若い頃の紀宮さま~現在の黒田清子さん迄の豊かな記録と伊勢神宮祭主

◆人物

今上天皇の妹として生まれ、直近では伊勢神宮の祭主への就任とそのご活躍が注目されている黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)ですが、これまであまり知られていなかった若い頃から現在までのご趣味やエピソードなど、黒田清子さんに関わることについて今回は調べてみました。

◆現在 黒田清子さん(サーヤ)の皇室時代の若い頃の名前は「紀宮清子内親王殿下 」画像

黒田清子さんは上皇陛下(125代天皇)と上皇后美智子さまの第一皇女で日本の元皇族です。上皇后美智子さまにとっては第三子でしたが、初めてで唯一の内親王(女児)として誕生しました。

 


画像:https://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=26144

 

はじめての女の子!

 

上皇后美智子さまにとっての第一子は1960年(昭和35年)2月23日に誕生した現在の第126代天皇陛下である浩宮徳仁親王殿下、第二子は5年後の1965年(昭和40年)に誕生した礼宮文仁親王殿下(秋篠宮)、そしてそれからさらに4年後の1969年(昭和44年)4月18日に紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は誕生しています。

 

 

浩宮徳仁親王殿下から
9年後のご誕生。

 

誕生当時の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は体重2,250g、身長45.2㎝ということで、大変小さな体だったため「未熟児」という事でしたが、健康状態は良好であり、のちに両殿下ご夫妻にとって大変大きな存在へと成長します。

 

 

◆黒田清子さん(サーヤ)の皇室時代子供の頃の御称号「紀宮」とは?

黒田清子さんの皇族時代の御称号は「紀宮(のりのみや)」というものでした。御称号というものは日本の皇室のうち、限られた一部の皇族に与えられる幼少期の呼び名だそうです。具体的には現在では皇族の称号は天皇または皇太子の子女にのみ与えられています。

 

サーヤだけが
呼び名じゃなかったw

 


画像:https://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=26144

 

眞子さま、佳子さま
悠仁さまには
御称号はありません。

 

混同しがちなのが、近現代の皇室では御称号として「~宮」というものをつけることが慣例となっていますがこれは宮号・宮家としての「宮」とは別のものであるという点です。

 

今上天皇陛下の御称号は
「浩宮(ひろのみや)」

愛子内親王殿下の御称号は
「敬宮(としのみや)」

 

現在では「天皇または皇太子の子女」には当たらない眞子内親王殿下佳子内親王殿下、および悠仁親王殿下には御称号はありません。かつては、宮家の子弟も含む、すべての皇族が称するものだったようです。

 


引用元:http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-1246.html

 

一方。「天皇または皇太子の子女」にあたる文仁親王殿下には「礼宮(あやのみや)」という御称号がありました。そして、宮家の党首となる男児に与えられる宮号「秋篠宮」となり、別のものとなります。

 

『五経』などの古典から学者が選出し、天皇に複数の案を提出し、天皇が案から選ぶことになっている。

引用元:wikipedia

 

サーヤの御称号は
昭和天皇が選ばれたものだった。

 


画像:http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=704

 

ちなみに「お印」も
昭和天皇がきっかけです。

 

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◆黒田清子さん(紀宮)の皇族時代の内親王殿下のお印「羊草」には昭和天皇と美智子さまの間の素敵なエピソードがあった。画像

「お印」とは?

親王、内親王、王、女王の場合、命名の儀が行われるときに決まり、、内親王と女王をのぞく親王妃、王妃の場合は、皇族男子との結婚した時に定められることになっているそうです。

 

 

明治時代以降、宮廷内で広く用いられるようになった。皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である

引用元:Wikipedia

 

単に徽章としてだけでなく、宮家を創設した場合の紋や、その人物の象徴として用いられているそうです。圧倒的に植物が多いものの、「亀」「鶴」「壽」「雪」「星」「扇」なども稀にあるようです。

 


画像:ヒツジグサ

 

決めるのは母あるいは祖母が多いとされるが父母・祖父母や結婚する夫妻などの合議で決めている例も多い

引用元:Wikipedia

 

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の皇族時代の「お印」は「羊草(ヒツジグサ)」と言われるスイレン科スイレン属の水生の多年草です。日本全国の池や沼に広く自生分布しており、寒さに強く、山地の沼や亜高山帯の高層湿原にも生えていて、日本の国土と馴染みのある品種だそうです。開花時期も長く、6月から11月とされています。

 


画像:weblio.jp

 

日本に自生するのは
このヒツジグサ1種だけ。

 

未の刻と言われる午後2時頃に開花する花である為にこの「羊草」という名前があるようで、花は午前中開き続け、夕方になるとしぼむという生態をしているようです。

 

 

「羊草」が「お印」として選ばれたのには実は昭和天皇上皇后美智子さまの間のエピソードがありました。

 

美智子さまが今上天皇となった浩宮徳仁親王殿下をご出産された翌年にあたる1961年(昭和36年)、夏の皇室恒例の滞在となる那須御用邸へ行かれた際、昭和天皇は当時の皇太子妃美智子さまを日課としていた散策へ連れて行ったのだそうです。

 


画像:http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-336.html

 

