛んで来い!』と命じるんです。無茶ですよ。高さが10m以上あったんですから。おやじが受け止められなかったら、間違いなく死にます。だから飛びませんでしたよ。

引用元:gooニュース

 

合理的でない、
無駄で無謀に見える挑戦にこそ
本当の大きな価値は存在する。

 

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勝新太郎さんは恐怖心が強い息子に対して、「恐怖の向こう側」へ行く体験その心の壁を乗り越えられたという「達成感」そこでしか得ることができない「生の価値ある感覚」を息子に与えたかったようです。

 

やっぱり、
教育も芸術家であり、
爆発系です(笑)

 


画像:https://entertainment-topics.jp/30065

 

 

また、父親の勝新太郎が英語が不得意であることをとても悔いていたことから、幼稚園からアメリカンスクールへ通うことになり、学歴としてはセント・メリーズ・インターナショナル・スクールを中退しています。

 


画像:Wikipedia

 

そうした経験から鴈龍太郎さんは英会話がとても得意だったと言われています。マイケル富岡さんや桐島ローランドさん、村上大介さんも通われていた世田谷区にある学校のようです。

 

ここまでを見ていくと、とても無謀で強力な父の権力で教育をしてきた印象ですが、鴈龍太郎さんが父親の勝新太郎さんに対して持つ印象は想像とは全く別のものでした。

 

メチャクチャやさしかった。
引用元:gooニュース

 

勝新太郎さんは息子である鴈龍太郎さんを鍛えようとはしていたようですが、怒ったり、叱ったりということは一切なかったと言われています。

また、なかなか簡単に写真をとることが出来なかった1960年代には頻繁に所属していた大映の現場へ生後間もない頃から息子を連れていきプライベート用の写真を撮らせていたそうです。

 


画像:文春オンライン

 

子供のころから関西の大物が客として集う高級クラブ『ベラミ』へも連れていき、そのあとは一緒に日本酒をかけた蕎麦を一緒に食べたそうです。勝新太郎さんがたっぷり注いだ息子・鴈龍太郎さんへの愛情が鴈龍太郎さんの無垢で穏やかな人柄を形成したと語る人々もいるようです。

 

「勝さんと違い、素直なお坊ちゃんでした。敵を作るようなタイプではありませんでした」(元勝プロ関係者)
引用元:gooニュース

 

勝プロモーションの関係者たちからも小さい頃から鴈龍太郎さんはとても可愛がられていたという話です。

 

◆母親・中村玉緒は長男・鴈龍太郎(奥村雄大)に対して幼少期、少年時代は大変教育に厳しかったという意外な親子エピソード 画像

 

また、とても意外な印象を持ちますが、家庭内では母親の中村玉緒さんも長男・鴈龍太郎さんに対して大変厳しい教育方針だったというエピソードがあります。

 


画像:https://linart.net/katsu-shintaros-son-is-yudai-okumura/

 

鴈龍太郎さんは日々、中村玉緒さんからビンタをされ続けて育った幼少期だったそうで、とても理不尽な理由である上に、多い日には1日20発ものビンタを浴びて育ったそうです。

 

かなり意外。

 

おふくろ(玉緒)は怖かったけれど。朝、靴紐がうまく結べないだけで、おふくろから往復ビンタを食らったことがあります。

引用元:gooニュース

 

温厚なイメージしかない中村玉緒さんの意外な一面といった印象です。両家を背負う大事な長男を育てる使命を担った母親ということで中村玉緒さんとしてもそのプレッシャーから力が入っていたのかもしれません。

 


画像:twitter

 

甘やかせて育てたという話が多く流布している中村玉緒さんの教育ですが、少年期の鴈龍太郎さんの話からするととてもそんな風には思えないエピソードです。

 

 

◆父親と母親の華麗なる血筋を背負った鴈龍太郎の本名・奥村雄大の芸名の由来 画像

 

鴈龍太郎さんが俳優としてデビューし、直後まで使われていた本名は奥村雄大(おくむら たけひろ)さんという名前でした。

 


画像:https://akasann.biz/ganryuutarou-wakaikoro/

 

