絶世の美女だったと名高い美人の代名詞、小野小町ですが、どうやらその最期が壮絶だったらしいという伝説が残っています。
今回は絶世の美女・小野小町の壮絶な最期に迫ります。無常感たっぷりの小野小町の最期ですが、「九相図」として絵を残すなど、独特な死生観を持っていたというお話もあります。最後の歌、お墓についても調べてみました。
◆絶世の美女・小野小町の最期はかなり悲惨だったという伝説がある!?
■小野小町の最期に関する話は伝説である「百夜通い伝説」や「七小町伝説」のお話が前提となりますので、そちらがまだの方はこちらを是非ご覧ください↓
結構この辺から重いので(笑)、歌や恋の話の前に「絶世の美女の最後」がどういったものだったか、そちらに関する伝説伝承を先に載せておこうと思います。
重いものはサッサと片付けるに限ります。
◆小野小町の最期は?晩年は伝説伝承によると老婆老女で物乞いで亡霊で狂乱だった!?
若い頃の小野小町は、絶世の美女として世の男性からモテまくり、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないのですが、小野小町の晩年はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようです。パタン的には各小野小町の「伝説」に基づくものが多いようです。
ほかにも全国に70以上もの小野小町伝説があるということです。ザックリその晩年に関する各説を紹介していきたいと思います。
◆「七小町伝説」内での小野小町の晩年、最後と言われている伝説の話は?
以下は小野小町の「七小町伝説」の中の内容となります。
・「清水小町」…ある日在原業平が小野小町の住む小さなみすぼらしい庵を訪れます。在原業平から仏教へ帰依することを薦められた小野小町は、これは観音菩薩の教えであると悟り諸国めぐりの旅へ出ます。
・「関寺小町」…近江(おうみ)国、関寺の僧が和歌の話を聞くため、稚児(ちご)を伴って、あたりに住む老女の庵を訪れる。和歌の物語の端々から、僧たちは老女を小野小町の成れの果てと知る。老女になった小野小町の話
・「卒塔婆小町」…老婆となった小野小町が僧と問答。深草少将の怨霊に取り憑かれて狂う様
「七小町伝説」の伝説の中での小野小町の晩年は…
老婆・老女か乞食、物乞いか
深草少将の怨霊に取り憑かれて狂乱状態か
自分も亡霊
という悲惨ぷり。
また、「清水小町」での在原業平の提案通り、小野小町は仏教的な遺物を残したとされています(後述)また、在原業平とはその仏教への関連での延長かどうかはわかりませんが小野小町の最期に在原業平が立ち会ったという話も出てきます。先にその話が以下でご紹介します。
■小野小町は本当に美人だったの?
◆「七小町伝説」以外での小野小町の晩年・最期はどんな伝承があるの?
以下は小野小町の「七小町伝説」以外の話となります。
新たに、
ススキ野原で行き倒れて野晒し
老衰して貧窮し、悲惨な老醜
髑髏(どくろ)で在原業平と再会
などが出てきます。いずれもけた外れの転落っぷりです。
・「老衰落魄伝説」…小野小町は老後、容色が衰え生活にも困り、物乞いになって全国を漂泊した。最後はススキ野原で行き倒れて野晒しとなった。
・「玉造小町」…これは美貌を鼻にかけて増長し、帝の寵愛を得ることを願って男たちをの求愛をすべて拒絶した驕慢な女が、老衰して貧窮し悲惨な老醜を生き、因果応報の人生を終えたとする物語である。これが小野小町と同一人物であると混同された。
・「あなめ伝説」…在原業平がススキ野原で「秋風の吹くにつけてもあなめ、あなめ」(あぁ、目が痛い)と云う声を聞き、「小野とは云わじ薄生いたり」と下句を付けてやる声が止み、近寄ってみると、髑髏(どくろ)があり、その目からススキが生えていた。抜き取ってやると、それは小野小町の髑髏だった。
「あなめ伝説」は「吉原七小町伝説」に出てくる「清水小町」の後に、在原業平との再会があったという伝承のお話になっています。
「あなめ伝説」においては小野小町と在原業平はこのような歌を交わしています。
小野小町(髑髏)上の句:「秋風の吹くにつけてもあなめ、あなめ」(あぁ、目が痛い)
在原業平 下の句:「小野とは云わじ薄生いたり」
髑髏の目の穴からススキが生えていて、目が痛いという小野小町の声があり、在原業平がススキを髑髏からとってやるという伝説です。
小野小町と在原業平の同じようなやり取りのお話が室町時代に成立した「御伽草子『小町草子(こまちのそうし)』」にもあります。
在原業平が陸奥に下り、小野のすすきの原に小野小町の跡を弔うために訪れると声がして来たと言います。それがこの上の句。それに対し、在原業平は下の句で返します。
小野小町:「くれごとに秋風吹けばあさなあさな」
在原業平:「おのれとは言はじ、すすきの一むら」
すると、おもむろに小野小町の亡霊が姿を現し、在原業平に後世の弔いを頼み、消えて行ってしまいます。残されたのはススキの草むらに、白骨と一むらのススキだったという伝説です。
御伽草子の「小町草紙」は絶世の美女・小野小町の晩年をかなりキツメの転落で表現しています。
天性の美貌と和歌の才で浮名を流した小野小町が,年老いて見るも無残な姿となり,都近くの草庵に雨露をしのいでいた。里へ物乞いに出ると,人々は〈古の小町がなれる姿を見よや〉とあざける。彼女は東国から奥州へと流浪の旅を重ね,玉造の小野にたどりつき,草原の中で死ぬ。
歌道と仏道を結び付けた!?
