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与謝野晶子と与謝野鉄幹の関係はバナナdeみだれ髪・君死にたまうことなかれ

●知的/高尚 属

明治、大正、昭和と流れていく激動の時代を「女」として感じ、その感性を作品として届けた与謝野晶子さん。彼女が時代を超えて現代まで届けてくれたラブレターと歌は美しい言葉であふれ、私たちに感じることで生きていく姿勢とこの国の美しさに触れられる幸福を教えてくれます。もう、歌がとにかく格別にキラキラしてる!

 

 

与謝野晶子の本名は?源氏物語が好きだった?

 

明治11年(1878年)12月7日大阪の老舗の和菓子屋さんの三女として生まれました。

 

 

与謝野晶子さんの「与謝野」は結婚後の姓で「晶子」はペンネームです。

旧姓の本名は鳳(ほう)志よう(しよう)さんというのだそうです。

昭和17年(1942年)5月29日は与謝野晶子さんが亡くなった日です。

 

与謝野晶子さんの実家は商人だった為、晶子さんも10歳の頃から放課後に家業を手伝っていたようです。学校に行き、漢学塾や琴、三味線なども稽古していたようなので、その時代の「三女」としてはいい暮らしなのかな?とも思いますが、家業は当時は苦しかったようです。

 

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家業を手伝いながら和歌を詠み、その作品を投稿していくような生活をしていたようです。店番の後に『源氏物語』等を読んでいた為か、彼女の感性の中には若さの中にある衝動的な感覚についてさえも、そこに立ち向かって作品にすることでの肯定感をもはや獲得していたようです。

 

実に感度の高い思春期(笑)

 

ともかく家業を手伝いながら、小説を読みまくる生活をします(笑)樋口一葉、尾崎紅葉の小説、紫式部の「源氏物語」をこよなく愛していたそうです。

 

 

当時の女性が世から一方的に求められていた「あるべき姿」は慎ましやかに人形のように生きることだったでしょうから、女としての感性をあらわに作品にした与謝野晶子さんの生きざまはセンセーショナルでビビットで革新的な感覚だったとも言えます。

 

管理人kira2
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もう、完全に文学史の中の女性なので、同じ昭和という時代に居た人というのが私の中では何だか不思議な感覚さえ覚えます。

 

与謝野晶子と与謝野鉄幹(与謝野寛)の関係は不倫?

 

明治33年(1900年)与謝野晶子さんと与謝野鉄幹(与謝野寛)は運命の出会いを果たします。大阪で開かれた歌界でのことでした。そして、二人は惹かれあうようになります。

 

 

同じころ鉄幹は機関誌『明星』を創刊し、浪漫主義文学として短歌を積極的に発表します。晶子さんも『明星』へ短歌を寄せ、文壇デビューします。

 

どうにもならない想いを寄せ、二人は今でいう、不倫関係となります。もちろんその関係の悪評どいう代償も払っていくことになります。

 

与謝野晶子と与謝野鉄幹の利用した宿

 

明治34年に晶子さんは「与謝野」姓を名乗ります。出会いからたった一年でそれですから、どれだけの熱量だったかが伺えます。

 

 

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同じ言葉を通して感性が行き来するという事は、日本語同士と言えどもなかなか実現することでもないので、若い晶子にとってはとても刺激、感度が大きかったのではないかと想像します。

 

 鉄幹の号で広く知られる歌人与謝野寛は、父礼厳の事業の失敗のため、少年時代は親元を離れての流浪の日々を過ごした。彼は大阪の安養寺の養子になり、そこで仏典・漢籍を学んだが、十五歳の時にその養家を飛び出し、兄の和田大円を頼って岡山市国富の安住院で一年余りを過ごした。

その後、は近代短歌への道に目覚め、明治33(1900)年4月には機関誌『明星』を創刊し、浪漫主義文学を積極的に地方に働きかけていった。彼はこの岡山にも第六支部を置き、何度か来岡している。
また、同年鳳晶子と出会う。彼女がと熱烈な恋に陥り、与謝野姓を名乗るのは、明治34年のことである。

 

だって、好きになっちゃったんだもの。

 

 

与謝野晶子さんは与謝野鉄幹(与謝野寛)の側に居たい気持ちを抑えられず、東京へと引っ越します。勘当覚悟での一大決心でした。

 

与謝野晶子の『みだれ髪』はセンセーショナルな作品集だった!