そして、そこからしばらくして俳優になるべく再起をかけた時につけた芸名は「鴈 龍太郎」であり、母方の祖父である「二代目 中村鴈治郎」から最も象徴する「鴈」1字を貰い受けて姓とし、辰年生まれの長男であることから名を「龍太郎」として大俳優の父親としての血を引き継いだだけでなく、母親の中村玉緒さんの生家の家も背負うつもりでの名前となりました。

 

あまりにも重過ぎる名前。

 

■それは中村玉緒さんと勝新太郎さんの家系図を見てもらうととてもよく分かることと思います。特に中村玉緒さんの一族には人間国宝が二人も存在する壮大な一族であることが分かります↓

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後に鴈龍太郎さんは芸名を「鴈龍」に改名しています。

 

 

◆俳優としての未来への最初の暗雲:1982年姉の奥村真粧美と共に鴈龍太郎(奥村雄大)が僅か18歳でブツ取引で逮捕、1984年にブツ取締法違反で再逮捕

 

けれども、まだデビュー前の1982年鴈龍太郎(当時 奥村雄大)さんはまだ18歳という若さにもかかわらず、姉の奥村真粧美さんと共にブツ②密売の罪で逮捕され、さらに2年後にも、鴈龍太郎(当時 奥村雄大)さんはブツ②取締法違反容疑で再逮捕をされています。

 

 

俳優としてデビューを果たす以前から悪名を流してしまった鴈龍太郎(当時 奥村雄大)さんでしたが、この年齢で取引に関わるということ自体が不自然であり、おそらくではありますが背景に父親・勝新太郎さんと関わる何らかの取引ルートがあったのではないか?と推測されます。

 

それを裏付ける内容として、父親の勝新太郎さんも1990年になって自身もブツ②ブツ③の所持で逮捕されています。(後述)

 

 

◆父親・勝新太郎と母親・中村玉緒の長男息子・鴈龍太郎(奥村雄大)から「大物俳優」への未来を奪った若い頃の映画『座頭市』の殺陣師真剣事件とは?あれは事故だったのか 画像

 

中村玉緒さんの長男・鴈龍太郎さんも元々は父親・勝新太郎を尊敬し、その俳優としての背中に憧れ、自分もその後を追って同じ大物俳優になることを志していました。

そして、おそらく1982年の逮捕が先にあったとしても、この事件さえなければ鴈龍太郎さんのその夢はおそらく昭和という時代は許し、実現したはずでした。

 


画像:https://matome.naver.jp

 

デビュー作とはいえ、映画『座頭市』に出演した時の鴈龍太郎さんは、1982年に付き人として勝新太郎さんに弟子入りしてからすでに7年の月日が経過していました。親子といえども下積みとしてはとても長い年月だったと考えられます。

 

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ようやく巡ってきた俳優としてのデビュー作である1989年『座頭市』ではまだ芸名を使用しない奥村雄大さんという本名での出演となっていました。

 

 

こちらの映画で長男の鴈龍太郎さんは新人らしからぬ大役であった「悪党・五右衛門一家の親分役」として出演し、世間からは「親の七光り」と言われることとなりましたが、

 

実際の撮影現場においては立ち回りにも光るものがあり、元々性格が穏やかで敵を作るタイプでないため、その人柄があったことで現場でその起用をやっかむ声などは一切なかったそうです。

 

 

けれどもその順風満帆なスタートとなった映画『座頭市』の撮影中において、大変な事故を起こしてしまうことになります。

 

 

1989年の映画『座頭市』は脚本、制作、監督を勝新太郎さんが務めた作品勝新太郎さんが主演となる『座頭市』の最後の映画作品だそうです。

 

 

◆映画『座頭市』で起きた真剣事件の事故発生までの父親・勝新太郎と息子・鴈龍太郎の親子関係の経緯 画像

 

勝新太郎さんが監督する映画の撮影方針は、何となくイメージはしていましたがやはり、かなりのワンマン体制ではあったようです。その場で出てきた生のアドリブや勝新太郎さんのイメージが最優先され、脚本や構成は無視されることが多く、演出もその場その場で変化するのが恒例だったと言われています。

 

 

座頭市シリーズを支えてきた旧知のスタッフはそのことを熟知していたようですが、新規スタッフは戸惑うばかりで撮影は円滑に進まず、一苦労だったようです。また、色々な意味でばたばたの撮影現場だったことが記録として残っています。

 


画像:https://internet-frontline.com/

 

生の情感や感受に最も価値を置く
芸術家体質。

 