その時に美智子さまは池のほとりに咲く可憐な白い花を偶然見つけたそうです。これが「羊草」でした。生物学者(正確には植物を専門とした研究者ではなく粘菌及び”ヒドロ虫類専門)だった昭和天皇「羊草」に興味を示していた美智子さまその花の名前と由来を教えたてくれたのだそうです。

 


画像:https://tanken.com/seibutu.html

 

昭和天皇の優しさに感銘を受けた美智子さま「いずれ女の子が生まれたら未草をおしるしに」と密かにその時思ったと言われています。そして、そこから8年後にご誕生した紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の「お印」が「羊草」となったと言われています。

 

1979年、当時の皇太子妃美智子さまはこんな歌を詠まれています。

 


画像:pinterest

 

「那須の野の沼地に咲くを未草(ひつじぐさ)と教へ給ひきかの日恋(こほ)しも」

安野光雅著「皇后美智子さまのうた」より

 

現在では外来の栽培品種のスイレンに脅かされたり、水質の悪化、池の埋め立てによって、ヒツジグサの存続が危ぶまれており、すでに東京、神奈川、埼玉では絶滅したとみられているのだそうです。その他、20を超える多くの府県でも絶滅危惧種や準絶滅危惧種として「ヒツジグサ」はリストアップされているそうです。

 


画像:huffingtonpost.jp

 

皮肉に聞こえるかもしれませんが、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)のような清らかな女性の生態と何となく似ている印象すらします。

 

◆黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)の皇族・少女時代の若い頃、は学習院へ通う愛らしいお姿!母親・美智子さまの教育 画像

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は皇室典範制定後初となる成人期まで両親の元で養育された皇女でした。

 

 

なんてかわいらしいの(涙)

 

天皇家には、3歳で両親のもとを離れ、「傅育官」らに育てられる伝統的風習があったが、浩宮さまには乳母を付けずに家族で同居する生活を通された。

引用元:huffingtonpost.jp

 

皇室の慣習として昭和天皇の時代も皇女は学齢期以降は両親と別居して養育されるのが皇室の慣習だったようです。

 


画像:pinterest

 

「いずれは嫁ぎ皇籍から離れる身」

 

という想定で教育された紀宮清子内親王殿下。皇室典範第12条の規定により、結婚後は皇室を離れることが定められていました。

 

 

◆黒田清子さん(紀宮)が幼少期通われた幼稚園、学習院小学校、中学校、高校、大学での若い頃はどんな子だった?画像

2人の男児の子どもたちとは違い、いずれ皇室を離れ、国民として一般社会で生きていく運命を持っている紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)に、対し、その定められた運命を念頭に置いて一般家庭に近い育て方を施したい美智子さまは考えられていたのかもしれません。

 

 

すくすく成長。

 

1972年(昭和47年)には御兄弟3人が揃って粘土遊びをされているお姿がありました。9歳年下の妹・紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)に付き合って一緒に粘土遊びを楽しむ今上天皇のお優しいお姿もあります。

 


画像:huffingtonpost.jp

 

1973年(昭和48年)4月に東宮御所で美智子さま紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)がままごとをされる時のお写真が残っています。この年、紀宮さまは年少の1年間だけですが柿の木坂幼稚園にも入園しています。

 


画像:huffingtonpost.jp

 

また、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は通信教育として「自由学園幼児生活団」のカリキュラムをお受けになっていたようで、「てあらいのじゅんじょ」や「てあらいのはげみ表」「下着のきかた」など自立して生活を暮らしていける力を育むような教育を幼少期から受けられていたようです。

 

1976年3月の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)学習院幼稚園卒業時には「子供の国」で二人乗り自転車にトライする美智子さまのお姿も。


画像:huffingtonpost.jp

 

スタイリッシュw

 

翌年の1974年(昭和49年)からは紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は学習院幼稚園に入園し、小学校から大学まで学習院に通われました。

 

 

美智子さまはお子様のお一人お一人に仕事を割り振って「お役目」を決められていたそうです。

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の「お役目」は毎朝、東宮御所のご門まで牛乳と新聞を取りに行くこと。取りに行った新聞をお父さまのところにへお届けし、牛乳はキッチンに届ける、というものだったそうです。

 

 

小学校3年生になると、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は今度は毎週日曜日のお食事の準備とあと片づけもお手伝いされていたようです。美智子さまはいずれ一般家庭へお嫁に行かれる紀宮さまに花嫁修業を兼ねた実践的なしつけをされていたようです。

 

 

美智子さまの教育の基本方針は

「自立した女性に。」

 

東宮御所の南向きの8畳ほどの洋室は清子さんのお部屋で、ベランダには洗濯機まで置いてあったという話も耳にしたことがあります。将来、普通の暮らしになじめるよう、美智子さまは、清子さんが幼いころから手順を踏んできたのです。

引用元:AERA

 

お洗濯もしていたぽい!

