中山恭子の若い頃ウズベキスタン大使時代の人質事件解放実現の人間力

◆社会

2019年、これまで50年余り日本の為に働いてこられたとても偉大な日本女性が現役を引退されました。元拉致問題担当補佐官としての活躍において注目された中山恭子さんです。

中山恭子さんは若い頃ウズベキスタン大使として赴任された直後にキルギスで起きた日本人の拉致誘拐人質事件を自ら交渉の場に赴き、無傷で被害者4名を解放させた女性です。また、2002年の北朝鮮拉致被害者帰国者5名の運命も動かした立役者でもあります。

今回は中山恭子さんのウズベキスタンでの活躍、キルギス人質誘拐事件について、それらを実現させた中山恭子さんの人間力と芯からの強さ、美しさについて調べました。

◆元拉致問題担当補佐官・中山恭子さんが2019年参議院議員不出馬で政界引退宣言を自身のフェイスブックで。読売新聞に「心残りは拉致問題」と報道 画像

2019年4月、中山恭子参議院議員は自身の公式フェイスブックにおいて、政界を引退する意向を表明し、夏の参議院選には立候補しないということを発表しました。2007年(年齢67歳)に自民党から初当選し、涼しげな顔の中に熱い闘志を持って拉致問題に当たっていた姿が印象的でした。

 

   
画像:youtube

 

「心残りは拉致問題。被害者を取り戻せていない。」
引用元:讀賣新聞

 

これが中山恭子さんの引退表明における最後の心残りでした。多くの課題を達成し功績を残してきた中山恭子さんが79歳になるこの年までずっとここまで走り続けてきた理由は、他でもなく拉致問題の解決と被害者の救出、帰国を実現させる為だったのでしょう。

 

拉致問題を解決しない限り
本当の意味で主権国家とは言えない。

 


画像:JIJI.COM

 

政界へ進出されてからは様々な問題や不祥事も勃発し、政党も転々とする中で中山恭子さんという人物像が色々な形で歪曲されてしまった印象が否めないのですが、今回は原点となる中山恭子さんの若い頃の輝かしき伝説にスポットを当てていきたいと思います。

 

何しろ美しく、カッコいい!!

 

そこには中山恭子さんというカッコイイひとりの女性の生きざまが今もなお生きており、現在の私たちにもその「生き方」「美しさ」について熱く問いかけ、託された次の時代を国民がひとりひとり誇りをもって生きていけるようエネルギッシュに活動されてきたのが分かります。

 

こんなカッコイイ日本人女性がいたなんて!

 

色々と政党間の考え方の違いや政治家として一部問題なども挙がることもあったのだとは思いますが、個人的に国内の政党間の争いにはそこまで胸アツになる事柄は私にはないので、今回は中山恭子さんという日本人女性の人間性、志を中心に調べていきたいと思います。

 

 

◆中山恭子さんの若い頃からの活躍経歴とプロフィールがスゴイ!父親は逓信省勤務だった。美人で優秀なのに人の心を惹きつける魅力があるという偉人伝逸話 画像

中山恭子さんという女性はもともと大変優秀な女性で、最初からエリート中のエリートとしての人生を歩んでいきます。まずはざっとその物凄いプロフィールを追っていきたいと思います。

 


画像:日本に生まれることの幸運

 

北海道の大雪山のふもとにある東川町出身の両親のもと、中山恭子さんは1940年に現在の東京都渋谷区で誕生しますが、幼少期は父親の地元である北海道の小学校に通っています。中山恭子さんは戦争の影響で1年生のころから北海道へ疎開していたようです。

 

マイナス34度の世界(笑)

 

 

しかし、中山恭子さんにとっては北海道の極寒の生活の体験はとても素晴らしいものだったようです。

 

お陰さまでそれは本当に宝物みたいな5年間で。一歩家から出ると空気がまるで凍った、鈴のようなリーンと張ったような空気でこれほどキレイな場所はありません、自分の人生の中でですけど。

引用元:http://sakurajimaoyuwari.hatenablog.com/entry/2016/10/02/100050

 

この幼少期の疎開生活や美しくも厳しい風土が中山恭子さんの芯からの強さと美しさにつながったのかもしれません。

 


画像:youtube

 

中山恭子さんの経歴(前半)>

●1940年1月、東京府で誕生。
●東京大学文学部仏文学科出身。

●1966年(年齢26歳)大蔵省(現財務省)入省。
●1975年(年齢35歳)国際通貨基金 (IMF) 派遣職員に就任。
●1985年(年齢45歳)大蔵省大臣官房調査企画課、大臣官房企画官に就任。
●1987年(年齢47歳)東京税関成田税関支署長に就任。
●1989年(年齢49歳)理財局国有財産第二課長に就任。
●1991年(年齢51歳)四国財務局長に就任
●1993年(年齢53歳)大臣官房参事官大臣官房審議官を最後に退官
※大蔵省に在職中に、女性として初めて税関支署長、本省課長、財務局長、審議官を務めた

 
 
上の経歴には記載していませんが、元々、大学を出た後に外交官として働きたい!と考え、外務省に勤務していたという中山恭子さんでしたが、この時代、「女性は外交官になれない」ということが分かり、改めて東京大学法学部へ学士入学し、国家公務員採用上級甲種試験(経済職)に合格、その後大蔵省へ入省されたのだそうです。
 
 

大前提で、かなり美人!

