日本の俳人、俳句指導家として近年ご活躍の夏井いつき先生は若い頃の教師時代に元夫や家族との激動の人生を経て離婚を経験されています。その時代の俳句との出会いが希望となって、その後の夏井いつき先生や子供達の運命を大きく変えることとなりました。代表作やその時代の苦悩のお話を追います。
- ◆夏井いつきの幼少期から中学校教員になるまで
- ◆1980年大学卒業後、若い頃の夏井いつきは中学校の国語教師に
- ◆1982年 夏井いつきが元夫と最初の結婚!子どもは何人?娘さんは?息子さんは俳人?
- ◆夏井いつきが若い頃、俳人を目指すきっかけとなった俳句の「季語」と「歳時記」
- ◆夏井いつき教員時代の若い頃、すでに色っぽい俳句を詠んでいた!?
- ◆1987年 夏井いつき俳人を目指し教員辞職。立ちはだかる若い頃の元夫家族との困難!
- ◆夏井いつきは俳人・黒田杏子との出会いで俳句の虜に!?
- ◆1988年 夏井いつき、ついに念願の俳人になる!
- ◆夏井いつきが俳人に転身後も続いた困難と元夫との離婚までの経緯
- ◆俳人・夏井いつきの代表作の俳句のうち一句を詠んでみる
◆夏井いつきの幼少期から中学校教員になるまで
夏井いつき先生は1957年に愛媛県の最南端に位置する南宇和郡内海村(現在の愛南町)で生まれます。南宇和郡内海村というところはリアス式海岸の半農半漁の小さな村だそうです。
自然にあふれた環境で
感性を磨いた幼少期
子供の頃、夏井いつきさんの父親の仕事はいつも5時に終わっていたそうで夏井いつきさんは父親と一緒に伝馬船に乗って、タイを釣ったり段々畑から飛び降りたりと遊ぶお転婆な女の子だったそうなんです(笑)当時、夏井いつきさんの実家のお風呂は五右衛門風呂だったそうで、炊き口のそばにいつも薪がどんと積んであり、夏井いつきさんは薪割りなんかもしていたそうです。
夏井いつき先生が育った環境だけでも、俳句で大事になる感性が育ちそうなものがたくさん揃っていますね。
夏井いつき先生の生家では、明治時代から特定郵便局を開設しており、夏井いつき先生の名前である「伊月」の名付け親の祖父は夏井いつき先生の幼少期まで局長を務めていて、地元の名士だったそうです。

夏井先生の祖父 正さん
夏井いつき先生のお話によると、夏井いつき先生には少なくとも妹さんがいるとのことで、お父さんが買ってくれた『少年少女文学全集』のような毎月届くものを、その妹さんと奪い合っていたとのエピソードがあります。その位、小さい頃から本(ことば)に興味を持っていたということでした。

妹の千津さん
しかしそっくりな姉妹ですね(笑)。
◆1980年大学卒業後、若い頃の夏井いつきは中学校の国語教師に
1980年(夏井いつき先生23歳)に、夏井いつき先生は中学校の国語科の教師になります。学生時代はバレーボールの選手だったという活発な夏井いつき先生でしたが、ご本人談では国語以外何もできない子だったと話しています。

若かりし頃の夏井先生
数学は全くダメだったし、 英語に至っては、横に読むのが体になじまなかったという話がありました(笑)。おもしろいですね。
横に読むのは体になじまなかった。

さすが俳人です。
愛媛県立宇和島東高等学校普通科を経て、京都女子大学文学部国文科を卒業後の1980年 (昭和55年)に、国語科教諭として松山市立余土中学校へ赴任。1982年に愛南町立御荘中学校へ転任した。
国語は、(他教科と違って)作者の考えを推理するのが好きだったと夏井いつき先生は言います。

