与謝野晶子さんと旦那の与謝野鉄幹氏との愛が載っている歌集『みだれ髪』の恋の歌と夫の女性問題、激しい夫婦関係として残っている代表的なバナナ事件について調べました。
また、今回は与謝野晶子さんの若い頃の生い立ちから、軸となっている女性解放と自立の世界観を追っていきます。
明治、大正、昭和と流れていく激動の時代を「女」として感じ、その感性を作品として届けた与謝野晶子さん。彼女が時代を超えて現代まで届けてくれたラブレターと歌は美しい言葉であふれています。
◆与謝野晶子はペンネーム。本名は? 処女歌集『みだれ髪』の作者は源氏物語が好きだった? その生い立ちは?画像
歌集『みだれ髪』のお話に入る前に、まずは与謝野晶子さんが与謝野鉄幹さんに出会う前までの少女時代の背景を簡単に見ていきたいと思います。
何故なら、そこに与謝野晶子さんが『みだれ髪』を生み出し、後に女性の自立や解放を説いていくことになる流れの土台があるからです。
与謝野晶子&与謝野鉄幹の「バナナ関係」にジャンプしたい方はこちら
◆与謝野晶子の本名は鳳志よう(ほうしよう)ペンネームの由来は?何歳まで生きたの?
1878年(明治11年)12月7日に与謝野晶子さんは大阪の老舗の和菓子屋さんの三女として生まれました。
画像:https://38300902.at.webry.info
明治生まれの苦労人女性。
与謝野晶子さんの「与謝野」は結婚後の姓で「晶子」はペンネームです。
旧姓の本名は鳳(ほう)志よう(しよう)さんというのだそうです。本名である「志よう」→「晶」に置き換えた名前をペンネームにしたというのが由来だと言われています。
亡くなったのは昭和。
昭和17年(1942年)5月29日、与謝野晶子さんは63歳で亡くなるまでドラマチックな人生を歩んでこられました。
◆与謝野晶子は和菓子屋「駿河屋」商人の家の望まれぬ三女、後妻・津弥の女児として肩身の狭い思いで生まれ育った生い立ち
与謝野晶子さんの実家は商人だった為、与謝野晶子さんも10歳の頃から放課後に家業を手伝っていたようです。和菓子屋「駿河屋」は与謝野晶子さんの父親の鳳宗七さんが経営していました。
画像:http://nsn-nishiogi.com
少女時代は学校に行き、漢学塾や琴、三味線なども稽古していたようなので、その時代の「三女」としてはいい暮らしなのかな?とも思いましたが、調べていくと物事はそう単純ではなかったようです。
虚弱体質の長男、
次男の夭逝
和菓子屋「駿河屋」の後継者になる男児が望まれていた。
父親の鳳宗七さんが後継者となる男の子を望んでいたところへ生まれたのが与謝野晶子さんでした。ですから、あまり家にとって女児が望まれていなかったということを自覚して与謝野晶子さんは育ちます。
それだけでなく、幼少期の与謝野晶子さんは母方の叔母の所へ預けられたり、乳母に折檻されたり、過酷な幼少期を送っています。
物干しへ帆を見に出でし七八歳(ななやつ)の男すがたの我を思ひぬ
引用元:『夏より秋へ』与謝野晶子
ようやく生家へ戻されたのは2歳を過ぎて弟が生まれた後でした。そして、弟がいるというのに、12歳までは「男の子」の恰好をさせられていたという不憫な少女時代を送っています。
十二まで 男姿を してありし われとは君に 知らせずもがな
引用元:『春泥集』与謝野晶子
調べてみると、与謝野晶子さんの母・津弥(つや)さんは父親の後妻であり、先妻の子供である与謝野晶子さんの姉二人には服を新調しても、与謝野晶子さんに対しては、そのお下がりや粗末な服装しかさせないようにしていたという話もありました。
◆与謝野晶子の聡明さに気づき、教育を施した父親の鳳宗七
ところが生家に戻った与謝野晶子さんの聡明さに気づいたのは、女児を望んでいなかったはずの父親の鳳宗七さんだったようです。
そういう理由から与謝野晶子さんは4歳になるころから早期教育を施され、父親の蔵書も自由に読むことが出来たという環境があったのでした。そして、父親の鳳宗七さんもまた、俳句や絵が好きだったのです。