 

◆中山恭子さんは若い頃から人間力で信頼を得て力を借りられる天才!おしどり夫婦として有名な旦那・中山成彬氏とも大蔵省時代が馴れ初め!組織運営の達人の秘訣は?画像

この時代、やはり大蔵省でも、女性が国家公務員上級職として入省すること自体、大変珍しくまさに男性の社会で紅一点の中山恭子さんだったようです。しかも大変な美人であり、ということで、中山恭子さんに憧れる男性も多かったようです。大蔵省入省時の同期にはのちに中山恭子さんの夫となる中山成彬氏もいました。

 

 

なかなか初々しい!

 

◆(余談)ちなみに中山恭子さんと中山成彬氏の息子は中山隆介氏で全員東大卒のエリート!

中山恭子さんと中山成彬氏の息子である中山隆介氏は筑波大学附属中学校、高校を出て、両親同様に東京大学法学部を卒業後、財務省へ勤務されていたという話でしたが、2019年6月の段階では東京国税局の総務部長をされていたようです。

 

しかし、6月末に東京国税局の幹部職員4人が国税OBである税理士から現金計12万円を受け取った事件が発覚し戒告の懲戒処分となった際の会見対応の直後に、おそらくは宮内庁へ移動されたようです。

 

同姓同名かもしれませんが、中山隆介氏のお名前と、宮内庁長官官房 主計課長という記載がありました。今後どのようなご活躍となるのか楽しみなところです。

 

話はもどって、

若い頃の中山恭子先生は
事務所の高根の花だったらしい!

 

とにかく若き日の成彬先生は、美人の恭子先生が気になって仕方がないけど、口もきけない。
恭子先生は恭子先生で、同じ同期でありながら、他の男性たちのようなエリートらしい洗練された雰囲気をまるで持たない

引用元:日本に生まれることの幸運

 
 
この、「(美人で優秀なのにもかかわらず)エリートらしい洗練された雰囲気をもたない」というのが中山恭子さんという特別な女性の能力を最大にした人生のキーワードとなりそうです。簡単にいうと…
 
美人で優秀なのに、それを鼻にかけず感じのいい人!
 
というところでしょうか??
 

画像:日本に生まれることの幸運
 
中山恭子さんの税務署長時代のお話からも、当時の任地先地域の方々や当時の部下から厚い信頼を得て、それからもずっと慕われていたようです。
 
これは本当に、慕われていて、特に元部下だったある方は、
「はじめは女性が署長にやってくると聞いて、前例もなくて驚いたのですが、実際に赴任してこられたその瞬間から、もう命がけでこの人を支えていこうという気になってしまいました。在任中はとにかく仕事がおもしくて仕方がなかったです」とお話されていました。

引用元:https://ameblo.jp/haguregumo007/entry-12069231284.html

 
中山恭子さんが就任した時代を想像すると、現代よりも完全な『男社会』であったはずのその世界で、自分の上司が前例のない「女性」、そして当たり前ですが就任後は「何も分からないところからスタート」ということになり、やり方を間違えれば常よりも大きな混乱を招くリスクが発生する可能性のある人事のはずです。
 
 
が上に立って
組織を機能させるのは結構難しい。
 
 
このような混乱は現代に至るまでにも多く発生しており、例えば、田中真紀子さんなどは外務省を「伏魔殿」と呼んで、外務省改革を単独で(?)推し進め、外務省とも事務方とも完全に対立し、結局自分が外務大臣更迭されて終わってしまいました。
 
大物政治家の娘
だからと言ってうまくいくとは限らない。
 

画像:https://cou001.com/2018/12/19/tanakamakiko/
 
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個人的にはキャラクター性は好きです。

 
また、美人で花形ニュースキャスターでもあった小池百合子さんに至っても防衛大臣時代には事務次官を「オンナの直感」で退任させ、結局その事務次官が証人喚問の後に逮捕されたことで事なきを得たようにも見えますが、都知事になってからもなかなか敵が多いなという印象は否めません。
 