他の勝新太郎さんの様々なエピソードを見ていくと、共通して「生きて」「今ここで」「感じる」「今だけの」「生きた(ライブ)エネルギー」というものに対して最大の価値を置く、芸術肌だったことが伺えます。それを映画『座頭市』に対して入魂しようとしていたのは確かだと感じます。

 

 

エネルギーに満ちた映画を
命がけで作りたいという意欲があった。

 


画像:https://internet-frontline.com

 

ここで起こった真剣による撮影中の事故。

 

 

父親の勝新太郎さんの華々しい活躍の後を追い、鴈龍太郎さんが大俳優の道を志したのは前述の通り18歳の時であり、その際に鴈龍太郎さんが勝新太郎さんに言われたことはこんなことだったそうです。

 

勝は「お前は俺の一番弟子だ。息子じゃない」と言って厳しく指導した

引用元:文春オンライン

 

息子にとって、父親というのは女児以上に絶対的存在であることが多い気がします。俳優・勝新太郎という大きすぎる姿を追って弟子入りし、親子以上に師弟関係となった息子・鴈龍太郎さんにとって、父親の指示は「絶対命令」だったと言えそうです。

 

必ず、父の期待に応え
納得させる演技をしなくてはいけない。

 


画像:http://ventilatorblues-sway.blogspot.com/2012/08/2_22.html

 

父の言う事を聞いていれば
自分も父のような大俳優にきっとなれる。

 


画像:内田裕也

 

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まだ何も知らない若き青年がそう自分の未来へ夢に描いたことも想像できる気がします。そうして、鴈龍太郎さんは迫真に迫る演技を披露します。

 

たけちゃん(鴈龍太郎)の演技は物凄く良かった。勝さんの指導も良かったのでしょうが、スタッフ一同が唸るほどだった」(同・元勝プロ関係者)
引用元:gooニュース

 


画像:https://internet-frontline.com/

 

7年の下積み時代にも鴈龍太郎さんは既に色々な演技指導を父である勝新太郎さんから受けていたのでしょう。勝新太郎さんとしても、常にサービス精神旺盛で裁判の時ですら傍聴人を観客と見立てて楽しんでもらえるように考えていたという話があるほどですから、

 

自分の愛息子の俳優デビューに際しては一層長い時間をかけて準備を重ね、あっと驚かれるような鮮烈なデビューをと考えていたに違いありませんでした。

 

 

◆映画『座頭市』の撮影中に鴈龍太郎(奥村雄大 年齢24歳)が起こした事件1988年12月の広島での殺陣師真剣事故とは 画像

 

映画『座頭市』の撮影は1988年12月26日(当時鴈龍太郎さん年齢24歳)、広島県福山市みろくの里撮影所で行われていました。『座頭市』の最大の見せ場でもある「殺陣(たて)」は素手や武器を用いた格闘の立ち回りシーンのことで、映画のストーリー展開としては迫力ある演技が期待されるところです。

 


画像:http://tubameya.blog.jp/archives/17582310.html

 

その最大の見せ場である「殺陣シーン」の質を追求した現場の結果、という事だったのかもしれませんが、映画撮影中にスタッフが用意したとされる模擬刀の中に、真剣が混ざっていたということが大惨事の始まりとしてありました。

 

そして、用意された真剣を撮影シーンで使用したのが、監督である勝新太郎さんの実の息子で一番弟子であった奥村雄大鴈龍太郎)さんだったのでした。

 


画像:https://internet-frontline.com/

 

それによって、奥村雄大鴈龍太郎)さんは子分役の共演者俳優(34歳既婚男性)に重傷を負わせてしまい、斬られ役の共演俳優さんはその後亡くなってしまいました。当時は亡くなった共演俳優の妻が涙ながらに会見をしていたと言われています。

 

同作の撮影中、立ち回りの場面において、斬られ役の俳優に誤って重傷を負わせた。その後、俳優が亡くなったことから、撮影現場関係者らと共に広島県警から事情聴取を受け、奥村の使用した日本刀が撮影用の模擬刀などではなく真剣であったことが判明した。

引用元:Wikipedia要約

 

 