 

そうして与謝野鉄幹(与謝野寛)のもとへ飛んで行った与謝野晶子さんですが、同年処女歌集である『みだれ髪』を発表します。

 

 

これは受験でも文学史として出てくるテッパンの項目なので名前だけは一般の方でもよく知られています。ただ、与謝野晶子さんは文学史上、同時に「君死にたまふことなかれ」の人として多くの人に記憶され、後者の方が中身も同時に教えられてしまうので、与謝野晶子さん=反戦の詩人のようなイメージになっている方が多いようです。

言い方があっているかどうかわからないですが、清廉潔白な人というか。

 

ある意味、『みだれ髪』を知ってもそれこそ清廉潔白なんです。ただ、一般的なそのイメージとはもしかすると異なるかもしれません。

 

『みだれ髪』の与謝野晶子の作品を知らなければ与謝野晶子は見えてこない。

 

 

ここに圧倒的な感性で、その時代の世に宣戦布告をした彼女の歌があります。

 

「やは肌の あつき血汐(ちしお)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

―与謝野晶子

(現代語訳)理性で止めようのない、貴方を欲している私の体。その体を前に、これからの文学や短歌のありようを真剣に語る貴方。貴方は、私の体を抱きしめなくても、寂しくないのですか

 

完全に与謝野鉄幹(与謝野)に向けた歌なのが分かります。彼もちょっと困ったでしょうね(笑)あっぱれという感じです。

 

「乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅ぞ濃き」

―与謝野晶子

(現代語訳)胸に手を当て、隠された神秘な場所を開けてみると私のはなびらのように紅潮しています。

 

現代でもこれを公にするとなると結構なハードルがあるように思うのですが、だいぶ生々しい恋歌を詠んだ晶子さんでした。

 

 

当然の反応として、世間からはそれなりの批判を浴びます。

 

すさまじい批判。

 

世間の批判はすさまじいもので、今の感覚で言えばR18的な扱いも受けましたが、本人は「思うところを正直に詠まなければ歌ではない」と思っていたので堂々としていました。文壇にも、少数派ではありましたが、味方してくれる人もいましたしね。

 

ただ、こうした外野の人たち、言ってみれば晶子さんが理解してもらうことを期待していない人たちから理解されないことはもともと想定内だったと思いますが、愛がうまくいかないときは堪えますね。

 

与謝野晶子と与謝野鉄幹のひいきの部屋

 

「人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願い」

―与謝野晶子

(俵 万智さんの口語訳から )
<恋に恋する若者のくちびるに 毒ある蜜を塗ってやりたい>
乙女チックに恋に恋する若い女の子に、人を愛するってそんなに甘いもんじゃないんだよと、経験豊富な姐さんが言ってる感じですかね。

 

 

管理人kira2
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姐さんちょっとバット振り切りすぎw

 

まあそれもそのはず、ともかく、与謝野鉄幹という男は大変な女たらしで絶倫男だったようなのです…。

 

 

【与謝野鉄幹の女たらし前科】

その①

徳山女学校で国語教師を4年間勤める間に女子生徒(浅田信子)と男女関係になり妊娠させ退職。このとき生まれた女児はまもなく死亡。なぜか教師の鉄幹が17歳で、信子は20歳なので分からなくもない(笑)

その②

別の女子生徒(林滝野)と同棲し、一子、萃(あつむ)が出生。

その他複数

彼女以外にも、弟子や生徒やら複数の女性との関係を続けていたという話。

 

そもそも、与謝野晶子さんとの不倫で妻子も捨ててます。

 

おーまいが。与謝野鉄幹クズ疑惑w

 

幸い、与謝野晶子さんは小さい時から『源氏物語』を読んでいたので大丈夫だった!?ということでしょうか??(笑)

 

管理人kira2
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かなり不穏ですが、

源氏に比べればこのくらい…。

 

余談になりますが、俵万智さんが現代に合わせて詠いなおしている一冊が結構まあ面白いんです。もともとの与謝野晶子さんの作品を同意義で詠みなおす作業で出版できるって、なんか、商売上手ですけどね(笑)

 

 

