◆篠原ともえの若い頃の「台湾事件」について流れた憶測の暴行情報、真相は?
マスクの違和感だけでなく、篠原ともえさんが台湾で8本もの仕事をキャンセルするほどの体調だったにも関わらず、1日未満で退院し日本へ帰国して、その場で緊急会見へ臨み、元気な様子が垣間見られるという事自体が、とてつもない違和感でした。

清らかな雰囲気の漂う篠原ともえさん
その後、この違和感が、篠原ともえさんに真偽不明の憶測のような噂話を強く残してしまうこととなります。
会見に姿を現した篠原ともえは、当時テレビで見る篠原ともえとはまるで別人のようで、画像のように口元にはマスクを装着していました。まるで口元を隠すかのように。画像の口元をよく見てみると、歯が折れているようにも見えます。台湾での出来事で歯が折れたとなると、台湾での出来事について事件性は否定できないのでは・・・。
台湾から帰国した際の緊急会見後に、噂で流れた篠原ともえさんに関する情報、語られた内容を総合すると、主にこのような内容です。
●篠原ともえ
さんの歯が欠けていた●カードキーを不正使用した滞在先のホテルの従業員に部屋へ侵入され、暴行されそうになった
●暴行に抵抗して裸同然で部屋の外で大声を上げて助けを求めた
●暴行に抵抗する際に歯が欠けた
かなり具体的(;’∀’)
画像:pinterest.jp
これが事実だとすると、篠原ともえさんにとってはとてつもない恐怖の体験だったと思いますし、挿し歯が折れるほど抵抗しなければならない状況と言うと、あまりのショックで芸能界活動すら恐怖感を憶えてもおかしくないように思います。
このセンセーショナルな噂の部分の真相は結局現在まで分かってはいません。しかし、当時まだまだ若い21歳の篠原ともえさんが置かれていた境遇から、「台湾事件」に関する別の可能性について考えてみました。
◆篠原ともえが抱えていたストレスの原因と理由
この事件において、篠原ともえさんはご自身の口から「ストレス」を抱えていたという事を証言しています。また、緊急会見時に提示した「急性ストレス反応」とは主に精神的な問題が起因して起こる症状です。
画像:pinterest.jp
私が同性として考えてみたところ、篠原ともえさんはこの時、かなりたくさんの分野の別の悩みやストレスを同時に抱えていたのではないかという事が想像できました。
◆期待されるキャラクターに応えきれない~女性の成長と共に変化していく価値観の葛藤/篠原ともえの若い頃のストレス
篠原ともえさんが「台湾事件」に巻き込まれた21歳という年齢を私自身の人生を振り返って思い出してみると、「無敵の子供時代」から「大人の女性」としての入り口に立たされ始める岐路にある段階です。
いわば
第二の思春期。
画像:https://geinou-scandal999.com
ほんとうの自分を
出せなくなった。
高校生になった途端、芸能界で活躍を開始した篠原ともえさんは高校生徒はいえ、見るからに「まだ元気で無邪気な子供」でした。自分の思ったことを思ったように自由に表現していく無敵の篠原ともえさんの元気な姿が支持され、うるさいくらいの騒がしいキャラクターが人気の根幹としてありました。
画像:pinterest.jp
けれども、21歳の頃にはきっと芸能界での様々な力関係や人間関係が分かるようになり、自分自身も大人になったことで、「幼いままのキャラクター」と「ほんとうの今の自分」にズレと大きな精神的ひずみが生じてきたという事なのかもしれません。
それでも、世間から期待されているのは「元気でうるさくて、ガチャガチャした奇抜な私」それが分かっていたことから、篠原ともえさんは必死でその期待に応えようと無理にキャラクターを受け入れようと我慢してきたしてきた時間が長くあったのかもしれません。
◆自分が望むものにちゃんと時間を使えない、向かうことが許されない葛藤。大学の卒業制作/篠原ともえの若い頃のストレス
「台湾事件」が起こった2001年の3月は篠原ともえさんが一般入試で再入学するほど望んだ文化女子大学短期大学部服飾学科の卒業式がある月でした。
画像:pinterest.jp
卒業年という事で、きっと篠原ともえさんは台湾へ行く前に「卒業制作」として大学生活を総括するような自分の作品をつくらなければならない時期があったと思われます。
私は美術大学出身でしたが、卒業年は秋冬辺りから、この卒業制作に向けて全精力を費やしました。(この間に交通事故に巻き込まれて額に大きな傷を負ったのに、制作を優先して殆ど通院せず、加害者からの保険金が1万円位しか出なかったほどw)
それほど、卒業制作というものはその時も、その後にも本人にとって特別な意味を持つものです。
しかし、芸能事務所からすれば、当時はお金にもならない殆ど「意味のないもの」だったことでしょうから、篠原ともえさんにとって、人生の中でもとても特別なこの年の3月という時期に事務所側だけが望む台湾のイベントを入れてきたという事が考えられます。
卒業といえば、専門学校の卒業制作は篠原ともえさんのライヴでした。篠原ともえさんのお陰で卒業できました。ありがとう、ともえちゃん☆
— yukimidaifuku 【アヒルの子】 (@tmr0829) March 16, 2014
篠原ともえさんとしては、最後の最後まで制作に持っている精力のをすべて注ぎたいという事や、展示方法、卒業制作展までの準備などを「やり切りたい」という気持ちが強くあった時期ではないかと思いました。
画像:Art Life
または、それを台湾でのイベントの前までの期間に集中して行ってきていて、殆どエネルギーが残っていなかった時期であった可能性もあり、いずれにしても篠原ともえさんにとって健全な精神状態を保てるスケジュールではない事から人生を改めて再考する内容だったことが想像できます。
幸い、篠原ともえさんが「台湾事件」で大騒ぎになった翌週、3月12日に行われた文化女子大学の卒業式については参加されたかどうかはともかく、卒業は無事できたようで、良かったなと思います。
◆台湾現地で期待に応えられなかったという現実/篠原ともえの若い頃のストレス
台湾で実際に篠原ともえさんの出演した現地のクイズ番組での「不調和」が具体的にどんなものかは分かりませんが、台湾でも日本の評価とほぼ同じような「へんてこりん女教祖」という異名で通っていたという事でしたから、
そうしたキャラクターとしての振る舞いが期待されていたという意味では、もともと精神的な負担は大きかったのだろうと思います。
そうして、番組でやはり期待に応えることが出来なかったと感じた篠原ともえさんは日本側のスタッフに対して
「ねえねえ、日本に帰ろうよ」と言った
引用元:『日刊ゲンダイ』2014年3月5日
とされています。篠原ともえさんの緊急会見で語られたこの言葉から考えると、ご本人としてはごく普通の感覚で「訴えた」という印象ですけれども、当時の篠原ともえさんのキャラクターとしての「普通の振る舞い」自体が、やや騒がしくガチャガチャしたやかましい印象の声や話し方だったと思いますから、
それが篠原ともえさんのキャラクターをそこまで良く知らない台湾の人や、聞く人によっては「大声で騒いでいた」という印象を持ってもおかしくないのではないかと感じました。
画像:http://up.gc-img.net
あるいは、キャンセルされた篠原ともえさんの各種のイベントのニュースが出来なくなったことで、センセーショナルな「奇行」のニュースというネタがメディアには必要だったのかもしれませんし、
篠原ともえさんの抱えていた様々な問題で、我慢が複数に長期間続いたことから、最後の1つ、ほんの軽い、いつもなら耐えられる衝撃でもあふれ出してしまった状況として起きたものだったのかもしれません。私は産後育児の不眠が続いた時に同症状を体験しています。
◆2002年(年齢22歳)篠原ともえの若い頃からの活躍基盤だったレギュラー番組『LOVE LOVEあいしてる』の終了。台湾事件は「転機」芸能界から干されたわけではなかった?
台湾事件後の篠原ともえさんの芸能活動は一変しました。スポンサー離れという問題も確かにあったようでしたが、離れてしまったのはむしろ篠原ともえさんの芸能界へ対する心だったようです。

