今回は瀬戸内寂聴さんが若い頃におちてしまったという不倫恋愛と瀬戸内寂聴さんの愛娘について情報を集めました。また、不倫恋愛の相手とその娘・井上荒野さんの小説『あちらにいる鬼』についても追記しています。
情熱的な感受性は今もなお健在ですが、若い時代から内側に持つその獣と闘い続けてきたことで、現在の穏やかでしあわせな瀬戸内寂聴さんがいらっしゃるようです。
◆瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)は若い頃に結婚し、昔の旦那との間に子供がいる?夫妻は?娘?現在は?写真画像あり
瀬戸内寂聴さんはもう久しく尼さんなので、結婚とか出産とあまり縁がなさそうですが、出家される前の若い頃は普通の女性としての人生を歩んで・・・いや、歩もうとされていたようです。
おおお!若い頃のイケイケの瀬戸内寂聴さんですね(笑)
◆瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)は昔若い頃の旦那との結婚で出産し子供がいる。夫妻の娘の名前は?年齢は?現在画像は?再会できた!
瀬戸内寂聴さんは彼女が東京女子大学在学中、1943年の21歳という若い頃にお見合いで最初の結婚をされたそうです。お相手は中国古代音楽史を研究する学者さんだったそうです。結婚後はすぐ北京へ。結婚の翌年、女の子の赤ちゃんを出産したのだそうです。
瀬戸内寂聴さんは何となく、「女の子」と縁がある人のようですね。
若い頃の瀬戸内寂聴さんは
1944年にご出産なので、現在、その娘さんも2020年には76歳になります。
お名前は公表されていません。
若い頃の過ちは娘さんと離れた事と語っている瀬戸内寂聴さんですが、後にこの娘さんとは和解し関係も修復しているという事です。
娘さんの画像も一般人の為、公開されていないということです。
わが子と離れ離れにならなくてはならない状況があったようですね。母親としては理由はどうであれ、とてもつらいことだったと思います。
(※瀬戸内寂聴さんの娘さんのお写真ではありません)
瀬戸内寂聴さんが1973年に51歳で岩手県の中尊寺にて出家後に娘さんのと和解交流が実現し、瀬戸内寂聴さんのお孫さんにも会うことができたといいます。

お孫さんにも会えたなんて、しあわせなことですね。
■「女の子」に縁のある椎名林檎さんのお話はこちら↓

元々出家する際の要因として、若い頃瀬戸内寂聴さんが娘さんが結婚するということを耳にし、婚礼家具一式を娘さんへ送ったらしいのですが、それをそのまま娘さんから送り返されたことが出家の理由の一つと言われています。
「ママは死んだ」と言われながら娘さんは育ったそうです。
現在は瀬戸内寂聴さんの娘さんはアメリカで暮らしており、帰国すると瀬戸内寂聴さんと交流しているようです。
◆瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)は若い頃にクズ不倫していた?相手は恋愛の末 死亡!?結婚生活や旦那や子供は?小説『夏の終り』は実話だった写真画像あり
結婚・出産後、瀬戸内寂聴さんの人生は一転してしまいます。学者だった夫の教え子と恋仲になってしまい、娘さんが3歳の時に夫と娘を捨てて、家を出て行かなければならない状況に追い込まれます。瀬戸内寂聴さんの若い頃25歳の時でした。
戦争が終わり、若い頃に北京から日本へ帰国した瀬戸内寂聴さん一家でした。瀬戸内寂聴さんの地元、徳島で家族3人で暮らしていたそうです。そこでなんと、瀬戸内寂聴さんは夫の教え子と恋に落ちてしまいます。
瀬戸内寂聴さんは夫の教え子である青年と不倫関係になり、罪悪感からか自ら夫に不倫していることを告白するも、夫は当たり前のように激怒したそうです。
そら、怒られるわw
夫は瀬戸内寂聴さんと自分の教え子が会うことができなくなるように東京へ引っ越す事を決断します。そこまでの猶予があったにもかかわらず、
若い頃の瀬戸内寂聴さんは不倫相手の青年へ益々思いを募らせ、夫と当時3歳だった娘を捨てて京都へと渡ってしまったといいます。そのことを知った瀬戸内寂聴さんの父親は激怒して縁を切ったそうです。