御伽草子の「小町草紙」が、在原業平と小野小町を観音の化身とし、歌道と仏道を結びつけて中世の「小町伝説」を集成している。
一方で御伽草子の「小町草紙」はこのような見方もされているようです。また、研究者によると、小野小町の伝承伝説を語り歩いていた女が複数いたようだということも分かっているようです。
しかし、在原業平という人はモテるだけあって、イケメンでしたね。
伝説は和泉式部伝説と重なるところも少なくないところから,小野小町の生涯を語り歩く唱導の女たちがいたことが考えられる。…
女が伝説を語り歩いたというところで、絶世の美女・小野小町がこれでもかという程に転落し、哀れな老婆として語り継がれていった理由がちょっとそこにも多少ありそうな感じがしますね(笑)
結論:小野小町の晩年は
だいだい醜く老婆の姿(汗)
なんか、読んでるだけでツラクなってきました。
◆小野小町の最期の辞世の和歌ってあるの?九相図の伝説の裏付けになった?晩年の姿とされる画像
小野小町の辞世の一首だと認識されている壮絶な和歌があるのでご紹介します。この歌があって次項の『九相図』の話が伝説として登場します。
我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ
痩せたる犬の腹を肥やせよ
【意味】自分が死んだら、焼いたり埋めたりせずに野に放ってください。痩せ細った犬の腹の足しにでもなれば私は本望です。
そのままの姿で野に残置してくれということが九相図の世界観と近いということで伝説につながったようです。
これまでの華やかで情緒あふれる作品の色とは全く違う、ある種の超越・解脱した小野小町の感情がありますね。この辺りが次項にお話しする『九相図』に関する伝説と繋がってくることになります。
小野小町の晩年は、華々しいものとは隔絶した諸説と共に、小野小町の精神性の変化が見られます。
しかし、実際のところは謎が多く、不明なままです。
群馬県富岡市の「小町山 祥真院 得成寺(とくじょうじ)」もそのひとつ。
小野小町は13歳で宮中生活を始めるが、30代半ばで長谷寺(奈良県桜井市)の十一面観音のお告げをきっかけに故郷の出羽国(秋田県)へ向かう。東海道から中山道と旅する途中、当地で人には見せられないような顔になる病気にかかった。
村人に「霊験あらたかな薬師様が奉られている」と聞いた小野小町は薬師様まで朝に晩にと千日の願をかけたという。病が癒えた小野小町は貴重だった塩を薬師様に奉納、髪と爪も供えて小町塚とした。
小野小町が旅立ってから400余年後の1222(貞応元)年、小野小町の庵があった地に高野山から来た心全律師が「小町山 祥真院 普済寺」として開山。住民たちに小町伝説が伝わり続けていた証しだろうか。
家綱からは小町板絵と小町像も贈られた。板絵は狩野派が描いた全盛期の姿で華麗な顔が描かれている。対照的に「無我無心像」と名付けられた木彫り像は老いさらばえた姿を見せる。「小町伝説があったからこそ、家綱公は無常観を伝えたかったのではないか」。鈴木住職はそう考えている。
晩年の小野小町は
「無常観」がキーワード
美しい時代の小野小町だけでなく、老いてひどい状況になった小野小町の姿を残すものが多いようですね。
滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小野小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。
小町百歳像がこちら
結構ショッキングですね
◆小野小町の最期死因は?展示するため『九相詩絵巻(小野小町九相図巻)』として自分の死体の変化を描かせたってホント!?画像
結論から言うと、小野小町は和歌のほかにも自分の死体を『九相図』として後世に残していると言われています。『小野小町九相図』、住蓮山安楽寺、京都市『九相詩絵巻(小野小町九相図)』、如意山補陀落寺(小町寺)にあるらしいです。
◆小野小町が最期に残した死体の絵『九相図絵巻』とは?目的は仏教絵画としての煩悩をなくすための展示するためだった?