管理人kira2
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俵万智さんは高校時代の現国の先生の知人だったため、一度お会いしたことがあったのですが、名前と「サラダ記念日」以上のことを記憶していません。すいません。

 

 

ここまで読むと与謝野晶子さんが愛におぼれただけの情欲家のように思えてしまうかもしれないので追記しておくと、明治32年(1899年)の高等女学校令の発布から女性も高等教育を受ける権利が認められたことによって積極的に女性の社会的成長を提示することをしていたようです。

 

今まではともかく、

これからは女子も男子とやりあっていけるだけの教養を身につけなくてはならない

 

管理人kira2
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男を当てにしてたら女なんか生きていけないもんで、女性が教養を身につけることを強く提唱していました。

 

与謝野晶子は反戦の人なのか!?代表作「君死にたまふことなかれ」

 

文学史から入る日本の教育上は与謝野晶子さんの作品の中で最も有名なのはこちらかと思います。明治37年(1904年)9月に与謝野晶子さんは『明星』において「君死にたまうことなかれ」を発表します。

 

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

―与謝野晶子

 

ココで歌われている「弟」がどうなったか?ご存知でしょうか?

彼は与謝野晶子さんより2歳年下で「籌(ちゅう)三郎」という名だそうですが、日露戦争後、無事生還を果たしたようです。

 

「娘時代より晶子のよき理解者であった籌三郎は、無事生還し、晶子の終生まで交流を保ち続けた」(『年表作家読本与謝野晶子』(平子恭子・編著、河出書房新社・1995年4月25日初版発行60頁)

 

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何か、てっきり弟さんは帰らぬ人になってるイメージで残っていました。

その弟君の情報も少しあります。

 

伝わるところによると、籌三郎は姉譲りの文才があり文章が達者だったので、将官から書記に任じられて重宝がられ、戦闘にはほとんど出ることはなかったといわれております。
(籌三郎曰く、「なんと字を知らない兵隊がいかに多いのやろう」だそうです。)

 

与謝野晶子さんに戻すと、弟の出征を悲しみ無事を祈り、戦争について疑問を持つ反戦主義を掲げる文壇の人。何となくこれだけが「=与謝野晶子」としてひとりで渡り歩いている状況ですが、事実は異なります。

 

 

与謝野晶子さんの四男(1913年2月生)の(いく)は海軍大尉だったということです。彼の出征に際し、晶子さんはを泣いた時とは別の心境で詠っています。

 

「戦(いくさ)ある 太平洋の西南を 思ひてわれは 寒き夜を泣く」

「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍(いくさ)に往(ゆ)く 猛(たけ)く戦へ」

「子が船の 黒潮越えて戦はん 日も甲斐(かい)なし や病(やま)ひする母」

―与謝野晶子

 

この歌は昱が出征するときに晶子さんによって詠まれたものです。短歌雑誌『冬柏』1942年1月号に載ったものだそうです。

 

とりあえず、すごい檄文です。

 

ここの解釈は各人に任せたいと思いますが、私の主観で言うとやはり教養のある人だったんだなというイメージです。

 

 

少なくとも、反戦主義の歌人ではないということだけ言っておきたいかと思います。

 

さて。

そして、すべての始まりだったといっても過言ではない、夫の与謝野鉄幹1935年3月26日にこの世を去ります。

 

 

昭和7年(1937年)、第一次上海事変で爆弾を抱えて突撃した「爆弾三勇士」の武勇伝が国民を沸かせたことがありました。このとき、晶子は「勇者となれ」という論文を書いています。また「国民覚醒の歌」という歌も発表しています。

 

与謝野晶子さんは1937年3月に脳溢血で倒れ1か月病床に就いた後、1940年に再度脳溢血で倒れます。その後は右半身不随となります。

1941年12月8日に太平洋戦争開戦。

1942年5月29日与謝野晶子さんもこの世を去ります。

 

 

私も与謝野晶子さんと同じ母親という女の性の運命をたどっているので、晶子さんが、かって詩にうたったアウギユスト君の誌が心に残ります。

 

アウギユスト

アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳(いつつ)になるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは唯(た)だ
ほれぼれと其(そ)れを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、何(なん)にならう。
私はおまへに由(よ)つて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変(しんぺん)不思議を示し、
玲瓏(れいろう)円転として踊り廻る。

 