 
美人だから
と言ってうまくいくとは限らない。
 

画像:iza
 

 

一方、中山恭子さんの当時の部下がのちに話されているのはこんな感想です。こんな言葉を当時の部下から聞けるというのはよほどの信頼関係だったと言えそうです。
 
 
在任中はとにかく仕事がおもしくて仕方がなかった。」
 
この言葉には中山恭子さんという上司への尊敬の気持ちと共に、自分の個性や能力を十分に引き出し、活躍させてもらった、さらに自分の活躍を評価し、自分の判断や仕事を信じて任せてもらえたという感謝の意味も含まれている印象です。
 

画像:https://yutakarlson.blogspot.com/2015/11/blog-post_5.html
 
周りをやる気にさせる天才!
 
そうした有意義な働き方をできたという実感と幸福感に満ちた感想を自分の部下に感じさせることができるという、その人間性はタダモノではない中山恭子さんの最大の武器であり、魅力だったと言えそうです。
 
そうして、次々に中山恭子さんの活躍ぶりは評価され、そのたびに中山恭子さんが任される役割は大きなものになっていったようです。
 
 
中山恭子さんの経歴(後半)>
 
●1993年(年齢53歳)国際交流基金常務理事就任
●1999年7月(年齢59歳)駐ウズベキスタン特命全権大使駐タジキスタン大使に就任。
1999年8月(年齢59歳)キルギス日本人誘拐事件が発生、人質解放に成功。
●2002年(年齢62歳)退官
●2002年(年齢62歳)内閣官房参与に就任。(拉致被害者家族担当)拉致被害者5人を出迎えた。
●2004年(年齢64歳)内閣参謀参与辞任
●2005年(年齢65歳)国連改革欧州諸国担当大使就任、辞任
●2006年(年齢66歳)内閣総理大臣補佐官就任(拉致問題担当)

●2007年(年齢67歳)参議院議員初当選。第1次安倍改造内閣で留任。福田内閣でも内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。

●2008年(年齢68歳)福田康夫改造内閣にて、内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)として初入閣。さらに、特命事項として拉致問題担当と公文書管理担当が発令され、国務大臣として同時に兼任。

●2008年(年齢68歳)麻生内閣発足、拉致問題担当の国務大臣に中山恭子を任命しなかったことに対して総理大臣官邸に批判が殺到したため中山恭子内閣総理大臣補佐官(北朝鮮による拉致問題担当)に再任。

参考:Wikipedia

 
イチ一般庶民の私などからすると、中山恭子さんのご活躍の経歴はもう同じ日本人女性とは思えないような輝かしい経歴です。
 
 
他の女性官僚と大きく異なるのは、赴任したすべてのセクションにおいて、いまだに中山恭子先生のおいでになった時代が、最高の仕事ができた、最高に楽しかった、最高の時代だったと懐かしがられている点です。

引用元:https://ameblo.jp/fantastic-future/entry-11547443322.html

 
縁があって関わった皆を中山恭子さんの力になりたいという気持ちにさせてしまう人間的魅力、人柄がつまったエピソードでいっぱいです。

 

◆中山恭子は若い頃ウズベキスタン、タジキスタンに大使として赴任。『おしん』と共に心を掴んだ日本人女性 画像

今回ご紹介したい中山恭子さんの最も勇敢なご活躍は、1998年8月に着任したウズベキスタン大使(駐ウズベキスタン特命全権大使駐タジキスタン大使)としての時代のお話です。

 


画像:中山恭子公式ホームページ

 

現在でもウズベキスタンは大変親日感情の厚い国家のひとつと言われていますが、その理由として言われていることは大きく3つあるようです。

 

①ウズベキスタンでも放送されたドラマ『おしん』の主人公のけなげな姿がとても共感を得たこと。

 


画像:おしんキャスト

 

第二次大戦時1945-46年にかけて極東からにウズベキスタン(当時はソ連の一部)へ抑留され、強制労働に従事した日本人が大変勤勉で礼儀正しく、人間性が評価されていたこと。出来上がった道路、運河の出来が素晴らしく、Navoi Opera Theater (ナヴォイ劇場)が大変美しく立派な劇場として現在も残っている事が評価されていること。

 


画像:https://ameblo.jp/shounantk/entry-12175447643.html

 

ウズベキスタンには日本人の当時の勤勉さ、律義さを見習って大きくなりなさいと言われて育った子供たちがどこの地域にもたくさんいるのだそうです。

 


画像:https://ameblo.jp/shounantk/entry-12175447643.html

 

抑留されても尊厳を失わない
日本人がウズベキスタンで多くのものを残していた。

 

日本人として
恥ずかしくないものをつくろう。

 

サマルカンドのレギスタン広場

サマルカンドのレギスタン広場

画像:名大ウォッチ

 

そして、3つ目が中山恭子さんがウズベキスタン大使時代に残した功績だと言われています。

 

◆中山恭子さんが元拉致問題担当補佐官に選ばれたきっかけとなる若い頃のウズベキスタン大使着任直後のキルギス日本人質拉致事件解決の伝説 画像

中山恭子さんというと、北朝鮮との拉致問題に尽力を尽くした女性として有名ですが、その活躍の前提となる出来事がウズベキスタン大使時代にありました。大変なご活躍をされています。

 


画像:中山恭子公式ホームページ

 

キルギス日本人誘拐拉致事件を解決!

