いつもスパイシーでストレートな毒舌トークで私たちを魅了してくれる中尾ミエさんですが、若い頃は歌手や女優として大活躍されていました。今回はその時代の中尾ミエさんの両親への想いやご活躍と若い頃からの中尾ミエさんの恋人のおはなしや、可愛い画像を集めてみました。不動産オーナーとしても注目です。
- ◆中尾ミエのかんたんプロフィール!若い頃から変わらない元気!年齢・本名は?画像
- ◆中尾ミエは若い頃に父親・母親へ家をプレゼントした!現在も自宅所有と賃貸不動産オーナー!そこまでの道のりは?
- ◆歌手・中尾ミエが両親へ贈る家、不動産を買うために懸命に働いた若い頃のシングルジャケット写真が可愛い!一覧
- ◆若い頃は両親に家を買うために、映画女優~テレビドラマ女優・舞台女優、バラエティまで何でもやった!大活躍の中尾ミエ画像
- ◆中尾ミエには若い時から恋愛相手・パートナーの彼氏がいた!?片思い?50年愛の恋人!?
- ◆今現在中尾ミエ・草笛光子・近藤サトのグレイヘアがアツい♡注目度高!!
- ◆中尾ミエが若い頃の戦友「三人娘」で復興支援!米作りに挑戦!画像
◆中尾ミエのかんたんプロフィール!若い頃から変わらない元気!年齢・本名は?画像
それでは早速、中尾ミエさんのかんたんプロフィールを見ていきたいと思います。今現在でも活力一杯の中尾ミエさんは一体今現在おいくつなのでしょうか?若い頃から変わらない元気の源を探っていきたいと思います。
中尾ミエさんは1946年生まれなので2019年には73歳となります!いつも元気で若々しいので73歳にはとても見えないですね!時代なのかもしれませんが名前は「中尾ミヱ」と表記されていたことがあるそうです。

「ワ行」ですね。イケイケです。
名前:中尾 ミエ(なかお みえ)
本名:中尾 美禰子
生年月日:1946年6月6日
出身地:福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)
学歴:精華学園女子高校中退
身長:156㎝
ジャンル:和製ポップス、歌謡曲
職業:歌手、女優
活動期間:1961年-
事務所:アスレティック・ミエ・カンパニー
中尾ミエさんは1946年に福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)に生まれました。ご兄弟はナント6人兄弟だそうです。中尾ミエさんは6人兄弟の4番目でだそうで2人姉がいることが分かっています。実家は書店経営だったそうです。
なんと6人兄弟の中尾ミエ!

中尾ミエさん20歳の時だそうです。かわいいですね♡
1958年(12歳)の時に中尾ミエさんの父親が事業に失敗、一家は東京へ移ります。
大家族の主である
父親が事業失敗。
精華学園中学校時代に渡辺プロダクションにスカウトされ、平岡精二に師事する。当時はスタンダード・ナンバーを歌っていた。
自身を奮い立たせて、家族のために働く意欲を湧き立たせる若い頃の中尾ミエ。
1961年(15歳)中尾ミエさんは渡辺プロと契約します。園まり・伊東ゆかりらとスパーク3人娘を結成し、第二のザ・ピーナッツとして期待されます。
まさに60’Sという感じの写真ですw
第二のザ・ピーナッツというだけに歌唱力が凄いですね。
クレージーキャッツ主演の『シャボン玉ホリデー』などに出演し、一時代を築く。確かな歌唱力で、人気を博し、アメリカンポップス系を得意とする。
1962年(16歳)『可愛いベイビー』が大ヒットし、中尾ミエさんはスターに上り詰めます。