まあ、縁切られますよね。
まさに若さ故の残虐性というか
世界を敵にした情愛です(汗)
若さとはサガと煩悩との闘い。
瀬戸内寂聴さんが若い頃、娘を連れていけなかったのは主に経済的な理由だったということでしたが、それでも長い間、そのことは悔いていたようです。
当時の自分が経済的に自立していれば子供と一緒にいられたが、自分にはその力がなく置いていくしかなかったと後に語っています。
そのため彼女は現在も、男性と対等な立場になりたいのであれば、経済的に自立しなければならないと世の女性達に向けてメッセージを送り続けています。
男性と対等な立場になりたいのであれば、経済的に自立しなければならない。
この考えは与謝野晶子さんと一致していますね。
■与謝野晶子さんのお話はこちらです↓

駆け落ち後の悲劇
夫と、まだ母親を必要としているはずのわずか3歳の小さな娘を捨てて、親とも縁を切って、単なる不倫相手である青年の所に行ってしまった若い頃の瀬戸内寂聴さんはその後はどうなったのか?
そうして瀬戸内寂聴さんは青年と再開し交際をスタートさせました。
当時21歳の青年には子供と夫を捨てて自分のところへ来た女性を背負うのは重かったようで、瀬戸内寂聴さんは捨てられます。
しかし今度は妻子持ちの男性と不倫関係となり一時期は三角関係になっていたそうです。

