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戸田奈津子は英会話力なかった?映画字幕翻訳と通訳とは違う!?英語力がつく勉強法と名言【昔の写真画像】

●知的/高尚 属

敗戦後、色々な意味で飢えていた日本に夢と希望を与えてくれた海外の映画。その「映画の世界が大好き」という少女のころからの気持ちだけで、あらゆる困難を乗り越え、好きなことを追いかけてきた戸田奈津子さん。

80歳を過ぎても映画字幕翻訳家として第一線で活躍されている戸田奈津子さんのキラキラした笑顔は色々な困難を自分の力で乗り越えてきた自信と悔いのない人生からのもののようです。第2弾の今回はそんな戸田さんの「好きなことを形にするヒント」からキラキラ粒子について調べていきたいと思います♪

若い頃は英会話の英語力はなかった!?字幕翻訳家への道【写真画像】

 

戸田奈津子さんが映画の字幕翻訳家になるまでにはいくつかのタイミング、転機でチャンスが訪れたようなのですが、それは戸田奈津子さんが自ら積極的に欲しいものを取りに行く覚悟で活動されていたからにほかなりませんでした。

エネルギッシュなそこまでの道のりを見てみましょう!

 

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敗戦後、色々な意味で飢えていた日本に夢と希望を与えてくれた海外の映画。その「映画の世界が大好き」という少女のころからの気持ちだけで、あらゆる困難を乗り越え、好きなことを追いかけてきた戸田奈津子さん。 80歳を過ぎても映画字幕翻訳家とし...

 

◆学生時代は外国映画の虜・アルバイトで初の通訳?

 

最初は、親から与えられう僅かなお小遣いをやり繰りして、隙さえあれば映画館に通っていたことが長い道のりの始まりのようです。戸田さんが中学に入ると英語の授業が始まり、画面のスターが話している英語の台詞に興味を持つようになったといいます。

 

 

大学は津田塾大学の英文科に進みましたが、JR中央線を通学に使っており、沿線には映画館が多かったため、同級生にに「代返」を頼んで、よく映画を観に行ったといいます。大学の4年間はこうして勉強より映画の方にのめり込んだ時期で、

実は初めて英語を喋ったのも、大学ではなかったとのことです。

 

新作の映画なんて当時の学生にとっては高嶺の花でしたから、3本や4本立てで100円とか、50円で観られる名画座によく行きましたね。

 

 

管理人kira2
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管理人は津田塾大学の近くの学校に通っており、当時歯医者さんに「津田塾の生徒は予約したらちゃんと来るけど、おまいんとこの学校の生徒は予約忘れるから絶対来いよ!!」と言われたのが今でも忘れられません(笑)。

 

 

大学のの掲示板で「バレエ学校の通訳」というアルバイトをみつけ、人生で初めて来日したニューヨーク・シティ・バレエ団の通訳をすることになったそうです。

 

ひどくたどたどしいものだったとは思いますが、英語を話すことへの恐怖心よりも、とにかく話してみたいという気持ちのほうが強かった。いまのように英会話学校が氾濫している時代と違って、ヒアリングやスピーキングが実地で体験できる機会なんてめったにないものでしたから。

 

そうした体験を踏んで、いつしか大好きな映画への憧れと英語への意欲を両方満足させられる職業として“字幕翻訳”という仕事につきたいと考えていたそうです大学卒業時には英語を使う他の職業には全く興味がなく、心に浮かんだのはそれだけだったということでした。

 

 

でもどうしたら字幕翻訳家になれるのか分からない…。

 

◆清水俊二氏との出会い「弟子にしてください!」

 

色々と悩んだ末、戸田さんは、自分が見た映画にクレジットされている翻訳家・清水俊二氏の住所を調べ、「私を弟子にしてください」と手紙を書いたのだそうです。

 

管理人kira2
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自分に出来る方法で行動あるのみ!