中尾ミエさんの初期イメージはキュートな清純派だったとか(笑)
◆中尾ミエは若い頃に父親・母親へ家をプレゼントした!現在も自宅所有と賃貸不動産オーナー!そこまでの道のりは?
中尾ミエさんの母親は洋楽や洋画が好きだったということです。その影響もあって、中尾ミエさんは子供のころから洋楽に慣れ親しんでいたとか。歌に目覚めたのも中尾ミエさんの母親の影響であるかもしれません。
家にあったラジオからドリス・デイなどの洋楽が流れていた。
中尾ミエさんのご家庭が洒落た感じの文化的なおうちだったことが分かります。
さらに中尾ミエさんは幼少期の習い事としてピアノ、バレエ、タップダンスをしていたということですから、その感度の高い幼少期の習い事がそのまま仕事になったような人生を送ってこられたことになりますね。
自分にできることから仕事にする。
◆たった13歳!若い頃の中尾ミエが両親へ不動産(自宅)を贈りたいと思った理由・原体験とは?
若い頃の中尾ミエは苦労の少女時代
1958年(12歳)の時に中尾ミエさんの父親が事業に失敗し、倒産。父親の商売は「中尾書店」という教科書販売会社で、市内の教科書販売を独占しており、2代目店主だったということです。安定感のある仕事のように思えるので、事業が失敗した原因は何か別にあったのかもしれないですね。
中尾ミエさん一家はその後上京するわけですが、引っ越すたびに家が小さくなり、最後は8人家族で6畳+4畳半に住んでいたという話があります。
中尾ミエの若い頃は、8人家族が狭小住宅で肩を潜めて暮らしていた。
元々は家は裕福で武家屋敷だった大きな家に住んでいたということですから、少女時代の中尾ミエさんが目にしていた光景は正に「諸行無常」で過酷な現実と隣り合わせだったことが分かります。
肩を落とす両親を元気づけたい!それには心休まる家だ!
そう思ったかどうかは分かりませんが、自身が贅沢をするという事よりも、まず両親へ安らぎを感じられる不動産を自分の力で贈りたい!という純粋な気持ちで奮闘していった姿が中尾ミエさんの当時の活動から伝わってきます。
しかし、1961年(15歳)中尾ミエさんは園まり・伊東ゆかりらとスパーク3人娘を結成し、大人気となり、1962年(16歳)には『可愛いベイビー』が大ヒットしたことでさらに収入も増えたのでしょう。
渡辺プロに早く入れてもらうために中尾ミエさんは自分から毎日通っていた何ていう面白いお話もあります。渡辺プロに入ってからも、最初の1年間は下積みとしてジャズ喫茶などでも歌っていたと言います。とにかく早く稼ぎたくて、その為の仕事が欲しくて奔走していた中尾ミエさんがよく分かりますね。
それは中尾ミエさんの心にこうした気持ちがあったからのようでした。
中1の時、「将来両親に大きな家を建ててあげよう」と決意した。
13歳で親に家をプレゼントしたい!だから働きたい!という少女だった。
この頃のお話だと思いますが、中尾ミエさんは早く稼ぎたい気持ちが強く、年齢を偽って米軍キャンプを廻るアルバイトを始めていたというエピソードもあります。

13歳の少女が考える事とは思えない発想ですね。
◆中尾ミエは僅か20歳の年齢で両親へ不動産(自宅)を贈ることを実現していた!
20歳で最初の夢、両親へ家をプレゼントすることを実現!
20歳の若さで中尾ミエさんは両親に都内の一軒家を購入してプレゼントしたといいます。厳しい現実を目の当たりにしてきた少女が、両親に叶えてあげたい夢だったのでしょう。健気で素敵ですね。
母親は中尾ミエさんが贈った家で1988年まで過ごし、父親は2006年に他界するまで過ごされたようです。少なくとも2015年迄は中尾ミエさんは妹さんに身の回りの世話をしてもらっているという話ですので、両親とご兄弟との関係を大事にしてこられた様子が分かります。
ご家族も、中尾ミエさんに贈られた安心できるご自宅で大切な時間と思い出をたくさん作ってこられたようです。本当に、そのことが何よりもの贈り物になったことでしょう。
◆若い頃の中尾ミエは25歳という年齢で不動産オーナーにもなっていた!
驚くべきことに、中尾ミエさんはご両親へご自宅となる不動産を贈った後、2棟目となる中尾ミエさんのご自宅、3棟目となる収益不動産の賃貸アパートを建て、不動産オーナーになっていました!
さらに25歳からは2軒目の自宅、3棟目の収益不動産を建てた!
中尾ミエさんはご両親へ不動産を贈った後、その隣の敷地に自分の自宅不動産を建て、さらにその隣には自己所有の収益不動産の賃貸アパートを持ったようです。エリアとしては東京都杉並区内の大変閑静な住宅地となっています。
若い頃にお金についての現実と闘い、打破してきた事で中尾ミエさんの中には、お金に関する知恵がたくさん備わったようです。
浮き沈みの多い人気商売である芸能界での活動は、自分の失敗だけでなく、もらい事故や、流行や世相など自分の能力や力ではどうにもならない部分での影響によって、収入が大きく揺らぐ業界であることを若いうちから中尾ミエさんは認識していたように思います。
どんなに人気が出た時であっても、仕事があるうちが花、その時に感謝をしながら求められているものを提供し、働いて、築いたものでできるだけ将来を踏まえた経済設計を最優先に考える、といった気持ちの表れなのかなという印象がします。
まさに「驕れる者久しからず」哲学