小野小町に関して調べて行って、初めて私も知ったのですが、小野小町は熱心な仏教徒だったため、自分が死んだ絵(九相図)をわざわざ描かせたという事らしいです。後世の仏教徒のために自分ができる事をした、ということかもしれません。
九相図:屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画
結構この「九相図」というものがグロくてですね。人が死んだ後の体の移り変わりを九の場面にわけて描いたもので、死後直後から徐々に腐っていき、最後は白骨化した状態までの工程を描いています。(今回はグロイものは載せません。)
絶世の美女が朽ちる自分の姿を絵に残すなんて。
かなり前衛的!?
『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。
- 脹相(ちょうそう) – 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
- 壊相(えそう) – 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
- 血塗相(けちずそう) – 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
- 膿爛相(のうらんそう) – 死体自体が腐敗により溶解する。
- 青瘀相(しょうおそう) – 死体が青黒くなる。
- 噉相(たんそう) – 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
- 散相(さんそう) – 以上の結果、死体の部位が散乱する。
- 骨相(こつそう) – 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
- 焼相(しょうそう) – 骨が焼かれ灰だけになる。
画像は京都市左京区の浄土宗安楽寺が宝物として所蔵する掛軸である「小野小町九相図」(三幅)から、一応これでもグロテクな部分を除いて紹介してみました(汗)。
その場合の問題の朽ちる9場面の名称は
8、骨連相 9、古墳相
となっています。
この工程を描かせたというだけで、小野小町がどれだけ体と魂をかけて後世(のため)に自分の跡を残したかが分かります。小野小町にとって、自身の美貌は存在価値のすべてだったように思えるような彼女の和歌でしたが、『九相図』を世に残すということは、その存在価値である「美貌」のすべてを捨て去り、ひっくり返すような行為でもある気がします。
これが本当に本人の意思で描かれた小野小町のものであるとするならば、最後に彼女が残した世の中の自分のイメージに対するレジスタンスだったのかな、とも思います。
美しいとは??
という問いかけ
死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。
仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。
「九相図」は
美女という煩悩を乗り越え
修行僧が悟りを得るためのもの
なぜ小野小町の死体の腐敗観察の絵が仏教絵画扱いになるのかというところで、修行中のお坊さんが殆ど男性だということと、男性の主たる煩悩=女性という話からのようです。煩悩を取り払うのが修行なので、肉体は不浄なもの、無常なものだと悟るために利用価値があったということのようです。
簡単に言うと九相図の目的は「小野小町のようないい女だって、こんなぐちゃぐちゃの死体になるのは一緒で、人間みんな死んだら骨になって土にかえるだけなんだぜ。だから、おまいら女にうつつ抜かしてないで修行がんばれよ」ということのようです。
『九相図』に描かれるのが全て美女であるというのもそうした理由からのようです。有名なのは小野小町のほかに檀林皇后だそうです。
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諸行無常ですね。。
◆大江定基(寂照法師)という九相図の模範的な実践者がいたらしい。死別の煩悶、執着を超える実践があった。
愛した人を失うというのは人生の中で大半の人に課せられたひとつの大きな課題です。まだ失って間もない時には生前の温もりや残り香すら心を引っ張り、それでも自分の中で鮮明に残る思い出や故人の声や笑顔を追いかけつつ、少しづつ確実に離れていくものを実感もしつつ乗り越えなければなりません。
平安中期の天台僧・寂照法師(~1034)という人は出家前、大江定基という中級貴族だったそうです。都には本妻を持ちながらも、三河守として赴任した大江定基は、その土地の女性と恋に落ちます。しかし、その女性が病死してしまったことから大江定基は亡骸を抱いて悲しみに暮れる日々を送ります。