子供という自分の血を継いだ別の命が、自分とは別の個性と別の世界観をもって育ち、またさらに別の個性と繋がっていく様子に、これまで自分の意味の全てだった「作品」がちっぽけに思えてくるというのはとてもよくわかる気がします。

それほどまでに尊いものとして大事に思う気持ちが伝わってきますね。

 

与謝野晶子と与謝野鉄幹(与謝野寛)とバナナの衝撃。

 

「君死にたまふことなかれ」が発表された翌年、『明星』は廃刊になります
夫・与謝野鉄幹(与謝野寛)が大学教授になるまでの時代というのは文壇の人にはありがちですが収入がとにかく不安定だった為、与謝野晶子さんもせっせと仕事をされていたようです。

 

 

与謝野晶子は)新聞七紙への寄稿に加えて、他にも小説や論文などを書いていたといいますから、これに子供たちの世話が加わるとなれば、過労死しなかったのが不思議なほどです。

 

お二人はともかくラブラブでお盛んだったようで(笑)

 

 

与謝野鉄幹と晶子ふたりのお子さんはナント総勢11人

(正確には12人を出産。)

 

二人の関係にはこんな奇抜なエピソードも残っています。

 

ある学者から
「これまでに、何か特異な性体験などなさいましたか?」

と問われた鉄幹は、得意満面で、
「バナナを妻の膣に挿入して、翌日取り出して食べましたよ」

と話した。妻とはもちろん、晶子のことである。

ところが、それを聞いた学者は、呆れた顔でこう言った。
「鉄幹先生、その程度のことだったら、誰でもやっておりますよ」

鉄幹を戒めた学者こそ、稀代の性研究者として有名な小倉清三郎であった。

 

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ふう。男って生き物はなんて

いつの時代もことごとくこうなんでしょうね。

 

一方で与謝野晶子さんという人はやっぱり立派な女性だなと思うのです。

 

大正5年(与謝野晶子38)の時には平塚らいてう女史との間で「母性保護論争」が勃発し、大正8年に至るまで完全に衝突していきます。平塚女史はこんな人↓

 

おお!これまた意外ときれいな女性で。

 

争いの焦点としては、「国家が母親に対してとるべき姿勢」に関する問題

 

たぶん男性からすると当時からあっそ。という論争だったと思いますが。

 

女の敵はいつも女!

 

平塚らいてうの立場はこうです。
育児は社会にとっても重要な仕事であるので、国家による母性の経済的保護は当然である。

他方、与謝野晶子の立場はこうです。
国家に頼らず女性が自分の力で経済的に独立する事が大切である。

 

平和な時代であれば両者の意見は共に理解出来ますが、いざ戦時体制国家に移行した場合、国家による経済的保護を受けた状態では、子供を戦争にとられる親として、反戦を訴えるなど、国家体制に反対する事は出来る立場ではなくなることを考えると、与謝野晶子のとらんとした立場の意味合いが理解出来ます。

 

これだけだとちょっとニュアンスが違ってくるので再度。

 

平塚らいてう「妊娠・出産に対して国家は女性を保護すべきだ」と主張したのに対して与謝野晶子さんが主張した言葉はこうです。

 

婦人は如何なる場合にも依頼主義を採ってはならないと思います。

―与謝野晶子

 

まさにおしん!(笑)

 

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ニュアンスが違うのわかりますかね?

 

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また戦後初の婦人少年局長を務めていた山川菊栄夫婦別姓を主張していた際にも

山川菊栄氏がマルクス主義を奉持していられるかぎり、

その言葉は真に目ざめた婦人に対してはなんらの権威なき、

嗤(わら)うべき、唾棄すべき振る舞いである」

とめちゃめちゃ厳しく批判しています。

 

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バット振りまくり(笑)

 

マルクス主義が男と女を対立させ、家庭をバラバラにするものだということを晶子さんは見抜いていたのではないか、と言われています。

 

 

戦後の日本教育の影響であまり知られていないようですが、皇室についても与謝野晶子さんは述べています。与謝野晶子さんは皇室を敬愛していました。

 

私の常に感謝していること・・・皇室の統制の下に生活していることの幸福である。

 

と語っています。

 

与謝野晶子記念館に行ってみたい!