なにかがどこかで少し壊れていたのかもしれないですね。
この時の瀬戸内寂聴さんの不倫相手は小説『夏の終わり』では、出版社で出会った、小説家の小杉慎吾という名前で登場します。若い頃にはこうした衝動性というものが女性にはあるのかもしれないですね。
この話にはトドメのような悲劇の終焉があります。
その後、瀬戸内寂聴さんと青年の恋は終わりを告げ、青年は事業に失敗して自殺。
まさに
事実は小説より奇なり。
瀬戸内寂聴さんは後に若い頃のこの経緯をこんな風に語っています。
本当のね、恋の醍醐味は不倫ですよ。
なかなか、なかなかな発言です。
◆近年、若い頃の小説『夏の終り』の小杉慎吾役が実在の小説家・井上光晴(写真)と判明。娘・井上荒野の小説『あちらにいる鬼』に瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)の不倫恋愛と両親の三角関係を描く。画像
直木賞作家の井上荒野さんが2018年に連載中の小説『あちらにいる鬼』のお話をされ、その中で井上荒野さんの父親である小説家の井上光晴さんと瀬戸内寂聴さんが井上荒野さんの幼少期に当たる5歳から12歳までの7年間、不倫関係にあった内容が小説化された内容をインタビューで語っています。
2019年に
作家生活30周年を迎えた井上荒野
これまでは
父・井上光晴と瀬戸内寂聴の話を
小説にすることは断り続けてきた。
元々、編集者より、父親と瀬戸内寂聴さんの関係について小説にしないかというオファーはあったそうなのですが、スキャンダラスでセンセーショナルなものは書きたくないと言って断っていたという井上荒野さんでした。しかし、作家生活を続けていく間にたびたび「自分ならどんな小説を書くかな」ということは考えたことがあったそうです。
そうした意味では、井上荒野さんはずっと心のどこかで自分が書かなければいけないというような使命感を常に抱えながら生きてきたという事でもあったのかと思います。
自分の他に
この小説をかける人間はもういない。
画像:文春オンライン
そして、自分の父親、母親にとって特別な縁があった女性である瀬戸内寂聴さんが近年体調を崩されたことがあり、「もう会えないかもしれない」という状況が目の前に出てきたときになって初めて井上荒野さんは自分の中に長年抱えてきた「その小説と対峙する時の到来」を感じたようです。
そこでその思いを胸に瀬戸内寂聴さんに会いに寂庵に足を運んだということです。
初めて
「この小説を書きたい」
という気持ちを
明確に自分の中で持ったことを伝えに。
その話を瀬戸内寂聴さんへすると、瀬戸内寂聴さんにも「書きなさい」と喜ばれ、書き始めたというのが小説『あちらにいる鬼』です。
「もちろん書いていいわよ、何でも喋るから!」
引用元:好書好日
そこから何度か井上荒野さんは京都の瀬戸内寂聴さんの元へ足を運び、お話を聞いたり、瀬戸内寂聴さんの小説、父である井上光晴さんの小説を読みながら、それぞれの事実とエッセンスを参考にしつつ織り交ぜた「創作」を始めたという事でした。
◆瀬戸内寂聴と井上荒野の母親を翻弄した小説家・井上光晴の若い頃の姿『あちらにいる鬼』に映し出される「鬼」の意味とは?不倫相手ではない??写真画像
私も最初にこの小説のタイトルを知った時に「鬼」は自分たちに家庭崩壊の危機を作った「あちらの女」、つまりは瀬戸内寂聴さんの事だと思っていたのですが、どうやら井上荒野さんが「鬼」にたとえたのは父である井上光晴氏のことすら含まれていたようです。その感性がこの小説を豊かなものとして象った印象的なもののひとつのと言えます。
画像:好書好日
インタビューでタイトル『あちらにいる鬼』について問われた井上荒野さんはこう答えています。
寂聴さんから見たら母のことかもしれないし、母からみたら寂聴さんのことかもしれない。父が鬼ごっごの鬼であるというイメージも浮かびました。
「今、鬼はあっちの人のところにいる」みたいな、ね。
引用元:好書好日
このインタビューでの回答を見ると、井上荒野さんがこの小説を書いたことによって、ひとつの無二の物語を共有して過ごした特別な関係と縁で繋がっている自分の母親、父・井上光晴、瀬戸内寂聴さん、そして自分、というそれぞれを一緒に鬼ごっこをして遊んだ同志のように愛おしい目線で捉えていることが伝わってきます。
父は、多くの女性に好かれました。作品からは想像もつかないけれど、女たらしっていうよりは、女好き(笑)。瀬戸内寂聴さんと父がつきあっていたことも、薄々とは感じていましたが、はっきりと認識したのはここ数年です。
引用元:AERAdot.
瀬戸内寂聴さんが出家した理由のひとつとして、井上荒野さんの父親である小説家の井上光晴さんとの関係にけりをつける意味があったことを最近知ったという井上荒野さんは父親の井上光晴さんを1992年に、母親を2014年に亡くしていました。
画像:個人ブログ
井上荒野さんの母親は生前、瀬戸内寂聴さんが雑誌に書いた小説を褒めた感想をはがきで瀬戸内寂聴さんへ送っていたそうです。
もう自分の死期を知っていた時期ですから、お別れの挨拶をしようとしたんじゃないかな。もしも憎んでいたとしたら、そんな葉書は書きませんよね。
引用元:好書好日
どうしようもない男を愛した者同士としてのシンパシー
これは私自身も実は経験があり、元夫が私との結婚以前に5年以上付き合い続けていた女性(当時既に彼女は独身で35歳ほど)がいたこと、その女性が実は過去に元夫との間で子供を妊娠していたことを私が結婚後知ったこと、私と元夫の結婚する前後に我が家へ彼女が一度訪ねてきたことがありました。
何というか、家庭を明らかに脅かされているわけですが(笑)、不思議と「憎い」なんていう感情はひとつも起こらなかったです。まさに前述の「同志」感。「お互い大変だよね」の方が近い感情だったでしょうか。共感からの愛着のようなものもあった気がします。(離婚する時は彼女に相談に乗ってもらいたかったほど(笑))
■磯野貴理子さんの結婚離婚のお話はこちら↓