 

返事が来て事務所を訪ねましたが、結局その時に最後貰った言葉は「難しい世界だから、別の道を探しなさい」というものだったそうです。

 

当時、プロの字幕翻訳家は20人くらいで、食べていけるのはそのうちの10人くらい。しかも全部男性。そんなところに大学を出たばかりの女の子が入れるわけがなかった。

 

清水俊二氏からすると自分を頼ってきてくれた、志ある若い女性につらい人生を送らせるのも忍びなく、精一杯の誠意ある回答をしたつもりだったのだと思います。

 

 

結局、一旦は保険会社の秘書として働き始めた戸田さんでしたが、秘書として働きながらも翻訳家の夢を諦めないぞ!という強い意志をもって、清水先生への暑中見舞いや年賀状に「まだ字幕への夢は捨てていません」と一筆添えて送っていたといいます。

 

粘り強い交渉(笑)

 

これには清水先生もせっかく諦めさせたつもりだったのに、どうしたものかと心を使われたでしょうね(笑)。

同じ時期、戸田さんは時間や規則に縛られるのに耐えられず1年半で退職してしまったらしいです。そこからは在職中に見つけた翻訳のアルバイトを糧に、フリーになる選択をしたそうです。

 

(前文略)妥協するといつか後悔するだろうという予感がありました。それよりは、たとえ無に賭けるようなものでも、自分の選んだ道を進みたい。この世の中、飢え死にすることはないんだから、自分のやりたいことを貫こう。30歳を目前に控えた私の胸にあったのは、ただその決意だけでした。

 

字幕翻訳家を目指すべく!

 

管理人kira2
管理人kira2

嫌いなことは続きませんな(笑)

 

その頃から翻訳バイトを個人でこなしつつ、ときどき清水先生に仕事の話を伺うという歳月でした。

清水先生も根負けなさったのか、30代初めの頃に、日本ユナイト映画という会社を紹介して頂き、翻訳アルバイトをすることになりました。

アメリカ本社への手紙を翻訳したり、新作のストーリーを訳すような仕事です。でもとにかく、それが洋画界への最初の足がかりになったのです。

 

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◆突然訪れた転機・水野晴郎氏との出会い

 

そんな地道な活動を続けていたある日、転機となる出来事が起こりました。日本ユナイト映画の宣伝部長をしていた水野晴郎氏から、急遽来日が決定した海外映画プロデューサーの会見の通訳を依頼されたのです。

 

水野晴郎氏

水野晴郎氏

 

—■当時、英会話の経験はあったのですか?

 

戸田:いえ、まったく。晴天の霹靂ですよ。これまで一度も海外に行ったこともないし、英会話をする機会なんてなかったんですから。

 

でも、水野さんは「英語の翻訳ができるなら会話もできるでしょ?」の一点張り。
それに私自身、少しでも字幕の仕事につながるチャンスがあるのであれば、断るわけにはいかないと思ったんです。それで意を決して、思いもしなかった通訳の仕事に臨みました。

 

戸田さんにとってはチャンスでもあり、大きな不安を抱く依頼でもあったわけですね。仕事を広げていくチャンスをひとつでも取りこぼしたくないという、当時の戸田さんの一生懸命な心境が伝わります。

 

チャンスって、いつも快適な形では現れないんですね。

 

 

求めよ、さらば与えられん!(笑)

 

会見当日は、緊張で汗びっしょり。そりゃあ大変でした。英語はひどいものでしたが、話す内容は映画に関係したものだったし、単語から文脈や背景などを読み取りながら、なんとか乗り切ることができました。

しかし自分としては、決して合格点をつけられる出来映えではありませんでした。これでクビだと思うほどに落ち込みましたね。

でもどういうわけかクビにならず、これを機に、通訳の依頼が舞い込むようになったのです。

 

あの戸田奈津子さんでも最初は英会話や翻訳に対して緊張されたんですね!そして、地道に活動を続けていくことで自らチャンスを作り出していったようなエピソードに勇気づけられます。

 

 

求められたところに応える努力をしたことで、本当に欲しいものが後から出てくるものなのだなあ、としみじみ思ってしまいました。

 

◆夢だった字幕翻訳の初仕事で英語訳に大失敗!?