武士ですな(笑)
◆中尾ミエは若い頃からいつも満室の不動産オーナー経営の件で堀江貴文と口論!?
中尾ミエさんが出演している人気番組「5時に夢中」に2016年6月、堀江貴文さんが出演をし、不動産投資についての持論を堀江貴文さんが語ったことで番組が凍り付いた瞬間があったと言います。
番組内では賃貸借契約や不動産関連トラブルが近年増加しているというニュースの際に、長年賃貸物件のオーナーをされてきた中尾ミエさんが、こ自身が不動産賃貸物件のオーナーであることを前置きにのニュースに対するコメントをしました。
「知らない人は入れない、駐車場代、更新料は無しにしたこともある」と自分なりのポリシーを語ると、「優しいオーナーさんですね」とMCのふかわりょう(41)。
引用元:yahooニュース
そこに対して、堀江貴文さんはこんな風に持論を展開します。
「全く興味がない、みんな小金が貯まると不動産投資やろうとする。バカなんじゃない」と指摘
賃貸物件を持つ中尾ミエが怒ったため「趣味だからいいんです」と取り繕った。
引用元:ライブドアニュース
私自身、不動産がずっと元本業で来たので、この認識のズレは現在不動産業界で起こっているキモの部分だなと感じました。中尾ミエさんは昔ながらの大家さんで、土地に対する想いやそこの住人に対する思い入れも深いわけですが、
現在起こっているのは、プロの投資家である自己利益最優先の不動産企業がここの土壌を荒らしている(言い方が間違っていたらすみません)という事実。とれるモノはすべて賃借人から回収するという方向性(もちろん合法的範囲内で)。確かに間違ってはいないのかもしれません。
前者(中尾ミエさん)の正義は
富は感謝して受け取り、分かち合うという事が正義
後者(プロ投資家&堀江貴文さん)は
自己利益を合理的に最大限に伸ばすことが正義
であり、余計な負担は負わない合理性の追求が(自分だけでなく法人や株主の為の)正義というところかと思います。堀江貴文さんについては利益追求が正義の意味で、不動産賃貸なんかそもそも儲からないのに、なぜ手を出すか意味不明、という主旨の内容です。たぶん、事業投資としたらごもっとも。
しかし、個人単位で考えた時には不動産を取得することで(残債にもよりますが)人は瞬時に信用を獲得できたりもするので(会社辞めても、病気になっても、年とっても割と万能な信用)私は一概にその投資が無駄だなとは思えなかったりはしてます。(この話はいつかどこかでw)
今後、どちらの考えがこの世界、この国において正義となり、ビジネスにおける根幹になるかはまだ分からないなと思うので、この点について中尾ミエさんの視点を「趣味」に格納した堀江貴文さんの正義は今後どうなるのかな?といったところが見ものです。
なにしろ、思うに中尾ミエさんって時代を先どる方なんで(笑)
しあわせのつくり方は誰よりも知っている。
さて令和を生きる人々は、お金につくのか。幸福につくのか。
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◆歌手・中尾ミエが両親へ贈る家、不動産を買うために懸命に働いた若い頃のシングルジャケット写真が可愛い!一覧
中尾ミエさんがご活躍されたのは、ちょうど’60S,’70Sのイケイケな時代になりますので、発売されるレコードのジャケットの写真がとってもオシャレでかわいい!!のです。
中尾ミエさんもファッションリーダーだった!
◆1962年発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲 「可愛いベイビー/ダンスへおいで」画像
今でも中尾ミエさんの代表曲といっても過言ではない一曲ですね!
中尾ミエさんが若くってかわいい~♡
(コニー・フランシスの “Pretty Little Baby” のカヴァー)競作。中でも中尾ミエ盤は1962年6月にミュージック・ライフの東京での邦楽売上ランキング1位を記録し、最終的に100万枚を売り上げる大ヒットとなった。
今日では曲名は一般的に「可愛いベイビー」と表記されるが、発売当初は「可愛いいベビー」と表記されていた。
昔の音源を聞くと、中尾ミエさんが16歳とはとてもとても思えない歌唱力と声をしていて驚きます!
可愛いベイビーと呼ぶのは
愛しているからかしら
Pretty Little Baby 可愛いベイビー♬
こりゃ、中尾ミエさんが年齢を偽って米軍キャンプを廻るアルバイトをしていた!というのも頷けます(笑)大好評だったことでしょう。
その他 1962年の発表曲
ネクタイピンとカフスボタン/アッ・ハァー(1962年6月)
シャネルデート/ジムダンディ(1962年9月)
ジングルベル/ホワイト・クリスマス(1962年10月)
涙のジューク・ボックス/許して欲しいの(1962年11月)
いちごの片想い/可愛いおばかさん(1963年2月)
ここから中尾ミエさんの怒涛のシングル発売が続きます。これだけの量の仕事をこなすスケジュール感覚が分からないのですが、当時のアイドルは皆、睡眠時間がないほど働き続けていたというエピソードがよく聞かれますから、中尾ミエさんもきっとそうだったのでしょうね。
◆1963年発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「おじさまとデイト/雨の中のくちづけ」画像
園まりさん、伊東ゆかりさんとのスパーク3人娘としての活躍だけでなく、中尾ミエさんは独立した「歌手」としての地位を築いていきます。
中尾ミエさんは20代前半の頃に約30歳年上の人と交際をしていた!というお話があります(笑)。この曲を歌ったのは17歳の時ですが、この曲の影響かもしれませんね(笑)
テル・ヒム/月夜にボサノバ(1963年5月)(月夜にボサノバ:“Fly Me to the Moon” のカヴァー)
おじさまとデイト/雨の中のくちづけ(1963年5月)
涙のバースディ・パーティ/ラブ・ユー・ラブ・ユー・ラブ・ユー(1963年8月)
夢の風船旅行(1963年9月)※フランク永井「逢いたくて」のB面
バイ・バイ・バーディー/内気な17才(1963年10月)(アン・マーグレットの “Bye Bye Birdie” のカヴァー)1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』で「キューティ・パイ・メドレー」の1曲として歌唱。