 

高校時代にも紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は両陛下(当時)のご公務にしばしば一緒に同行され、全国の色々なっ境遇の方々にお会いする機会を持たれています。

 


画像:http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html

 

写真は1985年(昭和60年)8月に紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)が石川県の慈妙院を訪問された際のお姿です。紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は若い時代から国際親善、外国訪問、社会福祉、慈善事業など各分野で積極的に公務に従事姿があり、、宮内庁からの信頼も大変厚かったようです。

 

◆黒田清子さん(紀宮)は若い頃、中学校時代から日本舞踊が趣味で花柳流の名取試験にも合格 画像

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の意外な趣味の一つとして語られているものに学習院女子中等科から始めた日本舞踊があるそうです。国立劇場での発表会などに度々出演しています。

 


画像:http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-101.html

 

1993年(平成5年)には紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は国立劇場で「小守」を熱演しています。また、この公演の翌年となる1994年(平成6年)には、花柳流の名取試験に合格しています。しかし、皇族としての立場では芸名を名乗るのを控えていたと言われています。

また、この時期は美智子さまが「失語症」を患われていた時期でもありました。

 


画像:twitter

 

1998年(平成10年)9月にも紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は発表会に出演され、「あやめ」を舞われています。

 

◆現在の黒田清子さん(紀宮)にも継承された幼少時代の子供たちへ母親・美智子さまの教育指針『ナルちゃん憲法』画像

美智子さま今上天皇浩宮さま子育てが始まって生後7か月の1960年(昭和35年)、日米修好通商百周年の記念として16日間もの期間、浩宮さまを日本に残したまま訪米しなくてはならない状況がありました。

 


画像:huffingtonpost.jp

 

16日間もママいないとか、
子供からしたらだいぶ試練w

 

そういうわけで、美智子さまは自分が不在の間に浩宮さまをお任せすることになった侍従や女官たちに子育てにおいて気にかけて欲しい細かいメモを書いたノートを残して旅立たれたようです。それがのちに浩宮さまのお名前「徳仁(なるひと)」『ナルちゃん憲法』という名前で有名になりました。

 

その中のひとつにこんなものがあります。

 

一日に一回くらいは、しっかりと抱いてあげてください。愛情を示すためです

―美智子さまの『ナルちゃん憲法』より

 

美智子さまは、「あなたのことが大好きな人がたくさんいるのよ」というメッセージを、しっかり抱きしめることで表すように侍従や女官たちにお願いされたということです。

 

それが約34年もの時が過ぎようとしている1994年(平成6年)7月、思わぬところで紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)にも継承されていたことが分かります。

 

 

児童福祉施設「伊豆つくし学園」(静岡県下田市)を両陛下(当時)と共に視察された紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は突然、子供のひとりから抱き着かれ、全く動じることなくあたたかく抱き留めるというシーンがあったのです。

 

「あなたのことが大好きな人がたくさんいるのよ」

 

気持ちはこうしてぬくもりを通して繋がって、続いていくのだと思います。

 

◆黒田清子さん(紀宮)が大学時代の若い頃には「和歌」が評価されていた !旦那となった黒田さんとの出会いの頃の歌があった 画像

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は学習院大学時代に文学部国文学科へ進学され、ゼミでは新古今和歌集の「冬歌」などを研究していたそうです。

卒業論文は、「八代集四季の歌における感覚表現について」というテーマでした。和歌の素養を高く評価されていたようです。和歌だけでなく、言語能力がとても高いとも言われています。

 


画像:四国新聞社

 

2003年(平成15年)1月に紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)が詠まれた歌をご紹介します。

 

うしろ手に家の戸さして仰ぎたる新年(にいどし)の空に月は照りはゆ

―紀宮清子内親王殿下

 

情景や祈りがじんわりと伝わってくるとても美しい歌となっています。

 


画像:twitter

 

この頃、実は紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は次兄の秋篠宮文仁親王殿下の友人で、のちに夫となる東京都職員の黒田慶樹氏と再会しています。そうした背景を知ると、詠まれた歌の風景が一層味わい深いものになりますね。

 

また、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は動物に関わる取り組みもされていました。

 

■小野小町の恋の歌はこちら↓

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◆黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)の皇族時代の若い頃からの動物好きエピソードが素敵すぎる画像

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は大学在学中にバードウオッチングにも関心を深め、渡り鳥の標識調査をするための資格である「バンダー」の資格も取得されているようです。

 


画像:https://dricho.com/20190714/

 

バンダー【bander】とは渡り鳥の標識調査員のこと。

 

◆黒田清子さん(紀宮)さんが皇室時代から愛した鳥類 「カワセミ」と鳥類学者となった現在

おそらく長兄の天皇陛下(第126代天皇徳仁)も山登りやバードウォッチングが好きだったことが影響しているのかな?と感じました。

 


画像:seiyou.ehoh.net

学習院大学ご卒業後、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は進路として山階鳥類研究所の研究助手として就職され、6年後には研究員として非常勤勤務をされ、結婚までの13年間働かれたそうです。

 


画像:https://plaza.rakuten.co.jp/inosisi72/diary/201701290000/

 

専門分野は
空飛ぶ宝石カワセミ。

 

初任給は数万円清子さんは、大学卒業に先だって行われた記者会見で、
「ささやかでもお金をいただいて仕事をさせていただくことは、とても責任のあることだと思います」と、お仕事への期待をにじませました。

引用元:AERA

 

こちらは1993年5月の新潟での紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)のバードウォッチングのお姿です。


画像:http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-101.html

 

当時の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の御年齢は24歳ちょうど学習院大学をご卒業されて2年目という時のお姿です。

 

国立科学博物館の皇居調査グループが平成13(2001)年に発行した『皇居・吹上御苑の生き物』(世界文化社)にも、紀宮清子の名前で、「皇居のカワセミ」と題した原稿を寄せています。百科事典にも執筆しています。

