今回はNHKの国民的ドラマ『おしん』の物語のモデルになったとされている実在女性2人、丸山静江さん、和田カツさんの実話について、
そして脚本家の橋田壽賀子さんが語る「おしん」の名前の由来や明治という時代の歴史的背景、厳しい時代を生き抜いた女性たちへの想いについて調べてみました。
◆国民的NHKドラマ『おしん』は実在する2人日本人女性の実話をモデルにした朝ドラだった。明治の時代の歴史的背景は?
『おしん』の物語にはモデルとなった実在女性がいたのではないかと言われています。どうやらそのモデルは少なくとも2人いらしたようです。
1906年(明治39年)生まれ
●2人目の「和田カツさん」
もまた1906年(明治39年)生まれ
なんとお二人は偶然にも明治時代の同年に誕生していた女性でした。
◆朝ドラ『おしん』の実在モデルの女性2人が生まれる前年の、明治38年には東北大凶作があった
『おしん』の主人公の出身は山形県の小作の農家の家となっていますけれども、
丸山静江さんと和田カツさんが生まれた1906年(明治39年)の前年にあたる1905年には、東北地方の農家を冷夏による歴史的な大凶作が襲っていました。
ちなみにこの頃、1905年(明治38年)の第二次日韓協約で、日本は韓国皇室の利益を保全する代わりに韓国の外交権を接収しており、事実上日本の保護国としていました。
◆主人公・おしんが誕生した翌年1902年(明治35年)も東北地方は大凶作
『おしん』のお話はちょうど丸山静江さんと和田カツさんが生まれた翌年という設定でスタートします。
主人公おしんは、明治40年に6歳になる年齢なので1901年(明治34年)生まれ、丸山静江さんと和田カツさんよりも5歳年上だったということになります。
調べてみると、おしんの生まれた翌年にあたる1902年(明治35年)も東北地方は冷夏による凶作年となっていました。
明治以後の凶作年は明治2年、明治35年、明治38年、大正2年、昭和9年、昭和16年、昭和20年などで、これらのうち明治38年と大正2年の凶作は特に被害が大きく、天保以来の大凶作に属するものであった。
引用元:『東北の稲作と冷害』
東北に大凶作をもたらす「冷夏」は研究者によると約50年スパンで集中して起こる凶作群としてあるようで、その時期に入ると何度も連続して農家を襲ってきたようです。
明治時代~大正時代で4回、戦前までの昭和で5回も大凶作と言われる年が発生しており、いずれも10年を超える凶作継続年を記録しています。
◆与謝野晶子はおしん・丸山静江・和田カツの「母親と同年代」の明治生まれの女性
余談ですが、『みだれ髪』で有名な歌人の与謝野晶子さんも1878年(明治11年)生まれの女性です。
与謝野晶子さんは与謝野鉄幹さんとの間の第一子をおしん誕生の翌年にあたる1902年(明治35年)に出産しています。
また、丸山静江さんと和田カツさんが誕生した翌年にあたる、1907年(明治40年)には与謝野晶子さんはちょうど双子(第三子・第四子)を出産しています。
ですから、与謝野晶子さんはちょうどおしんの母親や、丸山静江さんと和田カツさんの母親と同じような時代背景に生きた人物であることが分かります。
おしんの母親と
同年代の与謝野晶子w
大変な子沢山だったことも理由としてはありますが、与謝野晶子さんは1918年(大正7年)、役所へ白米廉売券の交付を請求したところ、歌人として有名であったことで「窮民でない」と拒否されたことが掲載されています。
実際に与謝野家では、出産をお願いした産婆さんへの心づけにも困っていた程の生活をされていたと語られています。時代を考えると、この「白米廉売券」の交付されていた時代は、丸山静江さんと和田カツさんが小学校高学年の頃の時代のお話です。
与謝野晶子さんの当時のご自宅は、麹町区富士見町(後に杉並区荻窪へ転居)。
この頃には、地方の農家で大凶作というわけではなくとも、こうした「窮民」が日本国内に溢れていたということも分かるお話となっています。
■与謝野晶子さんと与謝野鉄幹の子供に関するお話はこちら↓