20代前半に30年上ということはもうお相手は50代半ばということですから、どんだけ早熟なんだwという話ですが…。
◆1964年発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「恋と涙の17才/さよなら初恋」画像
1964年になると、中尾ミエさんのシングルの発売量が驚異的な数となっています(笑)ちょうど20歳になる年齢ですから、ご両親に家をプレゼントする年ですね。
中尾ミエさんが汗水垂らして働いて贈ったプレゼントだということがよく分かる状況です。それほどの思いで両親に家を、と思っていた少女だったからこそ、一般的な女性より常に前を歩く、早熟で実直な思考になったのかもしれませんね。
おんなのこだもん/聞いちゃった!歌っちゃった!泣いちゃった!(1964年1月)
恋と涙の17才/さよなら初恋(1964年4月)
カサノバ・キッス/キス・ミー・クィック(1964年6月)
ウィッシング・ウエル/ハロー・ドーリー! ※B面はキャロル・チャニングのカヴァー。(1964年7月)
マイボーイ・ロリポップ/私がわるいのよ(1964年9月)
からかわないで/ローズ・マリー(1964年10月)
ぼくらの手きみの手みんなの手(1964年11月)※B面はデューク・エイセス「タンタタこうしんきょく」
ピザ・パイ/メイ・ビー・アイ・ノー(1964年12月)
元気はつらつな中尾ミエさんです。
◆1965年発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「アイドルを探せ/恋のセーラー・ガール」画像
この時期から中尾ミエさんは、欧米のポップスで人気のキューティ系歌手のカバーも積極的に取り入れていきます。
同じ曲のカバーといっても、中尾ミエさんが歌うと、また別の世界観が広がるのがさすがですね。
(シルヴィ・ヴァルタンの “La Plus Belle Pour Aller Dancer” のカヴァー)
シルヴィ・ヴァルタンもパリで大人気のお洒落なアイドルでした。
ハスキー・ヴォイスと可愛らしい容姿やお洒落なファッションで一躍若者の間でアイドルとなった存在で、未だにキューティー界ではカリスマ的存在です。シルヴィ・ヴァルタンも1944年生まれですから中尾ミエさんと同年代ということになります。