番組での分かりやすい解説が大人気!
いくつかの可能性があるけれども、この可能性がいちばん私なら楽しいな、という気持ちだったとのことで、これがおいおいブレイクするきっかけとなった番組での「俳句添削」の上で大きな役割を果たすことになります。
画像:twitter
出演者の皆さんも、夏井いつき先生のおかげで「仕事」という枠を超えて、人生の一部として俳句を楽しみ始めています。
◆1982年 夏井いつきが元夫と最初の結婚!子どもは何人?娘さんは?息子さんは俳人?
1982年(25歳の時)、中学校の教員だった夏井いつき先生は、教員仲間の男性と結婚します。そして、お子さんにも恵まれます。
「プレバト!!」でおなじみ、#夏井いつき 先生による句会ライブin #嵯峨嵐山文華館 、いよいよ4/26(金)19時から開催! 少しですが残席ありますので申込み期間を延長します! #芭蕉 や #蕪村 の直筆に囲まれ、間近で夏井先生の姿を拝見しながら俳句を作る、貴重な機会です!
詳細は当館HPまで。 pic.twitter.com/FA3oG8T4BN— 嵯峨嵐山文華館 (@SAbunkakan) April 21, 2019
お母さんとしても本気!
◆夏井いつきと元夫の間の子供は娘1人息子1人!その名前は?
夏井いつき先生は、教師の仕事にも誇りと愛着を持っていたので、仕事と家庭を両立させながら働いていました。そして結婚後、1男1女、2人のお子さんを授かります。

夏井先生とお子さん
夏井いつき先生の第一子は娘さんで、お名前をふみさんといいます。第二子の息子さんが正人さん。お二人とも2013年にご結婚されています。

余談ですが、中学校の教員時代にも、バレーボールで地元の教員チームに参加していた夏井いつき先生。教え子やバレーボール仲間から「原田知世に似ている」と言われたというのですが・・・いかがでしょうか(笑)??
◆夏井いつきの息子、家藤正人は現在「いつき組」を支える俳人に成長!孫も誕生!
現在、夏井いつき先生のふたりのお子さんのうち、1986年に生まれた第二子の家藤正人さん(長男)は夏井いつき先生と共に「いつき組」を支える俳人として活躍されています。

長男の家藤正人さん
家藤正人さんはご結婚されて、夏井いつき先生にはお孫さんも誕生しています。
夏井いつき先生と「いつき組」についてはこちらをどうぞ↓


夏井先生にとっても、頼もしい存在でしょうね。
◆夏井いつきが若い頃、俳人を目指すきっかけとなった俳句の「季語」と「歳時記」
仕事と家庭、ふたりのお子さんの育児と奮闘されていた夏井いつき先生でしたが、教員時代から、唯一の趣味として独学で俳句を嗜んでいたということでした。俳句を好きになったきっかけは「歳時記」(季語についての本)との出会いだったといいます。
季語は日本語の宝だ
私たちは季語の森に生きている
そう思いながら暮らし始めてからは、夏井いつき先生の毎日が今までよりも輝いたものに見え、いつも豊かな素材に囲まれているように映ったのだと思います。
現在では夏井いつき先生もいくつも素敵な「歳時記」を出版されています。
◆夏井いつき教員時代の若い頃、すでに色っぽい俳句を詠んでいた!?
夏井いつき先生の教員時代のエピソードとして、俳人を目指す事につながるようなお話がひとつありました。
中学校の教員時代に懇親会の係に抜擢された夏井いつき先生。各先生方が座る宴会の席順を決めるにあたって、単に一般的な数字のくじを引いてもらう方式では味気ないと感じて、俳句で席を決めてもらうことにしたといいます。
どういうことかというと、「俳句くじ」にして各人に入口で引いてもらい、同じ俳句の書いてある席に座ってもらう形式。ただし、箸の横に置かれたその俳句は裏返しになっており、各先生方は自分の引いた俳句を探しながら、席に着く。見つかるまで夏井いつき先生の俳句を楽しんだといいます。
わたしの句をよまないと座れないぜ。BY いつき組長
※(注)上記は管理人の想像です。
夏井いつき先生らしい、とてもユニークなアイデアですね(笑)。この時に採用された俳句(全部夏井先生のですがw)の内容も、日ごろ校内で起こっている出来事や身近なテーマだった事もあって、とても好評だったそうです。
俺んとこ、めっちゃ色っぽいのきたわあ。
と教頭先生は特に喜んでいらっしゃったとか(笑)。