 


画像:matome.naver.jp

 

トリまみれw

現在も紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は玉川大学教育博物館外来研究員として英国の鳥類学者、ジョン・グールドの鳥類図譜を研究する傍ら、公益財団法人山階鳥類研究所客員研究員としてご活躍されています。

 

こちらは2005年の旭山動物園でのペンギンの散歩に紛れる黒田清子さん。

 


画像:文春オンライン

 

2019年10月にも東京都豊島区の東京芸術劇場にて紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)が構想段階から企画した「鳥類図譜の特別展」が開催され、上皇陛下、上皇后陛下が足を運んでいらっしゃいました。

 


画像:産経新聞

 

すっかり鳥学者になってしまった
黒田清子さん。

 

嬉しそうに微笑む上皇后陛下のご様子がとても素敵です。

余談ですが上皇明仁さまも魚類学者でハゼの分類学的研究者で、兄の秋篠宮文仁親王殿下も鳥類や両生類、その中でも特にナマズの研究者としても著名です。

 

ナマズ殿下と言われていたそうですw

 

なかなかファミリー全体が個性的ですw

 

 

◆黒田清子さん(紀宮)の皇族時代の若い頃 紀州犬・狆・盲導犬とのエピソード

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の皇族時代、は動物の中でも特に犬に対して思い入れが大きかったようです。小さい頃には愛犬の狆を抱えて外出されています。

 


画像:pinterest.jp

 

1982年(昭和57年)3月には学習院初等科の卒業文集『紀桜集』において紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は「盲導犬指導員」という文章を書かれています。

これは紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)が小学校時代に愛犬である紀州犬の訓練を盲導犬使用を支援する財団法人「アイメイト協会」の前理事長が担当したことによるもののようです。

 

 

内親王時代にはのほかにも紀州犬を飼われていました。下の写真は1982年(昭和57年)13歳のお誕生日の時の写真で、一緒にいるのは愛犬の「千代」です。

 


画像:http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4938953.html

 

2年後となる1984年(昭和59年)4月にも清子内親王殿下は東宮御所に愛犬と共にお姿を見せられています。

 


画像:pinterest.jp

 

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の愛犬である紀州犬の訓練を盲導犬使用を支援する財団法人「アイメイト協会」の前理事長が担当したことが縁となり、1990年以降、毎年のように盲導犬の活動を支援するチャリティーコンサートにも皇室側は出席しているようです。

 

 

2007年11月には皇居・宮殿「豊明殿」に初めて盲導犬のルカ=雄、4歳、ラブラドルレトリバーを同伴した元京都府視覚障害者協会会長、福島慎一さんが入られ、天皇陛下(現上皇陛下)に旭日双光章受章者としてご挨拶をされたそうです。

 

盲導犬が宮殿に入るのはこの時が初めてだったそうです。事前に申請すれば盲導犬が宮殿に入ることはできたようですが、申請したのは福島慎一さんが初めてだったようです。

 

◆2005年(平成17年)黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)東京都職員・黒田慶樹さん(旦那)とクラリスのドレスで結婚式 画像

2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は 次兄の秋篠宮文仁親王殿下のご友人で幼少時から面識のあったという東京都職員の黒田慶樹さんとご結婚され、民間人となりました。

 


画像:https://powerspot.xyz

 

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は天皇の皇女(娘)としては皇室典範制定後初めて皇族・華族出身者ではない一般人の男性と結婚したことになります。

 

◆黒田清子さん(紀宮)ご結婚式をする前に「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」で十二単姿の衣装をお披露目画像、年齢は?

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は2005年11月に黒田慶樹さんと結婚するにあたり、皇室を離れることを神前にご報告する儀式「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」として十二単をお召しになられています。当時の御年齢は36歳でした。

 


画像:pinterest.jp

 

秋口の季節に合わせ、秋らしい彩の重厚感のある十二単となっています。

 


画像:pinterest.jp

 

いつもあまり色彩の強い色をお召しにならない紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)ですが、この時の衣装は最も艶やかで彩のある衣装となり、大変印象的です。

 

◆黒田清子さん(紀宮)ご結婚式をする前に「朝見の儀」でローブ・デコルテに宝冠章・ティアラの正装姿

さらに「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」の同日、宮殿・松の間にて「朝見の儀」が行われ、ローブ・デコルテに宝冠章・ティアラをつけた正装姿で、両親である天皇明仁さま及び皇后美智子さま(いずれも当時)にこれまでの感謝と別れの挨拶をされています。

 


画像:朝見の儀

 

清子内親王殿下 謝恩の辞(天皇陛下へ)
今日(こんにち)までの長い間,深いご慈愛の中でお育ていただきましたことを心よりありがたく存じます。ここに謹みて御礼申し上げます。

天皇陛下 おことば
この度の結婚は誠に喜ばしく,心からお祝いします。
内親王として,その務めを立派に果たし,また,家族を優しく支えてきたことを,深く感謝しています。
結婚の上は,これまでの生活の中で培ってきたものを更に育み,二人で力を合わせて楽しい家庭を築き,社会人としての務めを果たしていくよう願っています。二人の幸せを祈ります。

引用元:朝見の儀

 


画像:朝見の儀

 