シルヴィ・ヴァルタンの「Irrésistiblement」は今でもお洒落に街で流れていますね♡
わたしを愛して/あこがれはいつも心に(1965年4月)

もはや精神性が高すぎるのか、22歳に見えません(笑)!
シルヴィ・ヴァルタンのカバーを歌って好評だったのか?同じ年に中尾ミエさんはフランス・ギャルの大ヒット曲である「夢みるシャンソン人形」もカバーします。
明日も逢おうよ/ドレミばやし(1965年6月)
夢みるシャンソン人形/恋はおとなしく(1965年10月)(フランス・ギャルの “Poupée de Cire, Poupée de Son” のカヴァー・弘田三枝子との競作)
淋しいから/忘れさせて(1965年12月)
ちなみにフランス・ギャルも60年代に一世を風靡したアイドル歌手で、めちゃくちゃ可愛いです♡2018年に残念ながら乳がんに倒れ、70歳で死去されています。1947年生まれですから、彼女も中尾ミエさんと同じ時代を生きた女性ですね。

もちろん彼女もキューティのカリスマです♡
中尾ミエさんのカバーの方はフランス・ギャルのイメージとは何故か全然違うのですが、こちらもさすがの歌唱力でとっても素敵!!
少し、シルヴィ・ヴァルタンとフランス・ギャルはロリっぽさがあるのですが(笑)、中尾ミエさんはそれを完全に「大人の歌唱力」で歌い上げたイメージです。フランス・ギャルの曲は翌年も引き続き何曲かカバーします。
◆1966年の発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「ハロー・プティト・フィーユ〜こんにちはマドモアゼル〜」画像
1966年にカバーしたシェイラはこれまでのシルヴィ・ヴァルタンとフランス・ギャルとは違い、ちょっとイメージが異なり(笑)、何となくですが中尾ミエさんの大事にされている世界観と近いイメージを持っている気がします。
シェイラも1945年生まれで、1960年代を代表するフレンチポップスのアイドルでした。
涙のシャンソン日記/乙女の涙(1966年2月)(フランス・ギャルのAttends ou va t’enのカヴァー)
哀愁のカレリア/チム・チム・チェリー(1966年2月)
いつも青空/乙女の願い(1966年4月)
GO!GO!レンタカー/渚のドライブ(1966年5月)※A面は田辺靖雄とデュエット
すてきな王子様/恋のプロフィル(1966年8月)(フランス・ギャルのUn prince charmantのカヴァー)
ハロー・プティト・フィーユ〜こんにちはマドモアゼル〜/この胸のときめきを(1966年11月)(シェイラのHello Petite Filleのカヴァー)
聴いた人に元気を与える曲
辛い日常の中でも、一度聴いたら元気に前向きになれるようなイメージという感じでしょうか?
中尾ミエさんはいつも音楽の持っているそうした力を大事に、心を込めて歌い上げ、私たちに歌声を届けてくれている気がします。
◆1967年以降~1969年 発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「淋しそうなあなた」
個人的にはこの時代の中尾ミエさんがカッコよくて好きです(笑)。しかし、ご両親の自宅を贈った後だからか、はたまた時代の流れかは分かりませんが、徐々に中尾ミエさんの発売シングル数は減少していきます。
以前の、アイドル歌手のポジションから、独特の個性がより強く出てくるようになっている印象の中尾ミエさんです。
画像:twitter
イケイケです(笑)。
恋はうそつき/夜よ行かないで(1967年8月)
花のさだめ/あなたはいない(1968年1月)
恋のシャロック/シャロックNo.1(1968年7月)
淋しそうなあなた/頬寄せて(1968年11月)
いくつもいくつも目をとじて/夜明けの渚(1969年3月)
忘れられた坊や/うわさの二人(1969年8月)
さすらいの町/夕陽が眼にしみる(1969年12月)
そして、中尾ミエさんのこの時代が、めちゃめちゃ可愛いのです!!
勿論。時代的にスーパーミニであります!
中尾ミエさんは歌だけでなく衣装も時代のファッションリーダーだった印象ですね。
■この時代のツイッギーミニスカファッションはこちら↓