 

1999年7月に中山恭子さんは国際交流基金常務理事を経て、駐ウズベキスタン特命全権大使駐タジキスタン大使に就任します。その就任直後の8月にはなんとキルギス日本人誘拐事件が発生してしまうのです。

 

なんと
事件が発生したのは
ウズベキスタン着任の翌月!

 

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まだ中山恭子さんが現地生活にもにも馴れない時期に起こった事件だったわけです。

 

◆中山恭子さんがウズベキスタン赴任直後に直面したキルギス日本人誘拐事件とは?画像

中山恭子さんがウズベキスタン着任直後に直面した「キルギス日本人誘拐拉致事件」とは、まだその当時名前も知られていなかったタリバンの武装組織の一味によってその名の通り、日本人が誘拐され、人質として拉致された事件です。

 


画像:http://nakayamakyoko.net/modules/bulletin/

 

日本人鉱山技師4名が
ウズベキスタンの反政府武装ゲリラ、
つまりその後のアルカイダに通じる
イスラム教原理主義のゲリラに拘束される事態に。

(のちに「タリバン」と呼ばれることになった過激派の一派)

 

隣国であるキルギスの南西部オシェ州において、日本人鉱山技師4人を含む7人がIMU(ウズベキスタン・イスラム運動)と見られるウズベキスタン反政府武装グループに拉致される。

引用元:Wikipedia

 

日本人鉱山技師4人はウズベキスタンの国境を越え、
隣国のタジキスタンの山中へ連行されてしまっていました。
しかし、隣国タジキスタンも中山恭子さんの兼務国でもありました。

 

現地は4000メートル級の山岳地帯。

 

この大事件において、中山恭子さんは救出劇の先頭に立ちます。しかしここで、日本にいる政府は対策本部は立ち上げたものの、中山恭子さんが指示を仰ぐと外務省を通じて「キルギス政府に交渉を一任せよ。」中山恭子さんに通達してきます。

 


画像:白鳥正夫の関西ぶんか考

 

日本人鉱山技師4名はキルギス国内での作業中に拉致をされたため、キルギス政府に一任するべきという指示です。しかし、犯人グループも日本人4名も既にキルギス共和国の国外、また、ウズベキスタンにとっても外国であるタジキスタンへ行っているのです。どちらの国も任されたところで動きようがないのは明白でした。

 

◆中山恭子さんは日本政府、外務省からの通達に背き拘束された日本人4名の命を救うために最前線で命を懸けて闘った女性!画像

一方、なかなか事態が進まない状況に武装ゲリラも苛立ち、こう言いだしてきます。

 

「日本政府が交渉において正面に出てこなければ、明日から人質を一人ずつ殺す。」

 

画像:中山恭子公式ホームページ

 

このまま
キルギス政府と外務省に
歩幅を合わせていたら、
手遅れになってしまう。

 

そう判断した中山恭子さんは、ウズベキスタン大使館のスタッフと策を練り、別ルートで当時ゲリラとの直接接触にこぎつけます。中山恭子さんも犯人側へ直接交渉をしに出向くことになったのです。

 

最大の成功ポイントだった直接交渉ルートも中山恭子さんに力を貸してくれた大使館員から実現したものでした。

 

当時、在パキスタン日本大使館専門調査員として2年間勤務し、国連アフガニスタン特別ミッションの政務官としてアフガニスタンに常駐した経験もある高橋博史さん(ウズベキスタン大使館員)等がいたため、武装勢力側や影響力の高い部族長との直接交渉ルートを開拓することができていたのです。

引用元:松田公太ブログ

 

そして、
なんと単身でかつかつ前へ。
((;゚Д゚)))ガクブル。

 


画像:youtube

 

つまり、この決断の段階で、中山恭子さんはまさに日本政府からの指令に背こうとしている状況でした。

 

当時、日本政府は、海外で起きた邦人の事件に関しては、すべて相手の国に任せる、という方針でした。でも、それではどうにもならない、自分は大蔵省出身で、外務省本省の命令通り動かなくては・・というしがらみはなく、とにかく助けなくては、と行動しました。