◆1人目「丸山静江さん」は静岡川根本町の民宿創業者/『おしん』実在モデルと言われる女性
ここからは『おしん』1人目のモデル、丸山静江さんについて調べていきたいと思います。丸山静江さんは、静岡県榛原郡川根本町出身の女性です。
明治・大正・昭和の激動の時代を生きた
丸山静江さんがこちら。

静岡のおしんのモデル丸山静江さん
丸山静江さんとおしんの共通項は大変多いです。
●青年期に東京へ出て髪結いとなる
●のちに事業経営者となる
特に、朝ドラ『おしん』の中でも、国内だけでなく世界から共感を得ている少女時代のシーンは、丸山静江さんの実話をアレンジして再現したものであると言えそうです。
奉公先へ行くため
最上川を下るおしん
丸山静江さんもまた、静岡県棒原郡本川根町から榛原郡金谷町へと子守奉公へ出るために大井川を下った経験を持っていました。
明治40年、当時はまだ胸までつかる深い雪が降った静岡県棒原郡本川根町で生まれ、7歳から奉公を重ねた少女は、髪結い修行で上京し、夫と洋服商を始め…。
引用元:SPAC

とてもおしんと似ている経歴です。
■おしん少女時代を務めた名子役・小林綾子さんのオーディション選考理由のお話はこちら
◆大人気NHKドラマ『おしん』を生み出した一人目の実話モデル・静岡に住む丸山静江さんと脚本家・橋田寿賀子さんとの出会いは『母たちの遺産』物語誕生のきっかけは?画像
丸山静江さんの実話のお話が、大人気ドラマ『おしん』として生まれ変わった背景には、橋田寿賀子さんが当時、雑誌「主婦と生活」に「母たちの遺産」という連載を持っていたということがあったようです。
そこへ丸山静江さんの半生について、次女の千鶴子さんが橋田壽賀子さんへ手紙を送ったことがきっかけだったようです。
『おしん』の物語の生みの親といえる橋田壽賀子さんが、当時雑誌「主婦と生活」で「母たちの遺産」という連載をもっていました。そこに丸山静江さんの長女 千鶴子さんが、母 静江さんの半生を書いて送ったのがきっかけだそうです。それが1979年のこと。
その後、丸山静江さんと千鶴子さんは、橋田壽賀子さんやNHKの番組スタッフの取材を受け、ドラマ化されたそうです。
おしんのドラマや人物像の誕生のきっかけには、やはり丸山静江さんという実在の人物とその半生がスタート段階で存在したということになります。
日本で最初にシンデレラを翻案したのは坪内逍遥で、1900年『おしん物語』として教科書に載せた。ただし橋田壽賀子は、これが『おしん』の名の由来ではない、と語っている(辛抱のしんではない、ということも)。主人公のモデルは丸山静江という女性なので、「おしず」が変化したものなのだろうか。
— 円盤人@怪談系YouTuber (@enbanjin) April 22, 2014

橋田寿賀子先生と丸山静江さん
ドラマがはじまってから亡くなられれるまでの間、丸山静江さんは『おしん』のモデルとして各地で講演をされたりしていたということです。

丸山静江さんが創業したと言われている民宿
また、丸山静江さんが創業したことで知られている民宿が現在も営業しているようです。
◆丸山静江は朝ドラ『おしん』の放送終了翌年に永眠
『おしん』が放送されたのは1983年ですが、丸山静江さんは、翌1984年の放送終了後に78歳で亡くなられているそうです。
まさに人生の最後に、自分自身の半生を振り返るようなドラマが日本全国で愛される物語として一大ブームを起こした後、それを確認して丸山静江さんは天国へ行かれたということになります。

おしんを演じた女優3人
画像:NHKオンデマンド
丸山静江さんの次女の千鶴子さんのお話では、丸山静江さんは朝ドラ『おしん』を楽しみに見ながら泣いておられたそうです。
おしんは母の半生そのもの。母が泣きながらドラマを見ていたのを覚えている
引用元:Wikipedia
丸山静江さんがドラマ放送終了の最後までこのドラマを見届けてから、亡くなられたというのがこれまたドラマですね。
なんて、
人生はドラマチック。
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