◆1970年以降~発売 中尾ミエの若い頃のシングル曲「ひとり芝居/悲しみに別れて」画像
1970年以降、中尾ミエさんの歌手としての活動は急激に減少していきます。折しも1970年は世界的アイドルグループのビートルズも4月に解散していますから、それ以前の時代を共に音楽活動をを通して生きてきた人々の中では、何かしらの転換期に放ったのかもしれません。
日本で 日本万国博覧会(大坂万博)があったのも1970年ということで、日本の国内も新しい時代、新しい流れを意識する動きがあったのかもしれません。
ひとり芝居/悲しみに別れて(1970年5月)
男の酒場/ブルースを唄う女(1970年9月)
芝居は終わった/はじめて感じたの(1971年3月)
片想い/それが何になる(1971年11月)(槇みちるのカヴァー)
また、70’Sは中尾ミエさん自身も新しいステージへ活躍の場を移行しているようでした。
中尾ミエは歌手と同時進行で映画女優にもなっていた!
実は1960年代はここまでの歌手としての活躍のほかに、中尾ミエさんはこれまたものすごい数の映画出演を果たしていたのです。1963年という1年には、分かっているだけで、東宝映画になんと7本も出演されていたようです。
1970年になると、それがテレビドラマへの活躍に移行していくことになります。そうした理由から、シングルの発売数も徐々に減少していきます。
心の扉をあなたのために/愛は哀しく(1972年6月)
魅惑/悲しみの住む部屋(1972年11月)
駐車場(パーキング)/白い桟橋(1973年4月)
レイン・レイン/夏のある日(1973年8月)
インスピレーション/恋はマジック(1973年12月)
片想い/駐車場(パーキング)(1977年6月)再発盤
淋しいから/ただそれだけ(1978年2月)
カーテン・コール/いつも誰かを愛していた(1979年2月)
帰って来た女/愛に抱かれて(1980年1月)
風の中で/いつも心にある歌は(1981年11月)
野暮/ラストシーン(1988年1月28日)
帰らぬメモリー/オバタリアン・レボリューション’89(1989年10月1日)
三つの自画像
歌手としてテレビで大人気となった中尾ミエさんが次に活躍することになったのはテレビドラマや映画の分野でした。
◆若い頃は両親に家を買うために、映画女優~テレビドラマ女優・舞台女優、バラエティまで何でもやった!大活躍の中尾ミエ画像
歌手以外にも映画女優として活躍していた中尾ミエさんは、当初「清純派」で売り出していたとはいえ、子供の時から毒舌だったと語っています。
そうした歯に衣着せぬ正直で真っすぐなキャラクターもとても重宝されて、バラエティ番組では近年も大活躍しています。
◆中尾ミエは若い頃から和田アキ子より強いってホント!?芸能界最強伝説
中尾ミエさんには数々の最強伝説があります(笑)
一家で上京してきた当初はいじめられたが小学校を卒業する時は番長だった。
中尾ミエさん真っすぐな人ですから、怒らせたら確かに怖そうですねw
若い頃は導火線が短かった模様w
「梓みちよとはデビュー当時、下宿先でもあった渡辺晋社長の自宅で取っ組み合いのケンカを、よくしていた」と語ったことがある。
(梓みちよ自身も「当時から中尾ミエとは仲は良くなかったが、互いに良きライバルでもあり歌手としての実力や才能を認めている」と語っている)。
伊東ゆかりや園まりが毎回2人のケンカの仲裁に入っていたという。

女同士の取っ組み合いのケンカってかなり怖そうですね
中尾ミエが和田アキ子より強いってホント??
美川憲一に「和田アキ子と口喧嘩すれば中尾ミエが勝つ」と言わしめる程であった(新春かくし芸大会では和田アキ子と毒舌漫才を演じ、前川清がどつかれ専門で出演するという演目を演じたこともある)。
長身菜だけでなく、この時代の和田アキ子さんに向かっていくにはメンタルが要りますねw
でもどうやら事実のようです(笑)
和田アキ子の事は「5時に夢中」内などで
「何でみんな和田アキ子を怖がるの(笑)」などと語る事があり、
和田アキ子もデビュー当時にある先輩から酷いいじめにあっていたときに
「先輩のミエちゃんといしだあゆみちゃんにはかばってもらったり助けてもらった。」と度々語っており、和田アキ子も中尾ミエに対して今でも頭が上がらないでいる。
■和田アキ子さんの乙女な一面!?旦那さんとのお話はこちら↓