それからの与謝野晶子さんは家業を手伝いながら和歌を詠み、その作品を投稿していくような生活をしていたようです。
店番の後に『源氏物語』等を読んでいた為か、与謝野晶子さんの感性の中には、若さの中にある衝動的な感覚についてさえも、そこに立ち向かって作品にすることでの肯定感をもはや獲得していたのではないかと思います。
画像:http://nsn-nishiogi.com/
また、結婚後に与謝野晶子さんは与謝野鉄幹さんとの生活で金策に苦労しますけれども、
たくさんの子供たちを守るために女手一つで生活費を工面していく姿は、やはり「商人の家の娘」として育った背景が大きいのではないかと私は思いました。
実に感度の高い
少女時代(笑)
ともかく家業を手伝いながら、作品を読みまくる生活をします(笑)樋口一葉、尾崎紅葉の小説、紫式部の「源氏物語」をこよなく愛していたそうです。
ここで与謝野晶子さんが築いた「感性」が後に『みだれ髪』を生み出すきっかけになります。
当時の女性が世間から一方的に求められていた「あるべき姿」は、慎ましやかに人形のように生きることだったでしょうから、
女としての感性を作品としてあらわにした与謝野晶子さんの生きざまはセンセーショナルで革新的な感覚だったとも言えます。
そこまでのエネルギーは、少女時代の抑圧された感情の中で培われていたのでした。そういう私も「男児」を望んだ家の女児として幼少期を生きたので、この辺りの切なさは何だか大きな共感を覚えます。
文学史の中の女性だと思ってきたので、同じ昭和という時代に居た人と知った時には衝撃でした。
◆1900年(年齢21歳)与謝野晶子と旦那・与謝野鉄幹(与謝野寛)夫妻はバナナ関係の前に不倫関係だった。 馴れ初めは雑誌『明星』画像
明治33年(1900年)与謝野晶子さんと与謝野鉄幹(与謝野寛)さんは運命の出会いを果たします。大阪で開かれた歌界でのことでした。そして、二人は惹かれあい不倫関係となります。
画像:https://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/24933206.html
同じころ、与謝野鉄幹さんは機関誌『明星』を創刊し、浪漫主義文学として短歌を積極的に発表します。与謝野晶子さんも『明星』へ短歌を寄せ、文壇デビューします。
「明星」の編集を行っていた与謝野鉄幹さんは与謝野晶子さんの才能を認め、投稿を勧めていたといいます。与謝野晶子さんも与謝野鉄幹さんの作品に強く魅かれるものを感じていました。
どうにもならない想いを寄せ、与謝野鉄幹さんと与謝野晶子さんのは二人の関係に対する「悪評」という代償も支払っていくことになります。
画像:https://amantes-amentes.com
↑与謝野晶子と与謝野鉄幹が利用したと言われている宿
かなりの熱量です。
与謝野鉄幹の号で広く知られる歌人与謝野寛は、父礼厳の事業の失敗のため、少年時代は親元を離れての流浪の日々を過ごした。彼は大阪の安養寺の養子になり、そこで仏典・漢籍を学んだが、十五歳の時にその養家を飛び出し、兄の和田大円を頼って岡山市国富の安住院で一年余りを過ごした。
その後、与謝野鉄幹(寛)は近代短歌への道に目覚め、明治33(1900)年4月には機関誌『明星』を創刊し、浪漫主義文学を積極的に地方に働きかけていった。彼はこの岡山にも第六支部を置き、何度か来岡している。
また、同年与謝野鉄幹(寛)は与謝野晶子(鳳晶子)と出会う。彼女が寛と熱烈な恋に陥り、与謝野姓を名乗るのは、明治34年のことである。
感性が導くまま
生家を捨てて上京。
与謝野晶子さんは与謝野鉄幹(与謝野寛)さんの側に居たい気持ちを抑えられず、東京へ移ります。勘当覚悟での一大決心でした。
既に結婚しお子さんまでいた与謝野鉄幹さんもまた、与謝野晶子さんと生きるため、妻と離婚したのでした。
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