夜も昼もなく遺骸に寄り添って生前のように言葉をかけ続け、脣を吸うことまでしたのだが、あるとき「あさましき香の、口より出できたりけるにぞ、うとむ心いできて、泣く泣く葬りてける」という。
引用元:シミルボン
離れがたい愛した女性の死体と過ごした後、それがかつての魂の宿る女性から朽ち行く肉体という残骸物体になるまでを見送り、後ろ髪ひかれながら葬ったことが良く分かる描写です。そこから大江定基は出家して寂照法師となったと言われています。
この大江定基を寂照法師たらしめたのが仏教の九相観の教えであり、九相観の諸相を絵画にしたのが九相図である。従ってこの寂照法師は、人体腐敗と白骨化の諸相を観相することで煩悩を断ち、淫欲を防ぐという九相観の模範的な実践者であり、九相図を眼前にした我ら屍処女が学ぶべき先達だということができよう。
引用元:シミルボン
余談ですが、その後、出家したものの都で乞食をやっていた寂照法師は本妻であった離縁した女性に再会しています。
『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ
引用元:Wikipedia
寂照法師は元本妻からの呪いすら感じる言葉を云い放たれています。やはり、昔から女性から恨まれて別れてはなりません。
◆「九相図」をよむ。なぜ小野小町の晩年や最期についての伝説は悲惨でなければならなかったのか?
晩年の小野小町に関する悲惨な伝承伝説はいずれも信憑性に乏しいもののようなのですが、こんな話や像や掛軸がなぜ大量に作られ、各地に頒布されたのかを考えた時に、日本全土共通の「ある種の戒め」のような印象を覚えます。
単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうです。
その点に着目した記述がありましたのでご紹介します。
若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。
近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、
若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小野小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小野小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。
お高くとまってちゃだめよ
という戒めの為の伝説。
小野小町の気丈さは、当時の女性としては考えられないほど和歌の才能を遺憾なく発揮した為、キラキラ輝いている女性として、和歌の世界に君臨させるに十分な力量を持っていました。
一方で、あまりにもそれが強い輝きのために眩しすぎて小野小町には誰も近寄ることができず、一人宮廷で和歌を詠む暮らしを続けていたともいわれています。
つまりは、失われる美貌や若さにお高くとまってないで、
・家族をもって、大事にしろよ
・多くの人から愛される人間になれよ
・じゃないと悲惨な老後が待ってるぜ
という、ひとつの「悟り」として、全国各地の家庭や村などの秩序の維持のために利用された可能性が高いのかな?と個人的には思いました。そうした「強烈な戒め普及」に対する需要が全国的にあった、ということなのかもしれません。
よりセンセーショナルな伝承にする為に、そもそも才能ある美人を転落させる必要があったということですね。
■小野小町の有名な「花のいろは」女性歌人はあと何人いたの?↓
◆九相図に描かれた女性は小野小町や檀林皇后のような美女か、若い女性が多く、遊女のものを浮世絵に描いた小林永濯(こばやしえいたく)の作品も存在する 画像
『九相図』は目的が仏教的な修行のためのものとあったためか、若い女性を描いたものが多かったようです。小野小町は100歳近い老婆、檀林皇后についても64歳前後での崩御と言われているので有名なふたりについては年齢よりも、「美女」という伝承から意味があったのかもしれません。
画像:https://matome.naver.jp/odai/2137207140163840401
また、遊女をモデルにした『九相図』を描いた小林永濯(こばやしえいたく)の作品も現存しています。方法は全く同じで、遊女の死体が死後に腐敗し、白骨化する過程までの9段階について描写しています。
遊女も男性からすれば煩悩の対象であり、そうした存在すら亡くなれば腐敗し、最後は白骨化するだけの存在となる無常観、対照的に魂の宿る刹那的な時間である「生」を見つめる機会として描かれたようです。