現在も、中尾ミエさんのその気の強さと、真っすぐな歯に衣着せぬ物言いが好評で、本業以外にもTOKYO MX系列の「5時に夢中」に毎週金曜コメンテーターとして出演するなど人気番組を盛り上げているようです。
◆中尾ミエがジュリー(沢田研二)に辛口説教愛で射撃!!画像
中尾ミエさんの歯に衣着せぬ発言という事で最近話題になった事は、TOKYO MX系列の「5時に夢中」に出演の際、同じ渡辺プロ所属で後輩の沢田研二氏に対して向けたメッセージが注目されました。
テーマは沢田研二氏がさいたまスーパーアリーナでのライブを自らドタキャンした騒動についてでした。
沢田研二へ呼びかけるように
「贅沢言ってるんじゃないわよ。7000人もの人が70歳のジジイの歌を聴きに来てくれてるんだから、有難いと思わなきゃ」
「『僕にも意地が有る』んだったらもっと痩せろ!って」
「それからヒット曲を歌いなさい。そんな訳分からない新曲ばかり…」等とバッサリ切り捨てた。
もっと痩せろって!
沢田研二に対する中尾ミエのお言葉
録画で観たら想像以上に面白かった笑 pic.twitter.com/k6Er3ljQr3— よこ (@hiyokosan96) October 19, 2018
確かに今では「まるでカーネルおじさん」と言われる沢田研二さんですが、昔のジュリーはデヴィッド・ボウイみたいでしたよね…。
同じ事務所の先輩として、同じ歌手として、同じ時代を生きてきた者同士として、中尾ミエさんは沢田研二さんへ愛情のある言葉を続けます。
「痩せたらまだ観れるよ。良い男なんだから」
「まだ大丈夫。もう一回努力してよ、アナタ」とフォローする言葉を送っていた。
沢田研二さんと田中裕子さんのお話はこちらです↓

同じ「歌手」として、ファンの気持ちに応える為に、自分が歌いたい曲よりもファンが聴きたいと思う歌を提供するという経験を中尾ミエさんはこれまでたくさん経験されてきたのかもしれませんね。
こうした誰も言わないことをあえて言ってあげる愛情を持っていることも、中尾ミエさんの魅力かもしれません。
中尾ミエ 後輩・沢田研二に喝「意地があるなら痩せろ!」…TVで/芸能/デイリースポーツ online https://t.co/XkJvloYdil #DailySports
— デイリースポーツ (@Daily_Online) October 20, 2018

ジュリー痩せるといいですね。
◆中尾ミエには若い時から恋愛相手・パートナーの彼氏がいた!?片思い?50年愛の恋人!?
若いボーイフレンドがたくさんいると昔から語っていた中尾ミエさんですが、2017年8月にはちょっと違った内容のお話をされていました。
中尾ミエさんは、以前から週刊誌等で話題となっていた男性の話をトーク番組でお話されました。
中尾ミエには50年以上共にしたパートナーの彼氏がいた!
中尾ミエさん未だに独身を貫いているのですが、20代から50年以上にわたり交際してきた男性がいるようです。確か、20代前半には30歳以上年上の方と交際されていたという話でしたから、中尾ミエさんの年の差は10歳前後はあるはずの恋人となります。その肩との交際が終わった後で出会った事になるのかな?というお話です。
中尾ミエが今まで結婚しなかった理由も時代を先駆けてた!!
中尾ミエさんはその男性と結婚をしなかった理由についてこう話されています。
結婚ってさ、個人の関係だけじゃなくなるじゃない。向こうにとっても、こちらの家族とかあるし。正直煩わしいこと、いっぱいあるわけでしょ。
パートナーとして周りも認めてくれてるわけだけど、都合の良いこと言えば別に結婚してるわけじゃないから煩わしいことは無くなる
今でこそ、結婚という形式をとらない男女が増えていると聞きますが、昭和の高度成長期にこんな考えを持ち、貫いていたというのは中尾ミエさんは時代を先取りしていて前衛的ですね(笑)。
■黒柳徹子さんの40年愛はこちら↓