もう、教頭ったら♡
◆1987年 夏井いつき俳人を目指し教員辞職。立ちはだかる若い頃の元夫家族との困難!
教員としてとても充実した生活をしながら、ご家庭をしっかり守ってきていた夏井いつき先生でしたが、1987年、夏井いつき先生が30歳の頃に転機となる出来事がやってきます。
舅が他界。
舅の他界後に夏井いつき先生のご家族の生活状況は一変します。舅と暮らしていた姑に介護が必要な状況が発生。老人性鬱を発症してしまいました。
また、それだけでなく、なんと別のところで一人暮らしをしていた夏井いつき先生の実母も脳腫瘍で手術したことがきっかけで後遺症を発症してしまいます。
姑の介護+実母の介護が併発。

夏井先生の実母 亀代さん
その為、松山市内にあった当時の夫の実家に移り住んで、夏井いつき先生が面倒を見ることになったのでした。教員だった夫と二人の子供に姑、実母の総勢6名でひとつ屋根の下で同居する形。。
やむなく教員を退職。
ここで夏井いつき先生は、愛着のあった国語教員を辞めて俳句一本で生きていくことを決意します。
しかし、それが俳人 夏井いつき誕生につながるのですから、人生に起こること、その事実の価値っていうものは、少し経ってから、「引いて見ないと分からない」ものですね。
教師の仕事は辞めたくなかった。
しかし、当時のここで夏井いつき先生からすると、天職のように思えていた教員の仕事を辞めることは不本意だったようです。後にインタビューではこんなことを語っています。
夏井いつき:「教師の仕事はすごく楽しくて、本当に辞めたくなかったので、自分を納得させるために、教師を辞める別の理由が欲しかったんですね。
そこで、俳人になるアテもなければツテもないけれど、校長先生に『教師を辞めて俳人になります』と宣言してしまったんです。
校長先生はハイジンと聞いて“廃人”と思ったそうですが(笑)。無謀といえば無謀ですが、宣言してしまった以上、それが実現しなかったら恥ずかしいので、なんとかしてがんばる。思えば、その繰り返しかもしれないですね、私の人生は」。
教師をやめて俳人になる!
◆夏井いつきは俳人・黒田杏子との出会いで俳句の虜に!?
夏井いつき先生にとって俳句は大学卒業から8年間の教員時代に、趣味の延長で始めたものでしたが、、俳人 黒田杏子 (くろだ ももこ)先生の俳句本を立ち読みしたことをきっかけに本格的にのめりこむことになります。

俳人 黒田杏子さん
この俳人 黒田杏子先生との出会いが夏井いつき先生を俳句の虜にすることになります。
本格的にのめり込んだのは、「勝手に弟子になる!」と入れ込んだ、俳人・黒田杏子さんの影響だ。黒田杏子さんが俳句雑誌で選評コーナーの連載を開始すると、鬼気迫る勢いで投稿し続けた。
夏井いつき:「投句用紙に七句書いて送るんだけど、その裏が通信欄というか、好きなように書いていい用紙だったの。だから、前回の自分の句で、落選したり、掲載時に一文字変わっていたりした句に関して勝手にレポートを書いて。
このときの“独学”が基礎体力につながったと思うんです。10年ぐらいたって、黒田杏子先生と初めて会ったとき、『あなたの筆跡は嫌になるほど見た(笑)』と覚えてくれていました。」
鬼気迫る勢いで投稿を続けていたw
素敵な師匠に出会えたことで、夏井いつき先生も「俳句」の虜になったわけですね。補足としては、中学校教員を辞められた翌年である1988年には、夏井いつき先生は既に頭角を現し、国民文化祭教育長賞を受賞しています。
教員をやめた翌年に国民文化祭教育長賞を受賞!

スゴイですね!