清子内親王殿下 謝恩の辞(皇后陛下へ)
今日(こんにち)までの長い間,深いご慈愛の中にお育ていただきましたことを心よりありがたく存じます。ここに謹みて御礼を申し上げます。

皇后陛下 おことば
この度はおめでとう。
これまで内親王として,また,家族の一員として,本当によく尽くしてくれました。どうか新しい生活においても,家庭を大切にしつつ,社会の良き一員となっていかれますように。
お二人の健康と,幾久しい幸せを祈ります。

引用元:朝見の儀

 


画像:時事通信

 

私自身が「娘」として生まれ、自分の子もまた「娘」であるため、この「朝見の儀」に交わされた親子のことばには感極まってしまいました。

 

娘という運命を背負って生まれた親思いの1人の女性と、その運命の為に自分たちがどんなに望んでも別の家へいずれ嫁がせなければならないということが生まれたと同時に決まっているという複雑な想いのご両親が、両者ともこの日が訪れる日を生まれた時からずっと覚悟をして生きてきたのだと感じます。

 

娘は親に無用な心配をかけないよう自立に努め、ご両親はただただ娘の将来の幸せだけを祈ってお育てになってきたお気持ちがとてもつよく伝わってきます。

娘という運命はとてもはかないわけですが、こうした運命もまた男児のそれとはまた別の、尊い記憶を育むのかもしれないとも最近(ようやく)思います。

 

◆黒田清子さん(紀宮)と黒田慶樹さんの帝国ホテル結婚式の衣装はウェディングドレスでアニメ『ルパン・カリオストロの城』のクラリスがモデル ティアラはなし画像

結婚式でのユニークなエピソードとして、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)はアニメ『怪盗ルパン・カリオストロの城』のヒロイン、クラリスをイメージしたドレスをお召しになったという事です。

 


画像:twitter

 

画像:twitter

 

これです↓

 


画像:cinema.ne.jp

 

ロマンティストな一面(笑)

 

意外とこうしてここまで見ていくと、内なる情熱がもろもろ果てしない印象の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)です。

 

披露宴では美智子さまが身につけられたものを着たいというご希望を紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は出されたようで、美智子さまのお着物を着られたそうです。

 


画像:朝日新聞

 

両陛下も紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の披露宴にご出席されたそうですが、これは歴代の天皇で初めてだということです。

 

◆黒田清子さん(紀宮)の結婚式後の今現在、自宅は都内目白近隣のマンション住まいでSPなしの生活。車の運転も自在で別居の噂も?画像

2005年にご結婚された黒田清子さんと黒田慶樹さんの新居は東京都内の目白近隣のマンションだと言われています。また、近隣で庶民的な食材のお買い物をよく目撃されており、とてもつつましく暮らされている印象を受ける報道がされています。

 


画像:http://guest-first.jugem.jp/?eid=45

 

実際、黒田清子さんは2005年の納采の儀の半年後にはまだ内親王の御身分でしたが試験場で運転免許も取得され、現在もご自身で運転されて皇居へ行かれることもあるようです。

 


画像:twitter

 

アクティブ~。

 

◆黒田清子さん(紀宮)今現在の年齢は?旦那・黒田慶樹と不仲で別居の噂は本当?理由は伊勢神宮祭主への就任 画像

黒田清子さんと旦那の黒田慶樹さんの別居報道や、お子さんが生まれないことから(?)による不仲報道なども一部あるようですが、正直報道メディアのこじつけのような噂であり、すべてには理由がつけられそうです。

 

 

別居報道に関しては後述しますが黒田清子さんは伊勢神宮の祭主に就任したため、年間少なくとも5回にわたって目白のマンションから伊勢神宮へ祭祀のため足を運び、滞在しなければならなくなりました。その期間は旦那である黒田慶樹さんとは離れて過ごさなければならないはずです。

 

神嘗祭(10月)、新嘗祭(11月)、月次祭(6月、12月)祈年祭(2月)

 

また、黒田清子さんには日常でも玉川大学教育博物館外来研究員公益財団法人山階鳥類研究所客員研究員としての勤務もありますので、やはり旦那の黒田慶樹さんにはひとりで夕食を食べに行ってもらわないとならない日もあって仕方がないのかなと感じます。

これがいいか悪いかはともかく、都心部に住む一般的で当たり前な家庭の現在の姿だとも思います。

 


画像:http://fushikiobog.seesaa.net/article/9710431.html

 

しあわせの
成熟感あふれるおふたり。

 

お子さんに関しては結婚された時点で36歳を迎えていた黒田清子さんも2020年今現在では既に51歳という年齢を迎えており、デリケートなお話になるので差し控えますが、お子さんを持つのにはなかなか厳しいところもあるのかもしれません

 

◆黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)の母親・美智子さま、家族への愛情と上皇さまからの愛称「うちのドンマインさん」の由来

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は上皇陛下上皇后陛下の「ご家庭」の最後に登場した末娘ということで、生まれた時には自分より先に生まれた個性的な人々が既に存在していました。

 

 

ですから、色々なご家庭の末子がそうであるように、家族すべての個性と自分を「家庭」という空間に融合させること能力が資質としてとても高かったようにお見受けします。

 

 