 

そして、戸田さんが大学を卒業して、ほぼ10年が経とうとしていた頃、初めて待ちに待った映画の字幕翻訳の仕事を依頼されます。

 

肝心の字幕のほうは、別の会社からフランソワ・トリュフォーの『野生の少年』の翻訳を依頼されました。これが私の初めての字幕翻訳の仕事になります。

当然のことながら、意気込んで仕事に臨み、原稿も推敲に推敲を重ねました。でも映画の完全版を初めて試写室で観たときに、愕然としました。

下手だったのです。

 

夢の映画字幕翻訳家としての仕事をスタートさせた戸田さんでしたが、ここがスタートラインで、ここから新たな課題と戦う日々が始まったのですね。

字幕はシーンごとに与えられた時間が決まっているため、その時間制限の中に物語の意味や意図が伝わるようにセリフを端的に構成するセンスがいるのだと戸田んは言います。

 

通訳や翻訳と字幕翻訳は根本的に性質が異なる

 

 

字幕はただ英文を日本語にするだけではない。画面に違和感なく調和する日本語訳が必要で、この感覚はやってみないと分からないのです。

この時点で字幕翻訳の仕事はまだまだ少なく、それだけで食べていくことはできませんでした。7年もの間、字幕の仕事は年に2〜3本ほど。食べていけず、相変わらず通訳や、映画以外の翻訳のアルバイトの仕事を続けていました。

本格的に活動に加速がかかったのは、それから約10年後の『地獄の黙示録』のときでした。

 

自分の選んだ道で生活を立てていく大変さが分かるエピソードですね。大学卒業が22歳、仕事を貰うまでに10年ですから32歳、それだけで食べて行けるようになるまでさらに10年ですから42歳。

 

明日は何とかなるかもしれない、それにすがって毎日を乗り越えていました。(中略)ときどき新しい就職とか結婚とかを勧められるのですが、右か左かを突きつけられると、やはりこっち(字幕翻訳の道)しかないのです。

 

好きでなければとても続けていくことはできないような年月です。

そこから有名なフランシス・F・コッポラ監督のガイド兼通訳という仕事を得た、戸田さん。「地獄の黙示録」の完成と公開の時期になり、映画の字幕を戸田奈津子さんにという話がきたそうです。コッポラ監督からの推薦でした。

 

 

映画の撮影中、日本をたびたび訪問していた監督をショッピングや食事へ案内するという役目をしていたのが戸田さんでした。監督の計らいで初めての海外であるアメリカのご自宅へ招かれたり、フィリピンでの撮影を見学させてもらったりもしたとのこと。

 

そこに対してコッポラ監督はチャンスをくれたのでした。いくらでも上にキャリアを積んだ翻訳家が既に日本にはいたのにもかかわらず、大きな作品を自分に任せてくれたと、戸田さんは今でもとても大きな感謝をもって語っていました。

 

「彼女は撮影現場でずっと私の話を聞いていたから、字幕をやらせてみてはどうか」

 

 

戸田さんは監督の鶴の一声だったと言っています。映画は公開と同時に大ヒットし、社会現象になるほどの話題になったそうです。この大作を手がけたことで、戸田さんはこの作品でやっと洋画業界で字幕翻訳家として認められるようになりました。字幕翻訳家をめざしてから20年が経っていたということです。

 

管理人kira2
管理人kira2

戸田奈津子さんの人間としての豊かさが引き込んだ運でもありますね。

 

英語力をつける戸田流の勉強法とは?

 

という戸田奈津子さん。なぜ海外経験ゼロ、英会話の経験ゼロで通訳の仕事ができるようになったのか?そのあたりを調べていきたいと思います。

 

学生時代の英語の勉強は?

 

 

生きた英語は、全て映画から学んだ

 

意外な情報としては、戸田さんも特に英語の授業が好きだったわけではないようなのです。

 

学校の勉強は基本的に退屈でしょう?

映画が好きだったから、「映画で耳にする英語を知りたい」というのが最大のモチベーションでした。つまり “映画あっての英語” だったのです。

学校の英語は基本的で固く、くだけた日常会話とか、流行語・若者言葉は教科書では学べません。そういうものは全部映画から学びました。

 

学校で学ぶ英語は基本的な考え方は分かるかもしれないけれど、「生きている英語ではない」「生きていない英語はそれだけでは使えない道具」ということなのかもしれませんね。

 

 

当時はビデオやDVDは存在しませんから、映画館で見るのが唯一のチャンス。今みたいに、劇場で観て面白かったから TSUTAYA でDVDをレンタルする、なんてできないですからね(笑)

若い皆さんは笑うかもしれませんが、当時は「今日のこの機会を逃したら、もう一生観ることはできない」。そういう切ない意気込みで観ていたのです。

 

ここにもあるのが、ある種の「飢え」ですね。渇望。

 