どうやら、鴈龍太郎さんが使っていた日本刀がいつの間にか、模擬刀から真剣に入れ替わっていたということです。そして、警察の事情聴取や捜査、裁判を経て鴈龍太郎さんに真剣を受け渡したのは時代劇経験のない急遽集められた助監督だったと認定されたのだそうです。

 


画像:シネフィル

 

ここまでの経緯をまとめると、

まだ芸名すら本名のままで、「勝新太郎の息子」というだけで出演した立ち回りにも現場にも不慣れな24歳の若き青年が、脚本も構成もころころ変わる現場で突然、迫力ある「殺陣シーン」を求められ、無我夢中で望まれている演技をしようと熱演したところ、時代劇未経験の助監督によって、使っていたのが模擬刀ではなく真剣にすり替わっており、大惨事の事故が起きた、という事のようです。

 

むしろ、状況だけ見ると
事故が起きるのが自然な印象。

 

 

この事件後、「真剣の使用における安全管理の問題」「重大事故の発生にも関わらず撮影を続行する製作姿勢」などが一大スキャンダルとなり、映画『座頭市』もお蔵入りになる危険があった中、そこで活躍したのが『座頭市』旧知のスタッフの尽力と、勝新太郎さんの得意の三味線の即興演奏だったそうです。

 

そうしてお蔵入りを免れた映画『座頭市』は1999年に公開されることとなりましたが、勝新太郎さんの息子・奥村雄大鴈龍太郎)さんは人命が失われる事故を起こしたということで謹慎生活を余儀なくされることとなりました。

 

 


画像:シネフィル

 

その期間、なんと1994年までの5年間というものだったそうです。若手俳優にとっては大変貴重な時間を経験を積むことすらできないまま年齢だけ重ねて過ごすこととなってしまいます。勝新太郎さんが目指した長男の鮮烈なデビューは別の意味で鮮烈なものとなってしまいました。

 

デビュー作でいきなり謹慎生活。

 


画像:http://ventilatorblues-sway.blogspot.com/2012/08/2_22.html

 

また、当初から勝新太郎の息子ということで俳優の活躍することを考えた時、当然父親の勝新太郎同様「殺陣シーン」の迫力を本来、観客からは期待されるところでしたが、

 

このような事故の後に奥村雄大鴈龍太郎)さん相手として「斬られ役」を買って出る人はまずいないでしょうから、そうした意味でも、最初から俳優として大きな可能性を潰すことになった事故とも言えます。

 

 

◆映画『座頭市』の殺陣シーン撮影で真剣が混ざっていた理由 模擬刀と見分けは付かなかったのか?という件

 

映画『座頭市」での事故は当然裁判となり、この殺陣シーンで使用された「真剣」がどうしてそこにあったのか、加害者である俳優・奥村雄大鴈龍太郎)さんが「真剣」であることを認識していたか否かが裁判において大きな焦点となりました。

 

 

裁判の結果としては以下のような判断が下りました。

 

迫力を出すためにスタッフが勝手に真剣を用意し、奥村は真剣であることを知らなかったとされ、裁判でもその主張が認められた。
引用元:Wikipedia

 

結果としては、罰金20万円の略式起訴という事だったようです。とても違和感がある結論ですが、結局のところ、これ以上の真理を裏付けするものが裁判上でなかったという事なのかもしれません。

 

 

裁判ではスタッフが迫力を出すために置き換え、「真剣」であることを伝えていなかったことを主張し、それが認められた形となったようです。そのスタッフとは前述のと通り、時代劇経験がゼロだった助監督という事となるのでしょう。

 

経験ゼロの人間が「迫力」の追及にそのような危険を犯すのか?というところがあまりに不自然ではあります。

 

●スタッフは自身の単独意思で「真剣」を準備したのか?
●スタッフが用意した理由は『映画の為』『立場保身のため』『恨み』のどれなのか?
●スタッフが「真剣」であることを共演者全体に情報として共有しきれなかったのはなぜか?
「真剣」は誰のものだったのか?
●そのスタッフはその後どうなったのか?