いつも素敵な衣装の篠原ともえさん
それを知ってか知らずか、2002年3月には篠原ともえさんをその時代の人気者へと押し上げたレギュラー番組『LOVE LOVEあいしてる』の放送が終了し、高校生からそこまで学業の傍ら走り続けた篠原ともえさんにとって転機が訪れることとなりました。
台湾事件がもたらした転機
篠原ともえさんは、芸能界でタレントとして表舞台で活躍することよりも、小さい頃から興味が強かった「つくること」へ道を進んでいくことを選ぶことになります。
きっかけとなったのは『LOVE LOVEあいしてる』で共演していたシンガーソングライターの吉田拓郎さんの一言だったそうです。
吉田拓郎に「ぎゅーっと」抱きしめられる篠原ともえのインスタが大反響…16年ぶり人気番組復活で https://t.co/wOh959ivgA #芸能ニュース #スポーツ新聞 pic.twitter.com/7Ib3wjGIB5
— スポーツ報知 (@SportsHochi) July 22, 2017
君はデザイナーになりなさい。
君はデザイナーになりなさい。
君のファッションを見ていると元気になるから、そのアイデアを皆に提供してあげなさい。
引用元:biz-journal.jp
この言葉をお守りにして
頑張った篠原ともえ
その後、そう言った吉田拓郎さんは衣装デザイナーとして篠原ともえさんを採用し、続いて松任谷由実さんの衣装も担当できるようになります。
篠原ともえさんは「芸能界を干された」というような言い方をされていますが、実際のところは、むしろ彼女自身の心の中で、芸能界の表舞台からは距離を置き、これまでずっと進みたかった「ファッションデザイナー」へ進んでいく決意をしていたというのが真実でした。
◆篠原ともえは若い頃の台湾事件後、衣装デザイナーとして、デザイン方面へ仕事をシフト画像!タダでは転ばないカッコイイ転身へ
大好きな
衣装デザインの仕事へシフト。

素敵な帽子の篠原ともえさん
篠原ともえさんがデザイナーとして活躍され、また時間を経て、日本に新しい風を吹かせてくれることになり、当時の篠原ともえさんを知る世代としてはとても元気が貰えてうれしいですね。
2019年には美大出身の旦那さんとご結婚され、益々美しさと豊かさでいっぱいの篠原ともえさん。
画像:tan-su.com
篠原ともえさんが美人になってビックリなのもさることながら、衣装も、カラーもとっても精度が上がってかわいいです。2020年には旦那さんの池澤樹氏と「STUDEO」という会社を設立し、夫婦での活動を大事にされています。
でも、すべては
ここからだった。
画像:篠原ともえ公式サイト
君はデザイナーになりなさい。
君のファッションを見ていると元気になるから。
誰かを
元気にさせたい気持ち。
それは、あの時も今も、篠原ともえさんの中で変わらない純粋な気持ちなのではないかと思います。
■篠原ともえさんと旦那さんのお話はこちら↓

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