引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/komamenohagisiri/diary/201410120000/

 

役人である中山恭子さんが国の命令に背き、自分自身の中にある「正義」だけを信じて、拘束されていた4人の日本人の命を救うため行った行動でした。失敗すれば(もしくは失敗しなくても)、これまでの人生のキャリアも実績も棒に振ることになるような決断です。

 

 

◆中山恭子さんはイスラム教原理主義ゲリラの司令官ヌルに日本人の救出の為直談判をしに自ら命がけで赴く勇敢さ!最後の勇気をくれたのは夫・中山成彬の力?画像

そういうわけで中山恭子さんは日本人4名の解放を直談判するため、自ら大使として赴くことを決意します。そして、その前には当時宮崎に居た夫である中山成彬さんへ連絡を入れていたようです。

 


画像:youtube

 

おそらく、今後どうするかは既にはっきりと決まっていた(と思われる)中山恭子さんでしたが、あまりにも背負うものが大きなものだっただけに、最後に最も信頼する夫・中山成彬さんの意見を確認したかったのではないかと感じます。

 

日本にいる夫に意見を仰ぐ。

 

「外務省は事件の起ったキルギス政府に任せたからウズベキスタン大使館は動くなというが、犯人達は日本政府が交渉の正面に出てこなければ、明日から一人ずつ撃ち殺すといっている、どうしたらいいだろうか。」

引用元:中山成彬公式ブログ

 

当時日本に居て、そんな事件が起こっている事すら知らなかった中山恭子さんの夫の中山成彬さんでしたが当時の事を振り返り、当時の様子をこのように語っていました。

 


画像:https://tanosimi2016.net/2017/09/25/post-3276/

 

日頃は沈着冷静な恭子の声が心なしか上ずって聞こえ、事態の緊迫感が伝わってきた。とっさの事だったが、

「在外邦人の生命を守るのは第一に現地の大使の責任だろう、外務本省が何と言おうと、1%の可能性でもある限り最大限の努力をすべきだろう」と答えたが、心底心配だった。

引用元:中山成彬公式ブログ

 

外務本省が何と言おうと
1%の可能性でもある限り
最大限の努力をすべき。

 

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中山恭子さんは政治家である夫も、政治家であるにもかかわらず全く自分と同じ意見だったことにとても愛情と勇気を貰ったに違いありません。

 

今から、
ヌルという司令官のところへ直談判へ行く。

 

ここは私の勝手な想像ですが、これが夫との最後の会話になるかもしれないという覚悟も当時の中山恭子さんの中には電話を掛けた時点であったのではないでしょうか。

 

「最後」ですから、現状、政府からの命令に背こうとしているということも話されていたようです。また、妻として夫である中山成彬さんへは私の行動のせいで将来的にあなたにも迷惑をかけるかもしれないという謝罪の意味もあったのかもしれません。すでにこの時、中山成彬さんは政治家としての道を歩みだしていました。

 


画像:exciteニュース

 

しかし、その夫も全く自分と同意見だったこと、それが何よりもうれしく、この危機に際して大きな勇気を貰ったに違いありません。

 

どうなったとしても
夫だけは私の事を信じていてくれるはずだ。

 


画像:youtube

 

その後の中山成彬さんの話では、中山恭子さんは山を登り、洞窟のような場所を上がってヌルという司令官のところまで会いに行ったのだそうです。

 

おそらくは、その後の拘束拉致事件ニュースでが起こった際にも見かけていたような、髭顏に大きな銃を構えた厳つい男たちが何百人もいる中を、54歳の日本人女性である中山恭子さんがそよそよと自らの足で歩いて司令官の元まで行ったのです。

 

 

中山恭子さんのお話される姿を「鈴の音のような声」と表現されている方がいましたが、まさに涼しげで女性らしいとても清らかで控えめな印象の女性です。女優さんで言うと吉永小百合さんのような気品ある淑女です。

 

そんな淑女が、
銃を構える何百人ものゲリラ部隊の中を
ひとり飄々と直談判のため本拠地へ乗り込むなんて!武器も護衛もいません。

 

まさに
中山恭子さんこそ
勇敢を通り越して過激すぎ!

 


画像:youtube

 

よほどの覚悟です。

 

そうして、日本政府を代表して、大使である中山恭子さん自ら交渉に出向き、武装反政府ゲリラの本拠地にいる司令官と話し合い、筋道を立てて説得。拉致された全員を無傷で解放させることに成功したのでした。(※女性通訳の方が同行し、道案内の男性は途中で怖くなって去ったらしいです。)

 

危険を顧みずに、武器も護衛も持たない日本人女性がたった一人で自分と話すために赴いた姿に、ゲリラの司令官も敵味方の目線ではなく、人間同士で話をしに来ている強い気持ちと姿勢、礼儀中山恭子さんから感じ取ったのだと思います。

 

女性たった一人で乗り込み、最高の結果へ導いた!