 

この辺りが謎のまま、情報として調べることができませんでした。今後も出てきた際には追記していきたいと思います。

 


画像:陣内孝則

 

この件に関して「違和感」があると私が思った理由には主に2点がでした。ひとつは「真剣」「模擬刀」は素人でもすぐ分かるくらいに持った時の体感が違うという情報があったからでした。しかし、これについては調べていくと、このような意見もあるっことが分かりました。

 


画像:YAHOO知恵袋

 


画像:http://ventilatorblues-sway.blogspot.com/2012/08/2_22.html

 

この情報からすると、制作側スタッフと俳優陣との間の連絡ミス真剣があった素人同然の若手俳優(鴈龍太郎氏)がそれを使用した、という異なる3つのレアケースがたまたま重なった為の大惨事という見方もできるかもしれません。大惨事というのはレアケース×レアケースで発生することが多い気がします。

 

 

◆映画『座頭市』の殺陣師殺傷事件 息子・鴈竜太郎の「真剣事故」後、父親はブツ所持でハワイホノルル空港で逮捕 画像

 

もうひとつ私が抱いた「違和感」は勝新太郎さんの長きにわたる「感度」に関する中毒問題です。

 


画像:exciteニュース

 

勝新太郎さんの最後の映画となった『座頭市』が、大惨事を起こしたにもかかわらず公開された直後の1990年、

 

勝新太郎さんはハワイで違法のブツの所持により現行犯で捕まり、帰国後日本でも日本でも同容疑で逮捕されており、懲役2年6か月・執行猶予4年有罪判決を受けています。使用していたブツは特に中枢神経興奮作用によって快感得ることが分かっており、その「快」の為に様々なブツにこれまでも関係してきていたことを伺わせる事実も並びます。

 


画像:AERAdot

 

1978年にマネージャーで弟子だった酒井修さんがブツ①の所持で逮捕されて以来、子供たちは長女も長男もブツ②に関係する問題で逮捕歴があり、最後には自分自身がブツ②とブツ③にかかわる犯罪で逮捕され有罪となる人生を送っています。

 

ちょっとそれぞれが
独立した偶然の事件とは思えない。

 

この経緯から映画『座頭市』の大惨劇を振り返った時、もちろんその後の裁判や対応などの精神的疲労からブツに手を染めたとも考えられなくはないですが、周辺の犯罪経緯からすると、既に1970年代の段階で、「快」依存だったのではないかという事です。

 

総理大臣の代わりはいくらでもいるが、勝新の代わりはいない。
引用元:https://www.pasonica.com/鴈龍%EF%BC%88鴈龍太郎%EF%BC%89/

 

こんな言葉を逮捕当時話していたと言われ、息子の鴈龍太郎さんはこの言葉に対し、「ひとりの人間としてスゴイと思った」と後に語っているため、この時点でもいかに父親を崇拝していたかを裏付けています。

 


画像:https://entertainment-topics.jp/30065

 

そして、勝新太郎さん自身が手掛ける映画『座頭市』に対しても、あるいはそうしたある種の病的な「快」や「興奮」を勝新太郎さんは演技者やスタッフに具体的な指示でなくとも、求めていたのではないかと思えることです。

 


画像:http://axolotlfc2.blog.fc2.com/blog-entry-102.html?sp

 

余談ですが、この1990年のブツ所持による逮捕で、製作費5億円もかけたキリンビールの「ラ党の人々」のCMはたった1日限りの放映で打ち切りとなり、CMの制作会社から損害賠償請求もされたようです。

 

◆1993年 舞台『不知火検校(しらぬいけんぎょう)』で息子長男・鴈龍太郎が舞台俳優として本格復帰 画像

 

1993年には大惨事から謹慎していた奥村雄大鴈龍太郎さんが、名前も正式に「鴈龍太郎」に改名し、父親の勝新太郎さんが演出と主演の舞台『不知火検校(しらぬいけんぎょう)』にて本格的に俳優としての出直しを図ります。

 


画像:https://linart.net/katsu-shintaros-son-is-yudai-okumura/

 

ようやく再出発。

 

◆1997年 中村玉緒の旦那・名俳優 勝新太郎が下咽頭癌で死去、享年65歳。息子には「石原プロモーション」事務所入りの話もあったが…

 

そこから3年後、ハワイでの現行犯逮捕から6年後の1996年には中村玉緒さんの夫である勝新太郎さんは下咽頭癌を発病し、約1年後の1997年6月に下咽頭癌でお亡くなりになります。これによって、長男の鴈龍太郎さんは俳優として大きな後ろ盾をひとつ失ってしまいました。

 


画像:文春オンライン

 