◆現代確認される土佐派・狩野派の絵巻を収載した『九相図資料集成』、現代作家にも目を向けた名著『九相図をよむ 朽ちてゆく死体の美術史』画像
2009年には現代確認される土佐派、そして狩野派の九相図絵巻をまとめた書籍『九相図資料集成 死体の美術と文学』が出版されています。
画像:http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-546-1.htm
次に紹介する名著と共に山本聡美さんという方の著作となっています。
図版編
カラー
六道絵 人道不浄相図(滋賀県・聖衆来迎寺蔵)*鎌倉時代 国宝
六道絵 人道不浄相図 模本(滋賀県・聖衆来迎寺蔵)
九相図巻(個人蔵)*鎌倉時代
九相詩絵巻(九州国立博物館蔵)*近年発見された新出絵巻 文亀元年 土佐派
九相詩絵巻(大阪府・大念仏寺蔵)*大永7年 狩野派
九相詩絵巻(東京大学国文学研究室蔵)*室町時代
九相詩絵巻(滋賀県・仏道寺蔵)*慶安4年 狩野永納筆
九想観法図絵(大阪府・久修園院蔵)*貞享4年 宗覚律師筆影印編
九相詩(早稲田大学図書館蔵)*江戸初期刊
九相詩絵入(上田市立図書館花月文庫蔵)*江戸初期刊か
九相詩歌(石川県立図書館李花亭文庫蔵)*貞享2年刊
般若九想図賛(石川透蔵)*元禄5年刊 独庵玄光撰
九想詩諺解(石川透蔵)*元禄7年刊 坂内直頼著
九想詩絵抄(禅文化研究所蔵)*文化7年刊 葛原斎仲通序
大経五悪図会(西山美香蔵)*弘化5年刊 東奥法照山撰
〔参考〕蘇東坡九相詩序(個人蔵)*慶長10年写 九相詩写本の最古引用元:http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-546-1.htm
こちらが大変評判の良い著作である『九相図をよむ』です。こちらの著作は芸術選奨文部科学大臣新人賞と角川財団学芸賞を受賞しています。
画像:amazon
<『九相図をよむ』レビューまとめ>
●肉体が腐っていき、獣についばまれ、白骨化する。人間とは何だろう、魂とは何だろう、そんな問いが見てはいけないような画像を直視させる。
●貴女の新死相のなまめかしい姿と、肪脹相や噉食相のおぞましい姿は美醜の両極端をなすものであるが、それらにはどこか『東海道四谷怪談』の戸板返しのような表裏一体性が感じられ、気色悪いのと同時に美しくもある。それが九相図の魅力であり不思議なところでもある。
●近代日本が失ったものの1つに九相図に関する共通認識があるという指摘は興味深い。
●死体を忌避する現代と過去の時代のギャップにうめく。
●九相観の目的、死体を観想する方法、不浄観から無常観へ、さらには日本文化に根ざした生と死についても考察している。
●朽ち果てて行く死体の「美」を説いた名著。
●死が清潔で脱色された現代において、醜く朽ち果てていく死体を克明に描いた九相図は、否が応でも生命の本質についての思索を我々に要求してくる。時代とともに役割を少しずつ変えてくる九相図は、現代において、また一つこれまでにない意味づけと役割を担ったのかもしれない
思わず私も購入してしまいました(笑)
◆小野小町をはじめとした日本の『九相図』の海外評価は?海外の反応はナスタージョに類似と思うかも?無常観は日本固有の国民的感情。 画像
2017年8月に奈良国立博物館で開催された『源信展』では大和国二上山の麓で生まれ、平安初期に「地獄と極楽」の概念とその番人である「閻魔大王」という仏教思想を広めたことで有名な和尚源信(942-1017)の展示が催され、その展覧会では檀林皇后の『九相図』も展示されていたようです。
画像:個人ブログ
その展覧会へ行かれた人の感想を見てみると、入場者のほとんどが外国人ということで、現代の日本においては国内よりもむしろ海外の人々の方が『九相図』に何か足を運ぶ価値を見出しているようです。
これが、先ほどのレビュー内にもあった、
近代日本が失ったものの1つに九相図に関する共通認識がある
ということなのかもしれません。
入場者の殆どは外国人観光客、経典は漢字、中国人には難しい古典の経典が読めるらしく、母親が子供たちに読んで聞かせていたのが感動的です。
引用元:個人ブログ
西洋にもジョヴァンニ・ボッカッチョの有名な小説である『デカメロン』のストーリーをボッティチェッリが『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』として自身の円熟期の作品にしています。
残酷な連作の絵画。
ストーリーを簡単に内容をざっくりと書くと…
とある若者が裕福な家の冷淡で傲慢な性格の女性に恋をするが何度求婚してもはぐらかされてしまい、恋の苦悩を募らせていたところ、ある日森の中で犬の兇暴な鳴き声の猟犬と馬に乗った騎士に追い掛け回され悲鳴を上げながら逃げ回る女性を見かけます。