お子さんを持たなかったことと、中尾ミエさん自身が経済力があったことも結婚を挟む必要がなかった大きな理由かもしれませんね。あとはご自身が不器用なくらい「真っすぐ」であることの自覚があったことから、生きづらくなってしまうことが目に見えて、結婚という形式はあわないと思ったのかもしれないですね。
◆今現在中尾ミエ・草笛光子・近藤サトのグレイヘアがアツい♡注目度高!!
最近、近藤サトさんのグレイヘアについての発言をきっかけに、密かに「グレイヘア」がアツイ注目を浴び始めていますが、中尾ミエさんもかなり前からカッコイイグレイヘアです。
そして、中尾ミエさんだけでなく、中尾ミエさんの周りもみんなカッコイイグレイヘアの方々!!元々は、「ごましおヘア」と言って、年齢を重ねて白髪交じりになってくる髪の毛について仲間と語っていたことがきっかけとしてあったようで、「グレイヘア」という名称ができるよりずっと前からの活動だったようです。
色々な分野で知らず知らずのうちに中尾ミエさんが時代を牽引していっている印象(笑)
グレイヘアについての近藤サトさんの素敵なお話はこちら↓

そして、みんな表情が生き生きしています!!
◆中尾ミエが若い頃の戦友「三人娘」で復興支援!米作りに挑戦!画像
中尾ミエさんは2005年にかつて若い頃共に活動し人気を得た『スパーク三人組』を伊東ゆかりさん園まりさんと再結成し、40年ぶりにコンサートツアーを行います。
ケンカの仲裁もしてもらったお二人とは中尾ミエさんはずっと関係が深いまま続いてきたんですね。
それぞれの個性が違った三人だったんですけど、みんなプロだからステージでの息はピッタリでした。それが50年以上続いていて、今ではさらに熟したプロの集まりとして他の人たちではできない私たちだけのハーモニーが生まれるんです。
歌い続ける以上、ただ懐かしさだけでなくプロとしての役目をはたさないと意味がないんですよ。ましてや『三人娘』としてステージに立つときは、3人でしかできないことをやらないと意味が無いじゃないですか。
「3人でしかできないこと」とは?
3人娘コンサート会場で募金を募り、新潟県中越地震の被災者に寄付
募金を集めて設立された「三人娘復興基金」を元手に山古志の農家有志が「より安全」で「より美味しい」コシヒカリを作ろうと棚田で植酸栽培を始め他のだそうです。

私の祖母の田舎も新潟なので、この活動の話を聞き、とても胸が熱くなりました。
私たち三人娘は中越地震の時に、コンサート会場で被災地復興のために募金活動もしました。募金で集まったお金も自分たちの手で届け、農機具やお米の生産に必要なものに使ってもらいました。
モノを送るより自活してもらうのが一番大切だと思い、みんなで山古志村の農家の方々と一緒に、農薬を減らした新しいお米作りを手伝いました。三人で何度も山古志に足を運び、田植えや草刈り、稲刈りにも参加し、時間をかけて作り上げたお米を『三人娘』と名付けました。
時間を割き、一緒に活動し、新しいお米を作る取り組みはとても素敵なアイデアですね。中尾ミエさんの「プロとしての役目」「3人でしかできないこと」が形になったものがこんな素敵な活動だと思うと、なんというか、中尾ミエさんの豊かさに胸が熱くなります。
中尾ミエさんが多くのことを現地新潟の被災者の気持ちになって考えつくし、運営されてきたことがよく分かる言葉があります。
そのお米はインターネットでしか購入できないんですが、それは直接生産農家の手にお金が渡るようにしたかったからです。その後、基金も運営もすべて組合に渡しましたが、今も現地の方が頑張って続けていらっしゃいます。
中尾ミエさんの多くの言葉の中でも、私が特に心に残ったのはこの言葉です。
人間のしあわせの本質が、どこにあるのかが分かる気がする言葉です。
被災地の方もお年寄りの方も、自分で動けて、人の為にもなって、お金ももらえる、そのほうが幸せなんです。
みんな誰かの役に立ちたいと思っている。
MXテレビの5時に夢中。中尾ミエさんから頂いた米びつ。桐で出来ていてかなりよい。ミッツマングローブさん、原田龍二さんにも久しぶりに会えた。相変わらず面白い番組でした。 pic.twitter.com/sPUichrgkO
— ヒロシ (@hiroshidesu0214) December 15, 2017

まだまだ元気に、たくさん愛の毒舌を日本に降り注いでほしいですね!
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