◆与謝野晶子が反戦主義者をやめたきっかけに大町桂月の存在の大きさ
与謝野晶子さんが反戦主義者をやめたきっかけに入る前に、移り変わっていった与謝野晶子さんの思想や発言について見ていきたいと思います。
◆与謝野晶子は、ほんとうに戦争反対の反戦思想だったのか?画像
前述のように『君死たもう事なかれ』という詩が反戦詩ということは明白なので、そこに追随して、
与謝野晶子=反戦主義の人という教育を我々日本人の大半はおそらく受けてきました。
画像:http://norinori123.otemo-yan.net/e1072334.html
与謝野晶子さんに戻すと、弟の出征を悲しみ無事を祈り、戦争について疑問を持つ反戦主義を掲げる文壇の人。何となくこれだけが「=与謝野晶子」としてひとり歩きし続けてきた状況です。
けれども実際は、独り歩きするのは「作品」の方であり、人物というものは日々変化していくものであるというのが真実のようです。
与謝野晶子も
変化していったひとり。
1904年の『君死たもう事なかれ』の発表からわずか6年の1910年(明治43年)、第六潜水艇の沈没事故の際に与謝野晶子さんが詠んだ歌は、
訓練中に遭難した第六号潜水艇の佐久間勉艇長以下14名全員が配置に就いたまま殉職していたことを悼み、「なすべきことを成し遂げる責任感」としてその後、小学校の修身科教科書にも用いられ、子供たちにもその精神が教えられていったそうです。
「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男(お)の文」
次に、1914年7月から1918年11月の第一次世界大戦の際は与謝野晶子さんは『戦争』という詩のなかで、
「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」
引用元:『戦争』
と極めて励戦的な戦争賛美の歌を詠んでいます。
画像:japaaan.com
さらに与謝野晶子さんの四男(1913年2月生)のアウギュストこと昱(いく)は海軍大尉だったということです。彼の出征に際し、与謝野晶子さんは弟を泣いた時とは別の心境で詠っています。
「戦(いくさ)ある 太平洋の西南を 思ひてわれは 寒き夜を泣く」
「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍(いくさ)に往(ゆ)く 猛(たけ)く戦へ」
「子が船の 黒潮越えて戦はん 日も甲斐(かい)なし や病(やま)ひする母」
―与謝野晶子
引用元:短歌雑誌『冬柏』
この歌は息子・アウギュストこと昱が出征するときに与謝野晶子さんによって詠まれたものです。短歌雑誌『冬柏』1942年1月号に載ったものだそうです。
とりあえず、
この時点では
完全に反戦詩人ではない様子。
1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』においては、
「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」
引用元:『白櫻集』
など、戦争を美化し、鼓舞する歌をつくっていったという経緯があります。
完全に時代と共に
変わってしまった与謝野晶子。
画像:https://todayssp.universal.jp/today/?p=3862
ですから、論点②「与謝野晶子は反戦主義者か?」に関しては「時期によって変化していった」というのが最も適切な答えなのではないかと思います。
どうしてこんなに真逆の思想へと変わっていくことになったのか?とても不思議な気がします。
◆与謝野晶子の思想が「反戦主義」から変わっていった理由に大町桂月の存在があるのではないか?
ここからは私の推測になりますけれども、与謝野晶子さんは大町桂月さんから批判されたことを、この騒動が終結した後も、おそらく数年間は心の中で「保留」しながら、温めていたのではないかと推測します。
画像:amazon
何か?が引っかかる
という違和感の
信号を受信していた。
なぜ、同じ歌人である大町桂月さんが反戦を唄う自分に対して激しく非難したのか?
与謝野晶子さんは、その9歳年上の歌人が血眼で批判してくる「違和感」について、ずっと腑に落ちないものがあり、何度も振り返りの作業をしたのではないかと感じます。実際、大町桂月さんからのその言葉は非常に強烈なものでした。
画像:instarix.org
大町桂月からの
痛烈な批判!
