今回は『みだれ髪』に続き、もう一つの有名な作品である詩「君死に給ふことなかれ」についてこの詩が反戦詩であるのか?与謝野晶子さんが反戦主義者だったのか?を追いつつ、弟の生死に関するエピソードや与謝野晶子さんの思想の変化について追ってみました。
◆与謝野晶子が弟に捧げた代表作 日露戦争反戦詩「君死にたまふことなかれ」画像
文学史から入る日本の教育上は、与謝野晶子さんの作品の中で最も有名なのはこちらかと思います。明治37年(1904年)9月に与謝野晶子さんは『明星』において「君死にたまふこと勿れ」を発表します。
もう普通に学校で習う感じでは完全にこんな印象。
→戦争反対の平和主義者??
日本の最高視聴率を未だに持っているドラマNHK朝ドラ『おしん』でも与謝野晶子さんの「君死にたまふこと勿れ」と雑誌『明星』が登場します。
画像:twitter
おしんの宝物にw
画像:twitter
こちらが「君死にたまふこと勿れ」が発表された時の『明星』です。余談ですが、国民的人気ドラマとなった『おしん』の序盤のシーンではおしんにとって、命の恩人となる人物から『明星』は読み聞かされることで登場します。そして、おしんの宝物アイテムのひとつに登録されます(笑)
こうして、与謝野晶子さんは反戦詩人のような印象を刷り込みされていくわけですが、今回は全く別の素顔を追っていきたいと思います。
◆与謝野晶子の詩『君死たもう事なかれ』で姉・晶子に弟よと泣かれた籌三郎(ちゅうざぶろう)という名前の兄弟は日露戦争後やはり死んだの?画像
教科書に必ず掲載されるといっても過言ではない与謝野晶子さんの代表的な詩『君死にたまふ事なかれ』ですが、ここで出てくる日露戦争へ行った与謝野晶子さんの弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)さんがその後どうなったのか?ご存知でしょうか?
正直、私は、ごめんなさい、
てっきり弟さんは戦争へ連れていかれて、日本の為に闘い、帰らぬ人になったものだと思い込んでいました。
というか、そういう雰囲気で教育を受けました。
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。―与謝野晶子
与謝野晶子さんの
「弟」さんがどうなったか?
国語では教えてもらっていない。
「娘時代より与謝野晶子のよき理解者であったよ籌三郎は、無事生還し、与謝野晶子の終生まで交流を保ち続けた」(『年表作家読本与謝野晶子』(平子恭子・編著、河出書房新社・1995年4月25日初版発行60頁)
弟・籌三郎さんは与謝野晶子さんより2歳年下だそうですが、日露戦争後、無事生還を果たしたようです。
弟、無事生還してた!!
新事実(笑)
画像:http://mikarin1215.com/sakka/10799/
しかも弟、
与謝野晶子と終生交流してたらしい。
何か、ちょっとしたカルチャーショックでした。
与謝野晶子さんの弟・籌三郎さんは1944年まで生存されていました。
◆与謝野晶子の弟・籌三郎が旅順攻囲戦に参戦していた?戦争から無事帰ってこられた理由は学問と文才?画像
調べてみると、その弟・籌三郎さんが日露戦争から無事帰ってこられたことに関する情報も少しあります。籌三郎さんは大阪第4師団8連隊・第三軍輜重兵として所属していたという情報があります。そしてこの情報が正しかったと仮定すると、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高いようです。
画像:中日映画社
しかし、与謝野晶子さんは「君氏に給うことなかれ」の発表時には弟・籌三郎さんが旅順攻囲戦に参戦するものと誤認していたようです。
「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」と副題をつけて
『君死にたまふことなかれ~』発表。
画像:与謝野晶子記念館
旅順攻囲戦とは遼東半島先端部の旅順にあったロシアの要塞であり、日露戦争にて日本が陥落し、後に日本軍の管理下となりましたが、陥落に至るまでに、陸軍の中で要塞戦を熟知した人間が少なく、第1回総攻撃では空前の大損害が生じてしまった経緯がありました。
1904年(明治37年)9月、半年前に召集され日露戦争の旅順攻囲戦に予備陸軍歩兵少尉として従軍していた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表した。
なお、晶子の弟の鳳籌三郎は日露戦争から帰還し、1944年(昭和19年)まで生きているが、彼の所属した歩兵第8連隊はこの詩が詠まれた頃は遼陽会戦を戦っており、旅順攻囲戦には参戦していない可能性が高い。
引用元:Wikipedia