 


画像:youtube

 

常識的に考えたならば、価値観も言語も文化も違う相手に対して、なかなかできることではありません。しかし、中山恭子さんの中には日本人を拘束している武装ゲリラ集団に対しても、きちんと礼儀を果たせば理解してもらえるかもしれないというわずかな希望とそれにかけるしか道はないという強い気持ちがあったに違いありません。

 

相手に「怒りがある」ということは
「心がある」ということ。

心があるなら、
人間同士の普遍的な気持ちに対する共感は得られるはず。

 

そういった気持なのでしょうか??この件だけでなく、中山恭子さんのお話の中にはしばしば「共生」という言葉が出てきます。中山恭子さんにとってとても大事にされている言葉のように思えます。

 

共に生きる。

 

一人でタリバンの司令官と対峙した中山大使だったが、話のきっかけは恭子が国際交流基金の時作製して世界中に配ったあのNHKの朝のドラマ「おしん」のCDだったというから面白い。司令官がアフガニスタンで戦っていた頃に見たという。

引用元:中山成彬公式ブログ

 

ヌル司令官も
『おしん』見ていた!

 


画像:NHK

 

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そして、あいさつ代わりに『おしん』を振るスゴイ機転!

 

どんな困難にも立ち上がり、果敢に戦い続けるドラマ内のおしんは、何百人の武装ゲリラに銃を構えられる中、武器も護衛も持たず女性だけで現れた中山恭子さんの姿と重なって映ったに違いありません。

 

中山恭子さんの類まれなる人間力は、国内に限ったことではなく、人間と人間の普遍的なつながりに基づいた信頼関係をつくることができる能力だったようです。

 


画像:youtube

 

鈴の音のような声で
共感を引き出し、交渉。

拉致された日本人4名
全員を無傷で解放させることに成功!

 

中山恭子さんの願いを聞き入れ解放することを承諾した司令官は、帰りには「護衛」をつけて解放した人質と共に市街地へ送り届けてくれたというエピソードまでありました。

 

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送ってくれた(驚)!

 

 

◆中山恭子さんのキルギス拉致誘拐人質事件に関するインタビューで分かる当時の心境とその後の国家としての効果

その後の中山恭子さんのインタビューにこんなものがあります。

 


画像:救う会・福岡

 

「もし先生が、外務省の訓電通り、キルギス政府に人質総て任せていたら人質はどうなりましたか」
 答え、「全員殺されてました」

「もし先生が、過激派の頭目に会って、要求が聞き入れられずに会見が物別れになったら、どうなってました。」
 答え、「私、殺されてました」

引用元:西村眞悟ブログ

 

中山恭子さんは自分の命をかけて、自国民の命を救いに行った前代未聞の偉人伝をつくった女性です。また、救出までの2か月の間に、中山恭子さんと共に働く少数の大使館員は昼夜問わず情報収集やお願いに奔走し、単身で最前線の救出にあたる中山恭子さんの話に共感したウズベキスタンのカリモフ大統領がタジキスタン政府に強く掛け合ってくれたというようないきさつもあったようです。

 

国家として
国民を全力で守る姿勢も
見せることになった。

 

このことは、その後世界から見た日本という国家の信用や評価にとっても大変重要なことになったようでした。中山恭子さんを取り巻く一人一人が全力で力を合わせた結果、獲得した功績でした。

 


画像:youtube

 

人間として
誇りをもって生きる姿を
自ら魅せる。

 

中山恭子さんの偉業を役人にもかかわらず「辞表を懐にしまって」の救出劇と表現されているサイトもありましたが、辞表どころか、命がけでした。中山恭子さんも力を貸してくれた周りの人々も、自分の首からぶら下がっている札などよりも数段崇高な職務を果たす気概のある人々だったように思います。

 

こういう言い方は良くないかもしれませんが、力を貸してくれた方々も皆役人ですから、安定した生活が営める椅子を確保している人々です。彼らからその長年かけて手に入れた椅子を一瞬で失わせてしまうかもしれないリスクを孕んでいたプランであり、そのリスクを負ってでも全力で中山恭子さんへ力を貸してくれたということ自体がすごいことだなと感じます。

 

カッコいい人間に
人は動かされる!