黒田先生といる夏井先生
夏井いつき先生の目の前には
大変な現実と、喜ばしい現実とが同時にあったわけです。
◆1988年 夏井いつき、ついに念願の俳人になる!
1988年 (夏井いつき先生31歳の時)に宣言通り、俳人に転身。教員を退職した翌年ですからすごいスピードでの実現です。
「季語の現場人(常に季語の現場に立ち俳句をつくる)」をモットーとする俳人の黒田杏子さんに師事しながら、結婚後に移り住んだ松山市で本格的に俳人としての道を歩み始めることになります。
楽しいこともつらいことも、すべて俳句の種になる。
ここから先に続く困難の人生をも、夏井いつき先生が自分の脚で乗り越えられた理由は、この黒田杏子先生と俳句との出会いが大きかったのかもしれません。そしてそこにはこの言葉がありました。
すべて俳句の種になる。
◆夏井いつきが俳人に転身後も続いた困難と元夫との離婚までの経緯
夏井いつき先生の人生は常に喜びと苦しみが表裏一体となって流れていました。

教員時代の夏井先生
そうして教員を辞め、俳人として新しいスタートを切った夏井いつき先生でしたが、困難は続きます。夏井いつき先生の姑、実母を含む、総勢6人での同居生活は大変過酷な状況を引き起こし、とにかく姑と実母がうまくいかない事が家族全体に大きな影響を及ぼします。
自宅に私が帰宅すると、号泣してひっくり返って泣いている実母の前で、仁王立ちしている姑がいるんです。
その状況に好転する兆しは一向に見えず、それどころか次第に繊細だった夏井いつき先生の長女は不登校となり、当時の夫も鬱状態になっていったということですから、家族全体がこの生活でどんどん疲弊していった毎日だったのだと思います。
家族がどこもかしこも疲弊していく生活。
ご自身の苦労をあまり語られない夏井いつき先生ですが、この生活で夏井いつき先生自身もさぞや大変だったことでしょう。
状況を打開すべく、二重生活を開始。
それでも夏井いつき先生は、家族全体のバランスをどうにか保とうと、必死で頑張ります。
これではまずいということで、仕事兼用で借りたアパートに実母を住まわせ、仕事をしながら食材をもって家庭と実母の住むアパートとを行き来する生活を始めることになりました。
どのくらい頑張ったかというと、30歳で教員を辞めてさらに13年間!干支が1周してもなお頑張っていたことになりますから、相当な苦労です。
夏井いつき:当時は本当に貧乏で、家賃が払えず、出ていかなくてはいけない夢を何度も見ました。
女性として花盛りの30代を家族を支えることに費やした夏井いつき先生でした。
1997年には今でも夏井いつき先生の中心的活動である俳句集団「いつき組」を結成するとともに、「組長」へ就任。全国の小中学高校生を対象としたカリキュラムの一環として、「句会ライブ」という俳句教室を開催している。
夏井いつき先生の俳句の活動が広がっていく一方で、家庭内の状況は一向に好転する兆しが見えませんでした。
・・・・そんな生活にも、ようやく終りの時がやってきます。