◆1986年(昭和61年)母親・美智子皇后陛下(51歳)が「子宮筋腫」宮内庁病院へ入院した際は本の音読テープをつくった若い頃の紀宮サーヤ愛 

1986年(昭和61年)に美智子さま子宮筋腫で手術が必要な状態となりました。その際に紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は母・美智子さま(当時 皇太子妃)と共に「病院に泊まり込んで看病したい」と申し出ていたそうです。

 


画像:http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-252.html?sp

 

しかし、「却って病気に差し障るといけないから」という父である皇太子殿下、祖父の天皇陛下からのご説得により断念したそうです。

 


画像:http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4919975.html

 

それでも紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は何か出来ないことはないかと考え、美智子さまが時間があったら読みたいと思っていた本をわざわざ音読して毎日テープに吹き込み録音美智子さまの大きな慰めとなったという話として残っています。

 

 

◆1993年(平成5年)母親・美智子皇后陛下が「失語症」を発症した際も若い頃の紀宮サーヤが寄り添って病院へ、天皇陛下の「前立腺がん」の時も尽力

1993年(平成5年)10月、国内メディアの心ない報道でのバッシングが続いたことにより、美智子皇后陛下(現 上皇后陛下)は「失語症」を発症されます。

 

「失語症」の原因の引き金となったのは雑誌などの平成流皇室に対する批判に苦悩する最中に美智子さまが心にかけていた方からの絶望的な手紙だったと言われています。

 


画像:buzzfeed.com

 

1993年(平成5年)というと、6月に当時の皇太子さま雅子さまがご成婚された年であり、皇室としては順風満帆な幸せの1年のはずでした。しかし、4か月後の59歳の誕生日に美智子さまは赤坂御所内で倒れられています。想像を絶する異常事態です。

皇后美智子さまが倒れた朝に公表された誕生日の文書はこのようなものでした。

 

どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません

引用元:AERA

 

東部の精密検査の為、宮内庁病院を受診される美智子さまのお姿の横に、口角をくっと引き上げて穏やかな表情で寄り添われる紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)のお姿がありました。

 

 

24歳とは思えない貫禄w

 

声を失われたこの年の冬には葉山御用邸での静養の際にも紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は同行されています。

 

御用邸にお伺いした際、はじめに紀宮さまが筆談になる旨をご説明くださいました。しばらくして、皇后さまが応接間にいらっしゃいました。お手元にはコピーの裏紙をクリップに閉じたものと、鉛筆をお持ちになっていました

引用元:https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/empress-michiko

 

声が出ずに静養中も、特に気を遣うのでもなく、いつもの生活のひとつのように美智子さまに振舞われていたという天皇陛下(現在の上皇陛下)と若い頃の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)です。

 


画像:http://masakosamalove.blog.fc2.com/blog-entry-99.html

 

そして、2005年(平成17年)の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)のご結婚を前に誕生日に際し美智子さまが出された文書で明らかになったこととしてこんなエピソードがありました。

 

清子は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来て『ドンマーイン』とのどかに言ってくれる子どもでした。

これは現在も変わらず、陛下清子のことをお話になる時、『うちのドンマインさんは…』などとおっしゃることもあります。あののどかな『ドンマーイン』を、これからどれ程懐かしく思うことでしょう

引用元:文春オンライン

 

「ドンマーイン」

 

 

楽しみや喜びだけではなく、時には、苦しみ、悲しみも共有することで「抱きしめ合う」ことになるのかもしれません。

 

 

◆長兄・徳仁天皇、次兄・秋篠宮殿下からも頼りにされる絶大な信頼を得ているデキる妹・紀宮さま紀宮清子内親王殿下)

紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の長兄にあたる天皇・徳仁さまの事は9歳年上の優しくて憧れのお兄さんということで幼少期から大好きだった様子が伺えます。また、皇太子時代からの公務への取り組み方やその姿勢、言動のひとつひとつなどを間近でご覧になっており、大変慕われていたようです。

 


画像:pinterest.jp

 

結婚前の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)の独身時代には、「理想の男性像は、長兄皇太子徳仁親王(当時)」と発言したことがあるということは有名なお話です。

 


画像:pinterest.jp

 

また、4歳年上で最も年齢が近く幼少期にたくさん共に遊んだであろう秋篠宮殿下も平成期に入って以降、これまで紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)が結婚されるまで内定皇族としてご両親の良き相談相手となることでお心を支えてこられたご様子やその後も兄たちの家庭にとっても良き支えとなってくれたことを想い紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)には頭が上がらないようです。

 

「頼りない自分たちを許してほしい」との趣旨の内親王への言葉を寄せている
(書籍『秋篠宮さま』)。

引用元:Wikipedia

 

最近では最も共感度が高いであろう妹の紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)へ秋篠宮家内親王殿下のお二人についてのご相談もされているかもしれません。

 

 

「うちのドンマイんさん」は
とても頼りになる存在のようです。

 

 

◆黒田清子さん(紀宮清子内親王殿下)伊勢神宮祭主就任へ画像

黒田清子さんは鳥類博士としても大きな活躍をされていますが、伊勢神宮の祭主としても今後長く大きなお役目を果たされるようです。

 

◆2012年(平成24年)黒田清子さん(紀宮)伊勢神宮の臨時祭主に就任はなぜ?