勝新太郎さんの告別式では、司会を務めたのは長男・鴈龍太郎さんでした。

 

父の名を辱めないよう、精一杯やらせていただきます。

引用元:文春オンライン

 

父・勝新太郎さんの死後には親友であった石原裕次郎さんの設立した事務所である「石原プロモーション」入りの動きも鴈龍太郎さんには一時期あったようですが、新人をほとんど採らない状況となっていた時代の波の影響で、その話すらもろくも無くなってしまったようです。今思えば、ここが最後の砦だったともいえるのかもしれません。

 


画像:https://entertainment-topics.jp/30065

 

その後、母・中村玉緒の個人事務所に所属。

 

鴈龍太郎さんは俳優として一層励んでいく心境を宣言していましたが、その後も俳優活動は苦戦が続くことになります。母親の中村玉緒さんもテレビ局に頭を下げて回ったそうですが、鴈龍太郎さんに与えられるのは単発の仕事ばかりで続いていくものはなかったようです。

 


画像:日刊ゲンダイ

 

これは正直、鴈龍太郎さん自身がたくさんのチャンスを得ながらも、それを生かすことができなかったという事なのだと思います。とはいえ、勝新太郎さんや鴈龍太郎さんが目指していた方向性と中村玉緒さんの得意とするジャンルにはだいぶ乖離があったのではないかという印象も持つ内容です。

 

そうして、少なくとも2002年8月の段階では鴈龍太郎さんは母・中村玉緒さんと同じマンションの別のフロアで生活をされていたようです。

 

■中川翔子さんの父親の話はこちら↓

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◆長男・鴈龍太郎の働かない報道と母・中村玉緒の絶縁報道、そして現在の名古屋での死去と急性心不全という死因の孤独死まで。結婚したの?嫁子供や家族はいたのか? 画像

 

その後も、鴈龍太郎さんが俳優として注目されることはなく、母親である中村玉緒さんの必死のサポートで舞台『悪名』(父親の出世作の舞台版)、ドラマ『いのちの現場から5』(1998年)、舞台『まかしときなはれ』(2000年)など母との共演により役を得ます。

 


画像:https://matome.naver.jp/

 

けれども、2017年の西村まさ彦さんが座長を務めた舞台『COASTER 2017』に出演した後は、俳優どころか勤労意欲自体が無くなってしまった状態に至っていたようでした。

 

これは精神的なものも確かに考えられますが、今となってはもしかすると2019年の死因となった「急性心不全」という病気を引き起こす前症状がすでに内部で起こっていたためだったとも考えられます。

 

元勝プロ関係者は
たけちゃんが自分から怠けようとしたとは考えられない。思うように仕事が来なかっただけではないか」と語る。

引用元:gooニュース

 

この言葉から勘案すると、母親の中村玉緒さんよりも、元勝プロの関係者の方が、鴈龍太郎さんの本質を見抜いていたように思います。

 


画像:https://akasann.biz/ganryuutarou-wakaikoro/

 

それは、母親の前ではいつも弱音を吐いてはいけない幼少期があったのと同時に、いつも優しかった勝新太郎さんとその周りにいた大人たちにはいつも自分らしく居られたという対照的な状況があったからなのかもしれません。

 

また、大前提でとても優しい男性だったために、老いた母親をこれ以上心配させるなどということは勝新太郎さんのような男を目指す男性としては「男の美学に反した」のかもしれません。

 


画像:http://tubameya.blog.jp/archives/17582310.html

 

『COASTER 2017』に出演する際のYOUTUBE動画を見た印象としては、顔立ちはとても似ている父と子ですが、勝新太郎さんの尖って自信に満ちた性質と、長男である鴈龍太郎さんにはどこか果てしなく大きな根本的性質の隔たりがある印象を持ちました。

 

鴈龍太郎さんのいとこにあたる俳優の若山騎一郎さんも取材に対しこのように語っています。

 

ものすごく優しい男でナイーブでした。それに“あがり性”だから、なかなかセリフが出てこないこともあって……。人よりお酒を飲んでいたのは、優しすぎる性格のせいもあったと思います

引用元:livedoorニュース

 

 

幼少期は喘息もちで両親に厳しく叩かれながら育った鴈龍太郎さんはその後にインターナショナルスクールも中退しており、人間の根本的な「核」となる部分を築けないまま大惨事に巻き込まれ俳優として転落してしまった印象を覚えます。