画像:https://blogs.yahoo.co.jp/sw21akira/24933206.html
そうして、与謝野晶子さんの弟・籌三郎さんが無事戦争から戻ってこれた理由として考えられることのもう一点としては「学問」があったようです。
伝わるところによると、籌三郎は姉譲りの文才があり文章が達者だったので、将官から書記に任じられて重宝がられ、戦闘にはほとんど出ることはなかったといわれております。
(籌三郎曰く、「なんと字を知らない兵隊がいかに多いのやろう」だそうです。)
画像:yahoo知恵袋
学問が身を救ったという話を弟・籌三郎さんから直接聞いた与謝野晶子さんだったのでした。
■与謝野晶子さんの子だくさんの件はこちらです
◆与謝野晶子は戦争反対の反戦主義で弟に捧げた『君死たまふことなかれ』は反戦詩だったのか?画像
ここについては与謝野晶子さんのその後の動向でとても議論になるところではありますが、今回は私なりに考察してみました。
画像:与謝野晶子記念館
まず論点としては以下の2点です。
論点②:人物のこと>与謝野晶子は反戦主義者か?
ここはどうやら、①と②で分けて考える必要がありそうです。
◆与謝野晶子は弟・籌三郎が戦争へ行った頃は明らかに反戦主義者に見えた。画像
与謝野晶子さんは前述の通り、1904年(明治37年)戦争に召集された弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表しています。
画像:文学館
プライベートでは2人目のお子さんにあたる次男 秀(しげる)さんを出産した年です。この時までに与謝野晶子さんが生んでいたお子さんは2人だけで両方男児でした。
「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」
中略
(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾、木下尚江、中里介山、大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。
引用元:Wikipedia
与謝野晶子さんは公に戦争に対する疑問(反語としての批判)を唄っていました。これに対して、与謝野晶子さんは歌人で文芸評論家である大町桂月さんから「反戦思考」について直接批判を受けています。
画像:wikipedelia
約9歳年上の
センパイ歌人からの批判。
「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。
引用元:Wikipedia
その後、大町桂月さんとの議論はエスカレートしていき、与謝野晶子さんはこの議論において2点について主張しています。
●表現に携わる者
として、国の意向に自分の表現を寄せていくのはおかしいという意見
画像:与謝野晶子記念館
具体的には与謝野晶子さんは次のような言葉で大町桂月さんへの批判に応えていました。
「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」
引用元:Wikipedia
まあ、確かに・・・。
正義といえば正義に聞こえる話。
といった印象でもあるのですが、少なくともここで分かることはこの時点では与謝野晶子さんは明らかに「反戦」を唱えており、次は国の為に自分の大切に育てている息子を戦争に召集されるかもしれないというリアルな危機感があったと思われます。
ですから、『君死たもう事なかれ』という詩が反戦詩として書かれたということは「あっている」ようです。というわけで論点①「『君死にたまふことなかれ』は反戦詩か」に関しては「反戦詩」ということで済むようです。
『君死たもう事なかれ』は
反戦詩としてつくられた。
この辺りまでは与謝野晶子さんは反戦詩人、反戦主義者だったと言ってもよいのかもしれません。けれども状況は一転します。
◆与謝野晶子の弟・鳳籌三郎の余生は?名前が変わった?画像
そういうわけで、無事生還した与謝野晶子さんの弟・籌三郎さんは実家の父親である宗七が死去した後、父親の名を相続し「宗七」と名乗って、家業である駿河屋(菓子屋)を継いだと言われています。下の絵は『住吉・堺豪商案内図』に紹介された駿河屋さんの店の絵だそうです。
画像:http://nsn-nishiogi.com/sp/his2.html
この与謝野晶子さんの弟に対し、日本人の多くは多少なりとも祈ったり、心を痛めてきたはずなのですが…(笑)そして、もっとびっくりなのが、どうやら、その後、与謝野晶子さんという人は反戦を唱えていた人ではなくなっていったようなのです。
え!!!
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