2012年(平成24年)4月26日から2013年(平成25年)10月6日までの約1年半の間、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)は伊勢神宮の臨時祭主を務めることになりました。

2013年は20年に一度、神宮の社殿を建て替えるなどする式年遷宮が予定されており、この行事は「わが国最大のお祭り」で、「690年から1300年にわたって続けられている」とても重みのある習わしなのだそうです。その為、臨時祭主として黒田清子さんが就任しました。

 

2012年神嘗祭(かんなめさい)」初奉仕

 


画像:伊勢志摩経済新聞

 

2013年10月「遷御の儀」

 


画像:https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/45857919.html

 

2003年は臨時祭主という補佐役。

 


画像:https://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/45857919.html

 

その背景としては2013年10月に行われた第62回神宮式年遷宮などの神事を取り行うにあたり、伊勢神宮祭主である伯母の池田厚子さんが当時すでに81歳とご高齢であったため、紀宮清子内親王殿下黒田清子さん)43歳が補佐として神事の奉仕を行った形です。

 


画像:伊勢志摩経済新聞

 

ここでも貫禄ありすぎだけど、この時はまだ臨時祭主w

 

1300年以上の歴史がある式年遷宮は、現在の正殿から新しい正殿にご神体を移す来年10月の「遷御」で最高潮を迎える。池田さんは1988年に就任したが高齢となり、補佐役を設けることになった。
神宮祭主は、天皇陛下の代わりとして天照大神に仕え、伊勢神宮の神職をまとめる立場。代々、皇族または以前皇族だった人が就任している。

引用元:日本経済新聞

 

正殿から西隣の新宮にご神体を移す外宮の遷御の儀式として臨時祭主の黒田清子さんが、ご奉仕される中、皇族の代表としては黒田清子さんの次兄である秋篠宮親王殿下が参宮されていました。

 


画像:https://ameblo.jp/ayamikami-since2014/

 

 
そして天皇陛下(現・上皇陛下)は、「遷御の儀」と同時刻に宮城(皇居)神嘉殿(しんかでん)の庭で、神宮に向かって拝礼あそばされる「遙拝(ようはい)の儀」に臨まれており皇后美智子さまは御所で拝礼をされ、皇太子殿下(今上天皇)、妃殿下(皇后雅子さま)も、東宮御所(東京・元赤坂)で拝礼をされるという流れとなっているそうです。
 
 
家族みんなで儀式にご参加。

 

 

◆2017年(平成29年)黒田清子さん(紀宮)明治以降11人目の伊勢神宮の祭主へ就任なぜサーヤが?再クラリスドレス画像

2013年の黒田清子さんの臨時祭主としての貫禄と補佐が素晴らしかった為か、2017年(平成29年)6月19日付で、今度は池田厚子さんの後任として、黒田清子さんは明治以降で11人目となる伊勢神宮祭主に就任します。

 


画像:伊勢志摩経済新聞

 

クラリス再来という印象もなくもありません(笑)

 

神宮祭主は、天皇陛下の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇陛下の「勅旨」を受けて決まる「神宮だけ」の役職だという。

引用元:j-cast.com

 

戦後の伊勢神宮祭主には、皇族出身の女性が就いている役職だそうです。 現在の祭主である、昭和天皇の4女の池田厚子さんも三重県外に住んでおり、伊勢神宮の決まった祭祀の時だけ足を運ぶ形としていたため、黒田清子さんも住み込みではなく池田厚子さんと同じような対応となるようです。

 

◆2019年(令和元年)黒田清子さん(紀宮)伊勢神宮祭主として活躍の様子画像

2019年(平成31年)3月15日、勅使、伊勢神宮大宮司の小松揮世久氏らとともに黒田清子さんは祭主として「退位及びその期日奉告祭」を行われました。

 


画像:伊勢志摩経済新聞

 

その後、同年4月30日には皇居・宮中三殿で皇室の祖先、歴代天皇などに退位礼の挙行を報告する宮中祭祀「退位礼当日賢所大前の儀」「退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」が行われ、午後5時からは「退位礼正殿の儀」が無事行われました。

 


画像:日経新聞

 

「平成」というひとつの時代が終わった。

 

同年5月10日には、今度は「令和」における新しい天皇陛下の即位に伴い、10月22日に行う「即位の礼」と11月14、15日に行う「大嘗祭(だいじょうさい)」の期日を皇祖神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)に奉告する臨時祭「即位礼及び大嘗祭期日奉告祭」を勅使、小松揮世久氏らとともに黒田清子さんは行っています。

 


画像:伊勢志摩経済新聞

 

「即位の礼」

 


画像:PRIME

 

この時は祭主はお休みみたいでしたw

 


画像:毎日新聞

 

調べてみると、伊勢神宮祭主となった黒田清子さんが天皇陛下に代わって神事の奉仕をするのは下記の祭祀についてだそうです。

 

●「神嘗祭(かんなめさい)」10月15日
<五穀豊穣の感謝祭>

●「新嘗祭(にいなめさい)」11月23日
<天皇が五穀の新穀を天神地祇に供え、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する(収穫祭)と共に、神の御霊を身に体して生命を養うというもの。即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭という。>

●「月次祭(つきなみさい)」12月15日~17日、6月15日~17日まで
<国の平安と、氏子崇敬者の安泰を祈るための祭祀のひとつ。>
※伊勢神宮では月次祭神嘗祭の3つの祭礼を三節祭、三時祭と称します。