笑顔がとても素敵な夏井先生
家族全体が疲れ果てた生活の中で、当時の夫から
「家族から解放されたい」
そう言われたということでした。この一言で夏井いつき先生は離婚を決意し、家を出て、子供2人と実母との4人生活をアパートで開始したのだそうです。すでに夏井いつき先生が教員を辞めてから13年の時が過ぎた、2000年、43歳の時の出来事でした。
この新しい門出が、結果的に夏井いつき先生の輝かしい人生のスタートとなります。何か、人生の上で根本的な流れを変えられた時というのは、いつもこうした
「壊す作業」と「手放す作業」
があるんだなと改めて思います。
この頃の夏井いつき先生の絶望感と、それでも希望を捨てずに生きて行こうと自分を奮わす俳句がここにあります。
「つながれぬ手は垂れ 末黒野の太陽」
つないでいたはずの手が離されたのでその手は垂れたまま、焼き払われた真っ黒な野原に唖然と立ち尽くすが、希望の太陽を眺め、垂れた手は太陽を目がけるという、別離の苦しみから希望を見つけようとする一句。
どんな時でも「希望」をまた抱ける強さが夏井いつき先生にはたくさんあります。その力の源となったのは「子供たち」と「俳句」、「松山という土地」だったということがよく分かります。
ずっと苦難の時代を、俳句一本で通してきた夏井いつき先生ですが、それを支えてくれたのは松山の土地と松山の人たちとの出会い、そして俳句だったとよくあちこちで話されています。
ですから、夏井いつき先生は松山の土地と人、そして俳句のために「恩返し」ということばを重ねながら、ご自身のその後を使っていきます。
夏井いつき句会ライブ 5/2(木) #LivePocket https://t.co/nWRKNL2cym
— 一般財団法人 コアやまくに (@coreyamakuni) April 22, 2019
現在でも句会ライブは夏井いつき先生の人生の大事な活動となっています。
◆俳人・夏井いつきが「恩返しをしたい」松山市と俳句
夏井いつき先生は現在、愛媛県松山市に住んでいらっしゃるそうです。松山市といえば、松山城を中心とした旧城下町で、観光では道後温泉で有名ですけれども、もうひとつ、文学の街でも有名です。
俳人 正岡子規や種田山頭火また文豪夏目漱石ゆかりの地で、俳句や小説『坊っちゃん』『坂の上の雲』などで知られる土地です。現在、夏井いつき先生はこの地で「俳都松山宣言」として全国に俳句の楽しさを発信する活動に力を入れられています。
【注目番組】Eテレ 21日(日)14:30~は「俳句王国がゆく」
人気の俳人 #夏井いつき さんが全国で俳句バトル! #俳句 作りのコツや味わい方を楽しく伝える。リニューアル初回は #新潟県 #長岡市 #寺泊 が舞台。海の幸や職人の技を堪能!#豊田エリー #川合俊一 #ビビる大木 https://t.co/sHirWEMfur— NHK松山 (@nhk_matsuyama) April 19, 2019

プレバトも松山大会が開催されていましたね
◆俳人・夏井いつきの代表作の俳句のうち一句を詠んでみる
最後に夏井いつき先生の代表作のうち、私がとても気に入ったものについて一句ご紹介したいと思います。とても味わい深い句でしたので、私なりの、この句に見えたものも少し添えてみました(笑)。
「遺失物係の窓のヒヤシンス」出典『増殖する俳句歳時記』
電車の中に大事なものをうっかり忘れてしまって遺失物係の部屋へ足を運ばれたことのある方は多いと思います。扉を開くと、本来の業務とは別の業務なので、駅員さんもどことなく、ここは本来自分いるべき場所じゃないと言わんばかりにやる気がない様子。
さらに、薄暗い部屋の中には持ち主が見つからず、所属を失ったモノがいくつも所狭しと並んでいるわけです。そんなどこにも何物にも居場所のない虚無感ばかりの部屋に、自身の存在感も飲み込まれそうになった時、ただ一つだけ確かな存在感を持っているものがあったわけです。誰かが置いた窓辺のヒヤシンス。

大人気『プレバト!!』へのレギュラー出演
ヒヤシンスというのはあまり知られていないかもしれませんが、たった小さな1本の花でも、独特の神秘的な香りを強く放つ花でもあります。鮮やかな花の色と、その空間をすべて制してしまうほどの清い香り。
そこに所在がある、存在する、存在することが認められているというのは何と生命力に溢れていることなのだろう。色の対比や嗅覚にも及ぶ映像が浮かび、また、夏井いつき先生が自身や俳句を(羨望に近い意味で)ヒヤシンスに投影しているのかな、と。とてもコクのある一句だなと。そんな一句に聴こえました。

苦労を重ねて再スタートを切った夏井いつき先生にやっと訪れた「実りの時間」についてお届けしたいと思います♪現在の旦那さんとのお話です。
4/27に再放送あり!
文化講演会「俳句の未来」 – NHK 俳人…宇多喜代子,俳人…夏井いつき https://t.co/YVv4L1Jx9Q
— 洒落神戸 (@syarekobe819) April 21, 2019
人生は夕方から楽しくなる。
夏井いつき先生の旦那さんのお話はこちらです↓

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