 

行ったことないのですが、大阪は堺市のフェニックス通り沿いにある「与謝野晶子記念館」というものがあるそうで、晶子ファンには人気なようなので紹介しておきます。さかい利晶の杜内に「与謝野晶子記念館」入っているようですね。

 

「詩歌の森」

 

晶子の詩が耳と映像で入ってくるような設置になっているようですね。お子さんなんかは難しそうに感じることが耳からっていいかもしれないですね。

 

晶子の詩歌の世界を映像と音声で体感していただきます。詩歌は春夏秋冬と季節ごとに入れ替えています。床面には花びらや落ち葉などが映像で表現され、人の動きに応じて変化するなど、大人から子どもまで楽しみながら晶子の作品世界に触れていただけます。

さらに、館内では、晶子のメッセージや幅広い交流、ゆかりの地などを紹介するタッチパネルが各コーナーにあります。

 

四季にあった晶子の詩歌を 視覚聴覚触覚で感じる

 

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ホントは心で感じると思うんですが、よいきっかけに…

 

「晶子の装幀(そうてい)」

 

 

晶子の著書の装幀は一流の作家が手がけたものが多く、色彩豊かで美術的にも優れています。ケースの内部をのぞくと、本の表紙だけでなく裏表紙や口絵など美しい装幀をあますところなくご覧いただけます。

 

本の装飾って素敵なのが多いですね。私も観に行ってみたいです。

 

「創作の場」

 

 

晶子が執筆活動をしていた書斎をイメージ再現しています。

そこには、晶子自筆の歌百首屏風(複製)も展示しており、晶子の美しい筆跡を間近でご覧いただけます。

また、晶子の在りし日の姿を動画でご覧いただけるだけでなく、『源氏物語』自作の短歌を朗読する肉声もお聴きいただけます。

 

肉声がきける!感度の高そうな設備があります。晶子さんの短歌の世界はとても素敵なのですが、子供の情操教育には刺激が強いのもあるので、どんな作品を詠んでいるのか個人的に気になります(笑)。

 

「寛と歩んだ人生の軌跡」

 

 

師弟・同志・そして夫婦であった晶子と寛の歩んだ生涯と業績を紹介しています。

引き出し式の展示ケースがあり、引き出しを開ければカルタや写真アルバムなどの資料をご覧いただけます。

 

晶子さんとさんのコーナーそして、影響を受けた仲間たちのコーナーということでとても興味がわきます。ここも感度の高いコーナーのようですね。

 

「少女(おとめ)となりし父母(ちちはは)の家」

 

 

晶子の生家「駿河屋」をほぼ実際のサイズで再現しています。

西洋好みの父が建てた家は、当時としては珍しく大きな時計がかけられ、2階が洋風という建物で、晶子が西洋の香りのする家で少女時代を過ごした雰囲気を感じていただきます。

晶子が店番をしながら文学作品を読んだという帳場も再現されており、晶子の文学の出発点として紹介をしています。

 

私自身もそうなのですが、幼少期の感性構築がすべてだったなと感じます。晶子さんはどんなことを見て、感じていたのか気になります。

 

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素敵なスポットのようなので行ってみたいですね。

与謝野晶子の有名な短歌代表作

 

与謝野晶子さんがその生涯で詠んだ短歌は5万首に及ぶという話です。

 

 

たくさんあるので紹介しきれませんが、特に私がきれいな歌だなと思うものを主観でご紹介します。日本語の言葉に生まれて本当によかった!

 

こんなに美しい。

 

秋風に こすもすの立つ悲しけれ 危き中の よろこびに似て

 

傘さして 去にたる人を憎みけり その雪の傘 うつくしきため

 

君に似し 白と濃紅とかさなりて 牡丹ちりたる かなしきかたち

 

十九の われすでに菫(すみれ)を白く見し 水はやつれぬ はかなかるべき

 

薔薇の花 今や終の近づきて 限りも知らず 甘き香を吐く

 

匂ひする 春の空より落ちきたり 我を照すと 思ふ小鏡

 

清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき

 

綺麗な言葉に出会うと「血がキレイになる」と言っていた俳句の夏井いつきさんの気持ちがとてもよくわかります。

 

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大空の 月の中より君来しや ひるも光りぬ 夜も光りぬ

 

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あ~ん。キラキラしてる!

 

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