◆小説家・井上光晴の娘・井上荒野の小説『あちらにいる鬼』で瀬戸内寂聴を含めた4人の不倫恋愛を介した若い頃からの愛情が一度完結したのかもしれない。写真画像
瀬戸内寂聴さんとは対岸にいた母親の元で育てられた井上荒野さんは、全く大人の事情を知らずにスクスク育ったそうで、事の真相が徐々に分かってきたのは大人になってからだったそうです。
画像:個人ブログ
なんだかんだ言って
家庭を続けていくことの象徴となった調布の家。
寂聴さんが出家したのって、父が調布に家を建てたのとほとんど同じくらいの時期なんです。なんだかんだ言っても父は家庭を続けていくんだなってことの象徴が調布の家で、そのあとに寂聴さんが出家した、というのは興味深いことですよね。そういうことを発見していくのは面白かったですね。
引用元:好書好日
翌2015年、体調を崩した瀬戸内寂聴さんから連絡を受け訪ねたところ、終始父である井上光晴さんの話ばかりする瀬戸内寂聴さんの姿を見て、ああ、本当に父のことが好きだったんだなと心底思い、自分が書かなきゃいけないような気がしてきたと言います。
写真:AERAdot.
井上荒野さんにとって瀬戸内寂聴さんは、いうなれば家族を脅かしかねない父親の不倫相手という立場だったわけですが、記憶では井上荒野さんが気がついたときには尼姿で家にいらっしゃるようになっていて、父親の井上光晴さんだけでなく、井上荒野さんの母親ともとても仲がよかったのだそうです。
写真:AERAdot.
井上荒野さんにとって親戚みたいな感じだったという一般的に考えれば不思議な関係です。家庭も円満だったと言います。
そういう家庭で育ったせいで、幸せとか不幸は相対的ではなく絶対的なものだと私は考えるようになった。それは小説家としては、いいことだと思っています。
単なる秘密の関係を暴露するような本ではなくて、それぞれの立ち位置にいる瀬戸内寂聴さんを含めた3人の女性をモデルにした小説ということのようです。それぞれの愛情や思いがどこかで繋がりあって、支えあって存在している印象を抱かせる井上荒野さんのお話です。
この小説を書こうと思ったきっかけは
寂聴さんの父への気持ちに対する感動と
母という大きな謎を解きたいという気持ち。
私がこの小説を書きたいと思ったのは、寂聴さんは父が本当に好きだったんだなということに感動したからでもあるし、それともうひとつ、母がどういう気持ちでいたのかが自分にとって大きい謎であり、その謎を解きたいという気持ちがあったからなんですよね。
引用元:好書好日
私の母親もそうですが、家を守り続ける女性というものは最も近くにいて、最も謎に満ちている存在だなと最近よく思います。家庭を守り続けるために備わる性質でもあるのか、いつも一緒に居るのに「本当の感情」がなかなか見えてこない。
画像:好書好日
しかし、井上荒野さんは長年謎のままにした「母の感情」を小説にする工程で丁寧にほどいていき、納得する形を収めることができたようです。
やっぱり小説を書くって、自分の一番見たくないところがどうしても露わになってしまう、すごく怖いことなんだと思いました。それでも書くんだよ、とも思ったし、だからこそ書くんだな、とも思いましたね。書いてよかったなと思います。やっぱり、母の父への思いをこういう形で文章にできてよかったです。
引用元:好書好日
この小説『あちらにいる鬼』を読んだ瀬戸壌寂聴さんは井上荒野さんからの依頼で本の推薦文、帯文も手掛けていますが、最初に小説を読み終えた時、家の留守電にこんな風に感想を入れられていたそうです。
「すっごくよかった、すっごくよかった、傑作!!!」
引用元:好書好日
きっと本当に
心から嬉しかったに違いない瀬戸内寂聴さん。
画像:個人ブログ
井上荒野さんの小説の出来栄えを小説家として讃えてくれたようです。瀬戸内寂聴さんとしては、きっともはや娘のような存在である井上荒野さんが小説家として素晴らしい作品を一つ作り上げたことがとても嬉しかったでしょうし、
それが結局のところ瀬戸内寂聴さんと井上光晴さんが愛し合った意味、築き上げ、残った宝のように思えたのかもしれません。
この回の「鬼ごっこ」
が終わります。
次回は誰がどちら側なのでしょうか。
■小野小町の悲恋の伝説についてはこちら↓