 

◆中山恭子さんがウズベキスタン大使館チームと共にイスラム教原理主義ゲリラから日本人4名の救出した後の日本政府の対応 画像

さて、無事、拉致された日本人4名を開放してもらうことに成功した中山恭子さんでしたが、すでに、ここまでには2か月もの時間がかかり、拉致されていた被害者4名も中山恭子さんをはじめとした数少ないウズベキスタンの大使館チームも疲労困憊の状況でした。

 

1999年10月25日 キルギス軍用空港に到着した4名

1999年10月25日 キルギス軍用空港に到着した4名

画像:朝日新聞

 

一刻も早く休ませてあげたい。

 

しかし、そこから日本政府がさらに指示したことは「キルギスで解放されたことにするため」のものでした。死と隣り合わせの緊張の中長い時間拘束されてきた人質4名を解放された後も歩かせ、ヘリコプター、飛行機に乗せてキルギスまで運び、キルギス国内で釈放されたように取り繕う工作を指示したのでした。

 

偏狭な官僚組織の
くだらない建前工作

 

その当時のお話を、中山恭子さんの夫である中山成彬氏はこのように語っていました。

 

人の命や健康よりも最後まで面子にこだわる外務官僚の体質に愕然とした思いが今も残る。

引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/komamenohagisiri/diary/201410120000/

 

こうした人々に囲まれて働いていたら、たとえ志のある人がいたとしても、皆足並みを揃えないとうまく生きていけない状況となってしまうのでしょう。

 

そうした世界が多かったことから、中山恭子さんがトップとして開いた世界が一層周りにとっては清々しく豊かな時間だったと口をそろえて言うのかもしれません。

 

その後、中山恭子さんは2002年までウズベキスタンの地で大使として活躍されています。

 

◆中山恭子さんの著作『ウズベキスタンの桜』に日本人拉致事件の解放救出劇のお話、日本人墓地の話、桜の話その後の3年間の滞在記録!評判が抜群 画像

中山恭子さんが着任直後に直面した日本人拉致事件については著作『ウズベキスタンの桜』にも詳しく書かれているようです。中山恭子さんがウズベキスタン大使として、大使館員達と戦った64日間の記録が残されています。

 


画像:紀伊国屋

 

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思わず注文してしまいました(笑)

 

●カリモフ大統領のエピソードがいくつも出てくるが、他のメディアで予習していた時には、世界的に上位にランクインする独裁者だと紹介されていた。でも中山さんの話に出てくるカリモフ大統領はそんな風ではない。

●おしとやかで温和な著者がどのようにして拉致被害者を取り戻したのか興味深かったが、人を惹き付ける人柄と芯の強さが凄まじかったのだろうと感じた。ウズベキスタンが日本と関係が深かったのもこの本で初めて知った。

筆者の知性と品位が伝わる文章。日本人墓地の話も勉強になりました。大使の人柄や力量で、その国との関係が左右されるのだなと思いました。

抜粋:読書メーター

 

美しい女性のエッセンスが
たくさん詰まっている本でした。

 


画像:youtube

 

中山恭子さんが見た、
ウズベキスタンの土地
人々の美しさもたくさん詰まっています。

 

●ナヴォイ劇場や日本人墓地に関連してウズベキスタン国民の抑留日本人のに対する敬意を感じられるようなエピソードがいくつかあり、日本との意外なつながりを知ることができる興味深い内容でした。

●文中ウズベク人について「品格のある人々」と述べておられましたが、中山恭子氏こそまさに品格のある方と感じました。 読んで良かったと心から思える本。

●人質救出や日本人墓地の整備にあたって、ウズベキスタンの人たちが見返りを求めずに協力してくれているというエピソードがよかった。遠慮がちだったり日本人気質に似ているところがあるというウズベキスタンの人たちに会ってみたくなり、ふんだんに使われている青い空に映える青い石で覆われたモスクを観に、ウズベキスタンを訪れてみたいと思った。

抜粋:読書メーター

 

中山恭子さんは強制労働に従事させられた日本人の墓地をきちんと整備することウズベキスタンの政府にお願いし、見事実現しました。整備前の墓地は盛土が続いているだけの枯れ野原で墓石もなく、捕虜の番号と思われる記号と6桁の数字だけが、はがき大の小さな鉄板に彫ってあるだけだったそうです。

 

 

しかし、ウズベキスタンの人々はこれらのお墓も掃除をしたり献花したりと大切に守っていてくれたそうです。整備に際しても多くのウズベキスタンのボランティアが手伝ってくれたために1年ほどで813人分すべての墓地が整備できたと言われています。

 

そこにはウズベキスタンの人々が日本人の強制労働従事者達に対して特別な想いと感謝の気持ちを持っていてくれたことも大きかったようです。多くのウズベキスタン人の方々が、日本人強制労働者について大切な友達という気持ちで思いを寄せていてくれた中山恭子さんは語っています。

 


画像:ウズベクフレンズ

 