大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し
「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」
と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹と平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。
引用元:Wikipedia
この辺りに関しては現代の日本も引き続き後を引いている議論だとは思います。ですからこの与謝野晶子さんの言葉と大町桂月さんの言葉にはそれぞれの考え方があるとは思います。
画像:愛に恋
私がこの二人の歌人の話を知って思い出したのは、このお二人の言葉です。まずは初代内閣総理大臣の伊藤博文さんの言葉。
自分の生国が亡びては何の為になるか。
ー伊藤博文
そして、東條英機さんの遺言の中にある言葉です。
―東條英機
このお話はこちらでしています↓
◆反戦詩を詠んだ与謝野晶子を変えていったものは、大町桂月の「何」だったのか?「作品」と「人物」画像
ここの解釈は各人に任せたいと思いますが、調べていった限り、転機となったのはやはり同じ歌人でもあり、同時代を生きる歌人であった大町桂月さんからの批判だったのではないかと改めて感じます。(主観)
では、大町桂月さんの「何が」与謝野晶子さんの心を動かしたのか?
画像:大町桂月
同じ歌人としての時代特有の風景、生きにくい境遇を共有し、同じ「表現」に携わる者として切磋琢磨している人からの全く視点の異なる見解、対岸に居る「違和感」。
なぜ「境遇の近い立場の人間なのにこんなに視点が違うのか?」
画像:instarix.org
ここの違和感にずっと与謝野晶子さんがこだわったのは、私の推測ですが、与謝野晶子さんの文学的感性にとって大町桂月さんの言葉には「突き刺さってくる何か」が確実に存在したからだと思います。
そこの世界で大きな共感やつながりを覚えるのになぜ?「政治思想的」には対岸に居るのか、自分を不思議に思ったからなのではないかと思います。
そんな風に与謝野晶子さんを思わせたかもしれない大町桂月さんの作品の詩をひとつご紹介。
君の膝枕にうっとり
もう飲みすぎちまって
君を抱く気にもなれない
―大町桂月
そして、辞世の句とされる青森県十和田市にある蔦温泉で詠まれた大町桂月さんの句がこちら。
―大町桂月
とても素敵な作品です。
そして、批判の騒動が鎮火した後は、大町桂月さんは与謝野晶子さんの作品を評価し、以降親交も深く、1925年に大町桂月さんが亡くなった際には与謝野晶子さんは『横浜貿易新報』(※現在の神奈川新聞)に追悼文を寄せています。
画像:http://touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku10.html
しかし、よく考えてみると、大町桂月さんが「以降与謝野晶子さんの作品を評価した」というのは当然で与謝野晶子さんの作風自体が、反戦思考から大町桂月さんの根ざしていた「国粋主義」的なナショナリズム維持の方向性へ寄ってきたためだと言えます。
与謝野晶子の方が
思想を寄せてきた結果。
◆与謝野晶子が反戦思想をやめた経緯に、「女性の自立と解放」への意欲があった 画像
もう一つ、与謝野晶子さんは明治の封建的な国家や家族制度について幼少期から苦しめられており、女性の自立と解放、女性の参政権獲得を強く主張していました。また、政治評論や教育問題についても評論を書いています。
画像:朝日新聞
弟が戦争から無事に帰ってきた理由の一つに「学問があった」というところがヒントになったのかもしれません。「学問」があれば、特別な仕事が与えられる。
そこから与謝野晶子さんは女性の自立というものを一旦のゴールで考えた時に、
女性が「教育を受け」「仕事を得て」「参政権を獲得できる」というところが必要だと考えたのかもしれません。
そして、「女性が教育を受ける」という状況を可能にするのは「国が強く、豊かでなければ実現しない」という現実に気づいたのです。世界中どこの国でも国力の弱い国家では、女性に教育や選択肢など与える余裕はないのです。
画像:文学館
1911年9月1日「青鞜」創刊号が出た日、与謝野晶子さんは女性解放運動を祝していたそうです。
山の動く日来る。
かく云えども人われを信ぜじ。
山は姑く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。
われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。
われは、われは。引用:『そぞろごと』冒頭抜粋
何度読んでもこの言葉に私はハッとします。
一人称にてのみ物書かばや。
われは女ぞ。
■与謝野晶子さんと与謝野鉄幹さんのバナナ関係はこちらです↓
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