『あちらにいる鬼』読んでみたいですね。
◆瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)は若い頃の娘への罪悪感と不倫恋愛での愛憎の男性遍歴が理由で若い頃に出家した?井上光晴氏との関係を清算へ画像
その後、瀬戸内寂聴さんは51歳で出家したようです。瀬戸内寂聴さんのここまでの話を見ていくと、若い頃の自身の存在がとても罪深いと考えるのも分かる気がします。自分の人生に関わった人たちを皆傷つけ、彼らの人生を破壊してきてしまった、そんな思いだったのかもしれません。
1973年になってやっと瀬戸内寂聴さんを受け入れてくれる場所が見つかります。その後中尊寺天台宗で出家し、今現在の名前寂聴となったのだそうです。
1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とする(戸籍上の氏名は、1987年に天台寺住職となった際に瀬戸内寂聴に改名)。
翌年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。
ただし通常の出家のような禁忌生活ではなく、出家後も男性と付き合い、化粧をし、酒を飲み、高級霜降り肉もたくさん食べていると自ら認めている。
出家しても煩悩だらけ(笑)
この辺りのでの瀬戸内寂聴さんに対する批判も多いのですが・・・
ステーキ!w
(瀬戸内寂聴さんは)当時、小説家だけではなく修道女を志していたんですが、
既婚者で娘もありながら他の男性と関係をもったという行状により教会側から修道女になることを拒否されてました。その後、出家を志して多くの寺院に頭を下げるもここでも拒否をされてしまうのです。
元々は瀬戸内寂聴さんは修道女になりたかったのですね。それにしても、悔い改めることを拒絶されるって、何なんですかね(笑)

もし修道女になっていたらゴスペルを歌っていたことでしょう!
◆若い頃離れた瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)と実の子供・愛娘のその後、現在までに再会は?写真画像
瀬戸内寂聴さんと娘さんの関係ですが、長年絶縁状態が続いていたということです。そりゃそうですよね。
娘さんはまだ小さかったので、当時は憎しみなどは抱かずに、「なぜ?」が続いていたことでしょう。周りの家族の怒りや憎しみに対して、理由が知りたいという時間を大人になるまで過ごされたことでしょう。
ただ、二人の関係は瀬戸内寂聴さんが出家し、後年になってから和解し交流が戻ったそうで、現在は娘さんにはお孫さんもいるそうです。二人が和解するに至るまでは一筋縄にはいかず、かなり苦労して和解されたと言われています。
きっと他の家族の立場からしたら、若い頃の瀬戸内寂聴さんの行為は、到底許せるものではないという気持ちであったはずですし、そこで知らされてきた情報の上で、瀬戸内寂聴さんを憎むこともあったかもしれません。
それでも、一緒にこうして笑いあえるようになって瀬戸内寂聴さんは自身の若い頃の罪を許された気持ちにもなれ、少しだけ救われたでしょうね。
◆瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)の若い頃のくず不倫恋愛の過去が小説化と映画化『夏の終り』写真画像
もともと瀬戸内寂聴さんは尼僧としての人生を目指す前に、若い頃から小説家を目指していました。現在では尼さんと小説家と両方の姿を実現されています。文学女子だったのですね。
■瀬戸内寂聴さんの秘書、瀬尾まなほさんのお話はこちらです↓