中山恭子さんが整備される前のお墓を訪ねた後に日本人の事をよく覚えているという老人の元を尋ねると、老人はこんなお話をしてくれたそうです。

 

「お墓をお参りしてくれたのか。あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」とお礼を言った。

引用元:ライブドアニュース

 


画像:https://sp.nicovideo.jp/watch/sm29750573

 

ウズベキスタン政府からもこんな回答があったようです。

 

ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取り掛かります。

引用元:ライブドアニュース

 

そして、中山恭子さんは、強制労働に従事した日本人が20代~30代の若者だったという事と母国への気持ちをずっと持ちながら、日本の地を踏むことなく亡くなった人々の思いを想い、墓地へ桜を植えさせてもらえないかという提案もされたようです。

 


画像:ライブドアニュース

 

桜を植える話は
ウズベキスタンの国家的大事業に拡大!

 

ウズベキスタン側からも、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。

引用元:ライブドアニュース

 

ウズベキスタンの各地に
日本の桜が植えられることに!

 


画像:https://ameblo.jp/shounantk/entry-12175447643.html

 

日本人墓地のみならず、タシケント市の中央公園や続く大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場など、なんと合計1,300本もの桜の苗木を植える大プロジェクトとなったそうです。

 


画像:https://ameblo.jp/shounantk/entry-12175447643.html

 

さらに、現在のナヴォイ劇場には建設完成当時にはなかった日本人強制労働者の功績をたたえたプレートが設置されているそうです。1996年にナヴォイ劇場の壁面に遺された証です。

 

 

日本語でも読めるようにプレートは言葉を刻まれています。

 

1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、この劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。

 

先ほど、中山恭子さんの著作本の感想にもありましたが、世界的に上位にランクインする独裁者だと紹介されているというウズベキスタン初代大統領カリモフ氏がこのプレートの設置を指示したそうです。

 

そこにはもう一つ素敵なお話があり、原語を日本人翻訳者の菅野怜子さんが日本語に翻訳した際、「日本人捕虜」と訳した言葉に対して、カリモフ大統領の意向から修正依頼があり、「強制的に移送された日本国民」という言葉へ変更されたそうです。

 


画像:https://ameblo.jp/shounantk/entry-12175447643.html

 

「彼らは恩人だ。間違っても「捕虜」などと書くな。」

 

そこからも、カリモフ大統領との信頼関係は、中山恭子さんがウズベキスタン大使を終えた後にも長く続き、毎年1度は必ず中山恭子さんはウズベキスタンを訪ねていたそうです。

 

鈴の音交渉で、
中山恭子さんは異文化の人々の心を掴みます。

 

中山恭子さんのこれまでの成果を見ると、人の心や信頼を掴むために必要なものはや荒々しく威嚇する暴言でも、挑発でもなく中山恭子さんのように美しい言葉をゆっくり話していても、その強さというものは伝わるのだということが分かります。

 

 

◆中山恭子さんウズベキスタンから帰国後に北朝鮮の日本人拉致問題において致被害者家族担当の内閣官房参与に就任 画像

ウズベキスタンの大使を退任した直後、2002年9月には中山恭子さんは今度は北朝鮮の拉致被害者の家族担当の内閣官房参与に就任します。

 


画像:youtube

 

中山恭子さんはウズベキスタン大使時代に起きた日本人拉致誘拐人質事件を無傷での人質解放まで導いたことで、当時状況が動きそうな北朝鮮の拉致問題についても力を貸して欲しいと福田官房長官から懇願されたという事です。

 


画像:朝日新聞

 

武勇伝を買われ新たな大役!

 

「ギクシャクしている外務省と拉致被害者家族との中に入って融和を図って欲しい

引用元:https://plaza.rakuten.co.jp/komamenohagisiri/diary/201410120000/

 

外務省と被害者家族の懸け橋となることを託された!

 

◆2002年 中山恭子さん「北朝鮮拉致問題」家族担当の内閣官房参与就任!直後に拉致被害者5名が日本へ帰国 画像

中山恭子さんという方は移動直後に大きな局面にあたることが多い運命なのか?北朝鮮の拉致被害者家族担当の内閣官房参与に就任した翌月である2009年10月15日、北朝鮮から拉致被害者である5名(地村保志さん夫妻・蓮池薫さん夫妻・曽我ひとみさん)が帰国します。

 

画像:https://ameblo.jp/fantastic-future/entry-11547443322.html

 

しかし、外務省は、
拉致被害者5名を全員
1.2週間で北朝鮮に送り帰す密約を取り交わしていた!

 


画像:産経ニュース

 

この国家としてとても大事な局面においても、
中山恭子さんが絶大な人間力と勇気を発揮し、
帰国した日本人全員を日本に留まらせることに成功しています。

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