私の英語学習は「二本立て」と言うのが正しいのかもしれません。学校が教えてくれるフォーマルな英語と、映画から学ぶ生きた英語。両面で詰め込んだ英語の知識が、結果的には役に立ったんでしょうね。

 

映画を好きではなかったら、英語を勉強なかったかもしれないという戸田さんは言います。

 

英語はあくまで映画の世界に近づくための「手段」であって、それ自体が「目的」ではなかったですから。

 

戸田さんにとっては映画の世界の中に入っていって、登場人物それぞれの気持ちで物語を体感する為の手段に過ぎない英語は本質的な部分ではそこまで重要度が高いものではなかったようですね。

 

 

習得のための具体的な方法としては「書くこと!」

書いて書いて書く事をずっとやってきたという戸田さん。

 

財布をなくしても失うのはお金だけ。でも手帳にはこれまでの私のすべてが詰まっている。一生肌身離さないと決めています。

 

戸田さんの大切な歴史が刻まれた手帳、見てみたいですね。

 

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◆英語を使って仕事をしたい人たちへのメッセージ

 

現在は英語を使った仕事をしたいと考えている人が多い時代だと思いますが、彼らに向けて、戸田さんはこう伝えています。

 

 

あえてやる理由もないんだったら、英語なんてやらなくてもいいと思う

 

そうハッキリと言う戸田さん。もう少し具体的に記載している情報がありました。

 

何が目的であなたは今英語を勉強しているのか、そこを明確にしたほうがいいと思います。

英語学習は必要な人にとっては必要だけど、そういう人生を考えていないのなら、しゃかりきに英語をやる必要はないというのが私の考え方です。あくまで英語は道具(ツール)で、最終ゴールではありませんからね。

その道具(ツール)を使って何をするかが肝心で、英語が上手くなることは目的じゃないと思うんですよ。何であってもやりたいことや目的意識があるなら、それにフォーカスしてやるべきだと思います。

 

道具と目的を見間違ってはいけないことをとても強調されていますね。例えば、料理人にとってきれいに包丁を研ぐことが目的ではないでしょう?ということだと思います。それも大事だけれど、そこで終わってしまっては道具のままということですね。

 

◆奈津子の名言「やりたいことを見つけられない若者たちへ」

 

やりたいことを見つけられないという若者が多いことに戸田さんは腹を立てつつ(笑)どうすればその芽を見つけられるのかアドバイスしていました。

 

「やりたいこと」の種は、

小さい頃好きだったものの中にある

 

 

まだ幼い、保育園や幼稚園の子どもたちは自由に思い思いのやりたいこと、絵を描いたり、おままごとをしたり、鉄棒をしたり、踊ったり、歌ったりと「好きなことがない」なんて言って遊ばないなんてことはないのに、小学校中学校に入ると突然「右へならえ」の教育を施されて自分が一体何が好きだったか分からなくなってしまう、と嘆く戸田奈津子さん。

 

そんな戸田さんが面白いお話をしていました。

 

あなたの才能は、

親が心配するようなところにあるかもしれない

 

『マスク』という映画で大ヒットしたジム・キャリーという俳優がいます。彼は表情筋が優れていて、驚くほどいろいろな表情ができる俳優さんです。

「どうしてそんなことができるの?」と尋ねたら、「子どもの頃から外で遊ばないで、時間があったら鏡の前で百面相を作っていた」って言うんですよ。

親御さんが心配して、散々「やめろ」と教育してもやり続けたそう。そのうちに親御さんも諦めて、放っておいたんですって。そのまま表情づくりに情熱を燃やし、結局は彼はハリウッドのトップスターになったのですよ。

 

とても勇気づけられるメッセージだと思ったので、ご紹介しました。戸田さんはつらい時に頑張れたのも、可能性が低くてもしがみついていられた事についても戸田さんがそれだけ映画が好きだったから!とすべての理由が自分の中のそうしたエネルギーのおかげだと言っています。

 

 

「もっと別な生き方があったんじゃないか」と、後悔の気持ちを抱いたことは1度もありません。なぜなら、「好きなことをやる」ことが、私の求めるいちばんの幸せだったからです

 

自分の意思で選んだことなら、人間は後悔をすることはないということですね。

 

管理人kira2
管理人kira2

なりたいものになる!というのは困難なことが多いようですが好きを形にするには??のエッセンスが詰まったお話が多かったですね♪

 

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