余談ですが、だからこそ秘書の瀬尾まなほさんを採用する際に「文学女子でないこと」がよかった、といったのかもしれませんねw
◆小説家 瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)の若い頃からの活躍経歴画像 不倫恋愛の代表作『夏の終り』だけではない。写真画像
瀬戸内寂聴さんのこうした痛みを伴う若い頃の経験は、小説となり、形になったことで、少なくとも瀬戸内寂聴さんの中で意味を持つことになります。
瀬戸内寂聴さんには小説家という顔と尼憎さんという顔があったのです。
新人時代を経て、1956年処女作「痛い靴」を発表します。また同年に「女子大生・曲愛玲」という作品で新潮同人雑誌賞を受賞するくらい才能を発揮していきました。
しかし、その受賞作品その受賞第1作『花芯』での内容がポルノ小説だということで当時批判されてしまい批判家によりレッテルを貼られてしまいます。
そのことにより、依頼なども減ってしまい本を出版する事もできずに雑誌や週刊誌(『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等)などで作品を発表する日々を送ることになりました。
1956年ということは34歳の時に処女作ということですから、出家前の小説家デビューということですね。小説家としての人生は2020年で64年ということになります!
瀬戸内寂聴さんのとても長い小説家としての人生のスタートでした。
【デビュー作】
『痛い靴』(1956年)【代表作】
『花芯』(1958年)
『夏の終り』(1963年)
『花に問え』(1992年)
『場所』(2001年)
【受賞歴】
新潮同人雑誌賞(1956年)
田村俊子賞(1961年)
女流文学賞(1963年)
谷崎潤一郎賞(1992年)
芸術選奨(1996年)
野間文芸賞(2001年)
文化勲章(2006年)
泉鏡花文学賞(2011年)
朝日賞(2018年)
瀬戸内寂聴さんが若い頃に川端康成さんとの交流があったのもこうした理由からだったようですね。元々出家先として受け入れてくれた今東光和尚さんが小説家だったことも大きかったようです。下の写真の左側の方です。
1959年から瀬戸内寂聴さんは同人誌『無名誌』に「田村俊子」の連載を開始し、連載物の小説を開始しつつ、並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載することになります。
女性のサガに迫る小説の数々。
この時期の不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
「夏の終り」なんとこの作品は、瀬戸内寂聴さん自身の不倫体験を描いた小説でした。
夏の終わりという季節は
いつもいつも切ないですね。
瀬戸内寂聴さんが40歳のときに書いて、女流文学賞を受賞した作品。
瀬戸内寂聴さんはこの作品が自身の作品の中で一番好きなんだそうです。この作品を書いてから、これを越す小説を書こうとしていますが、50年たった今でも、実現していないそうです。
この作品に登場する年下の男のモデルは、瀬戸内寂聴さんが若い頃に家庭を捨てて駆け落ちした時の男性のことだと言われています。(年上の小説家は前述の井上光晴さん)
「夏の終り」のモデルになった作家は小田仁二郎です。
寂聴の「場所」(新潮文庫268頁と321頁)などが参考になると思います。引用元:コメント欄参照

小説にしちゃうんだ・・・。
ちなみに映画の出演者は、主演の女性役の満島ひかりさん、妻子を持つ作家役の小林薫さん、年下の恋人役の綾野剛さん、豪華な面々で作り描かれた映画になっているようですね。
映画化もされて人気だったようです。人の修羅場は蜜の味とでも言いますか。
瀬戸内寂聴さんは小説を書くことに対してこんな風に表現しています。
小説を書くことは快楽。
小説を書くことは私にとって快楽なのです。この快楽を手放したくないという欲望が、私にはある。煩悩は捨てなくてはなりませんが、私はいい小説を書きたいという煩悩だけは、今も捨て去ることができません。
瀬戸内寂聴さんの元気の源のひとつに小説を書くことがあったようですね。
小説を書くことは
唯一手放せない煩悩だった(笑)!
■瀬戸内寂聴さんが95歳で書かれた本も大変興味がありますね!

■小野小町の恋の歌・恋人に関してはこちら↓

コメント
お子さんではなくて、小説家の塩野七生さんの写真ですよ
ご指摘ありがとうございます。ご指摘の通り、誤解されかねない載せ方でした。修正させていただきました。
珍しい写真も入っており、大変参考になりました。
尚、「夏の終り」のモデルになった作家は小田仁二郎です。
寂聴の「場所」(新潮文庫268頁と321頁)などが参考になると思います。
これからもご活躍下さい。
あたたかいコメントをありがとうございます。
『「夏の終り」のモデルになった作家は小田仁二郎です。寂聴の「場所」(新潮文庫268頁と321頁)などが参考になると思います。』の部分を本文の修正下に入れさせていただきました。
詳しくお伝えいただけたことでとても助かりました。ありがとうございました。
また、読んでくださった方の言葉を普段聞けることがなかなかない為、とても励みになりました。
読んでくださった方々の心に、ささやかでも「あったかいもの」が届けられるように今後も続けていきたいと思います。