若者が彼女を助けようとしたところ、馬に乗った騎士は追いかけている理由が神からの「永劫の罰」だと知らされます。なぜ二人が罰を受けることになったかというと、黒装束の騎士はかつて女への恋心がかなわずその苦悩から自ら命を絶っており、女の方はそれを喜んだため神の逆鱗に触れたということでした。
騎士は追いかけ回し、「冷酷な心臓と内蔵を犬に食べさせること」を掟にされ、女は死んだ後、何度も蘇らされ、再び騎士に追いかけられるという呪いである。必ず騎士がある地点で追いつき、彼女を剣で一刀両断する。彼女が死ぬのは毎週金曜日であり、残り六日はひたすら騎士から逃げ惑うという、まさにダンテの『地獄篇』におけるウゴリーノ伯を越えるほどの苦しみの罰である。
引用元:個人ブログ
画像:個人ブログ
残酷で
猟犬に食べられる事態は
かなり近いものが。
しかし、類似性がある事実ではありますが、日本の『九相図』が他者の救いの為に当人が行っており、与えられたものは悟りを開き幸福へ向かっていくための行為であるのに対して、ヨーロッパのお話には脅迫に近く、ひとつも救いがないように見えてきます。
同じ事実をみても、「絵」がもたらす影響は全く違う種類のものであることがはっきりと分かります。
画像:個人ブログ
でも、他文化の人には
その違いや感覚は分からず
類似性を見出すかもしれない。
日本人の多くはサクラのように刹那的な移ろいゆくものにこそ美を感じる民族的感性を持っており、「無常」「無常観」は、日本人の美意識の特徴の一つと言えるのかもしれません。
◆現代の九相図の実写版がアメリカにある!?テレビ番組『クレイジージャーニー』紹介のテキサス州立法医学人類学研究所 ツイッター画像
2018年8月には松本人志さんが出演したテレビ番組『クレイジージャーニー』ではアメリカテキサス州に実写版の九相図ともいえる場所があることを「奇界遺産」として紹介していました。
画像:twitter
何でも、研究のために寄付された亡くなった後の人間の体をその敷地のあちこちに約50体放置して研究するという、公的な研究所であるそうです。
テキサス州が世界で最大の26エーカー(約10万平方メートル)という敷地上で「実写九相図」を行っている場所らしいのですが、驚くべきことに、世界にはその他にも6か所、計7か所同じような目的の敷地があるそうです。
人間が地球へと還っていく
プロセスを研究しているそうです。
画像:twitter
ロバート・シュルツ氏というグアテマラ育ちの写真家は写真を通して、こうした研究所の知られざる活動に密着してその様子を追いかけた人の一人です。
シュルツは研究所での経験を通じ、人間という生物の存在についても考えさせられたのだという。「人間が地球へと還っていき、まず最初に植物や動物に命を分け与えるような場所に立つのは、とてつもなく強烈な経験です」と彼は語る。
死のプロセスの真っ只中に身をおくというのは、とりもなおさず、生について考えることでもあるのだ。
引用元:https://wired.jp/2017/05/28/the-washing-away-of-wrongs/
まさに地球に還る体の姿を見ることは、日本での「九相図」が修行僧に対して悟りへ導いた工程と同じ状況を人へもたらすようです。
◆小野小町の最期の地・墓所はどこにあるの?ここにもいくつかの伝説が。
さて。
ようやく小野小町のキツイどころを乗り越えました(笑)
少しホッとして小野小町の墓所の話になりますが、こちらも出生地同様に全国に候補地(?)が点在していました。小野小町の最期は故郷である出羽郡今の秋田(?)に帰る途中に、宮城県の大崎市で亡くなったというのが有力なようです。この地にお墓は一応あるのですけれども、何故か各地にも点在している状況です。
小野小町のお墓がある地は以下(一部)
宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。
小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。
秋田県湯沢市小野には「二ツ森」という深草少将と小野小町の墳墓もあります。深草少将は実在の人物でなかったとされていますが、お墓はあるんですね(笑)
今回は小野小町の壮絶な最期を先にお届けしました。ちょっとホラーな話が多かったのですが、次回は華々しい時代の小野小町らしい恋の話と恋の歌のご紹介をしようと思います♪
■小野小町の恋の歌にも在原業平が登場します↓
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