●「祈年祭(きねんさい)」2月17日
<一年の五穀豊穣などを祈る神道の祭祀>

 

「神嘗祭」は、その年に収穫された新穀を天照大御神(あまてらすおおみかみ)が祀られている神宮にお供えし、御恵みに感謝する祭で、伊勢神宮の年間祭典の中でも最も重要なものと位置づけられています。

 

1874年から1947年までは祝祭日として暦にありましたが、今は戦後のアメリカ主導の政策により廃止されてしまっています。「新嘗祭」は「勤労感謝の日」という祝日として、現在まで続いています。

 

日本の精神性の根幹となる祭典の名前が消えたことで、その存在が国民から消えてしまった事は「感謝」や「慈愛」といった心の富を奪われるひとつの原因となったと言えそうです。

 

 

◆年間祭儀と年末年始における儀式「四方拝」について、天皇陛下を支える伊勢神宮祭主・黒田清子さん

 

年間の主要祭儀一覧はこちら

 

天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。

引用元:宮内庁

 

いつも国と民の為に祈ってこられたことが分かります。

 


画像:https://ameblo.jp/fukutyaipuku/entry-12428259386.html

 

年間儀式の中でも、特に真冬に行われる年末年始の祭儀は天皇陛下にとって大変重要かつハードな儀式です。

 

節折(よおり)」12月31日
<天皇陛下のために行われるお祓いの行事>

大祓(おおはらい)」12月31日
<神嘉殿の前で,皇族をはじめ国民のために行われるお祓い>

四方拝(しほうはい・よほうはい)」1月1日
<早朝に天皇陛下が神嘉殿南庭で伊勢の神宮,山陵および四方の神々をご遙拝>

歳旦祭(さいたんさい)」1月1日
<早朝に三殿で行われる年始祭典>

 

 
大晦日の夜に「節折(よおり)」によって身体を清められた天皇陛下は、まだ夜が明けない早朝に次の儀式の為に建物に入られ、四方の神々をお招きしてのご遙拝の儀式「四方拝(しほうはい)」へ臨まれます。

 
元旦の凍てつく寒さの中です。
 
 

画像:https://ameblo.jp/fukutyaipuku/entry-12428259386.html
 
 
次の年に巡ってくる星の名前を唱え、天皇陛下だけが唱えられる祝詞で国家国民の安泰を祈り、厄払いの儀式をされています。
 
 
 
この祝詞というのがまた大変崇高なもので、「10の幸せを得るには10の不幸を消化する」という法則の元、この祝詞の中には罪障を呼び寄せて悟りへの導きを促す意味があるようです。厄払いの前に魔寄せ、厄寄せを行っています。
 
 
 
 
 
 
そして、その引き寄せた「魔」や「厄」をどうされているかというと、天皇陛下が神々にこのように祈るのだそうです。
 
 
●「国家国民の、ありとあらゆる厄災はすべて私に先に、お与えください。」
●「さまざまな国難はわが身を通過しますように」
●「もし今年、日本に災いが降ってくるのであれば、まず私の体を通してからにしてください。」
 
 
 
 
ということで、
天皇陛下我が身を差し出して国家国民の安寧を祈っていらっしゃいます。
 
 
 
陛下は、新年のはじまりにあたって、誰よりも早く起きて
ありとあらゆる厄災は、
自分の身にこそ降りかかれ。
そして万病が取り除かれ、

民が癒やされるよう
自分の心は神々のまにまにあるのだから、
厄災は我が身にのみ、先に降りかかれ、

そう祈られているわけです。

引用元:https://ameblo.jp/fukutyaipuku/entry-12428259386.html

 
 
 
最後の「四方拝」となる2019年の元旦、
上皇陛下は、御年85歳でいらっしゃいました。
 
 

画像:中央日報
 
 
毎年やってます
 
 

画像:twitter
 
 
 
その時、国民は・・・
 
 
 
 
国民もがんばろ(泣)
そこに居ても、祈られてますからね。。。
 
 

天皇に代わって祭主として黒田清子さんが神事の奉仕をするとなると、よく考えれば、皇室に皇女としていらっしゃった時よりも数段天皇陛下の特別なお役目に直接的に関わる任務をなさっている印象を受けます。

 


画像:http://shizenfukuchi.jugem.jp/?cid=38

 

この国と国民、
皆が暮らす世界のために
祈りを捧げます。

 

また、祭主というお立場を通して黒田清子さんは今後も折々家族のそれぞれと関わっていくお立場でもあり、なぜか 降嫁された境遇でありながら、最もぐらつきのない精神性で皇室を支える頼れる存在感となっています。

 

2008年(平成20年)4月には、天皇・皇后の結婚記念日を黒田邸で祝った。また、2009年(平成21年)12月には、夫とともに天皇一家のこどもの国訪問に参加するなど、結婚以後も上皇・上皇后および今上天皇一家皇嗣秋篠宮家などと親密な交流がある。

引用元:wikipedia

 

すごいなサーヤ!
みんなを助け
支えている。

 

 

黒田清子さんのそよそよした風と祈りで
「令和時代」の皇室も
そして日本も
豊かに幸せに運びますように・・・。

 

 

 

私も「うちのドンマイんさん」サーヤさまのようになれる様、日々精進していきたいと思います。

つづく。

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