 


画像:https://hkmtiz.com/3348.html

 

2017年以降、鴈龍太郎さんは一時、芸能界からは離れ宝石デザイナーを目指した時期もあったようですが、近年は働かない息子に自立を促すために、中村玉緒さんが金銭的援助を断ち、絶縁したという報道までされていました。

 

きちんと仕事をしてほしい。

 

「女性自身」によれば、業を煮やした玉緒が、「私が面倒をみているかぎり、あの子が立ち直ることはない」として、経済的援助を打ち切り、2年前から絶縁状態だという。

引用元:exciteニュース

 

親子の愛情が
お互いに深いものとしてあったからこその

苦しみだったと言えそうです。

 


画像:http://tubameya.blog.jp/archives/17582310.html

 

中村玉緒さんの親族と言われる人の話ではこのような話もありました。

 

玉緒さんを安心させるために、自立の道を模索していた。一方、玉緒さんは常に息子の身を案じ、陰で支援を続けていました。
引用元:文春オンライン

 

■泉ピン子さんの家族のお話はこちら↓

泉ピン子「家族の愛し方」医師旦那の武本憲重・婚外子供・父・継母画像
泉ピン子さんが結婚された医師の旦那さんである武本憲重さんとの結婚や継母との昔からの関係、不思議な関係となった夫の娘、家族への愛情について、今回は調べました。

 


画像:https://entertainment-topics.jp/30065

 

偉業をなした親を安心させるため、「家」を背負う長男であった鴈龍太郎さんは最初から大きな夢を掲げなければならないというプレッシャーがあったのかもしれません。

 

「勝新太郎中村玉緒息子」ということで芸能界では誕生当初から期待のサラブレッドとして注目していました。周りからの大きすぎる期待に応えるべく、掲げた遠くの目標に常に挫折を繰り返し、とても苦労された印象を受けました。

 

夫に続き、
愛する息子も失った中村玉緒さん。

 


画像:東京都港区三田の蓮乗寺

 

中村玉緒さん自身も、厳しい母親という役割を家で背負いながら、子供たちの事はずっと大切に思ってきていました。

 

長男と長女が揃って逮捕されたときには「罪は憎くても子供は憎めない」と語った。長男の初舞台では「息子の出番が少ない」と脚本を自ら書き直すほどの子煩悩ぶりであった。

引用元:Wikipedia

 

夢に見た勝新太郎さんと中村玉緒さんの血を引く孫は、息子が偉業を成し遂げなくとも自立さえしていれば可能性のあったことでしたが、その願いも虚しく、鴈龍太郎さんは生涯独身で終わり、お子さんも居ませんでした。中村玉緒さんは余生を残された長女と共に生きることとなりました。

 


画像:日刊スポーツ

 

近親者のみで行われた11月29日の鴈龍太郎さんの葬儀・告別式では中村玉緒さんは「とても話せる状態じゃなかった」と言われています。それほど、息子のことを思っていたからこその経済的援助のストップだったはずが、思いもよらない結末へ繋がってしまったという事だったのかもしれません。

 

息子にとっては、もはや失うものなど他になく、唯一この苦しい世界で生き続けることの意味だった母親に見放された時点で、ツライ今世を生き続けること、闘い続ける気力を完全に失くしたかもしれません。おそらく、不調に気付きながらも治療を望む意思はなかったのではないかと思われます。

 


画像:四国新聞社

 

サラブレッドは
勝新太郎さんと共に眠ることとなりました。

 

鴈龍太郎さんは、昔から「死んだら親父と同じ墓に入りたい」と語っていたということで、現在遺骨は夫の勝新太郎さんとその兄である若山富三郎さんと同様に港区三田の蓮乗寺にある墓地に埋葬されたそうです。

 


画像:gooニュース

 

鴈龍太郎さんは勝新太郎さんの死後、父親・勝新太郎という男性はファンへのサービス精神が旺盛で、ファンから頼まれたサインを一度も断ったことはなかったという話をされています。

 

 

いつも精一杯周りが望む期待に勝新太郎さんならではの演出で応え、驚かせたり喜ばせたりすることが大好きな大物俳優である父親を、最後まで尊敬し自分もかけられた期待に応えられる男でありたいと望んでいたのだと思います。

 

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