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小野小町の性格・性別は?美女の理由は紀貫之!?晩年と最後は?死体の絵がある?お墓はどこ?

●刹那的/はかない 属

現在の世に至っても絶世の美女だったと名高い美人の代名詞、小野小町ですが、それ以外の情報に関しては彼女がどんな人、人生だったかはあまりよく知られていません。日本史の中で女性は決して好待遇ではありませんので平安時代の女性のご多分に漏れず、謎が多い彼女ですが

第3弾の今回は絶世の美人の壮絶な最期に迫ります。無常感たっぷりの小町の最期ですが、その昔その時代で最もキラキラしていた彼女の最期からもカケラをいただきましょう♪

モテ女・小町の性格は?

 

 

前回第2弾でがっつりお話した内容と少し被るんですが、平安時代の美人の条件には内面的な部分がかなりの比重でかかわってきます。

少しおさらいしてみましょう。

<美人の内面的条件>

  • 会話の上手さ
  • 知識の豊富さなどの教養
  • 人間性や情緒の豊かさ溢れる和歌
  • を美しく書けること
  • 楽器ができること
  • 控えめで自己主張をし過ぎない奥ゆかしさ(品)

 

「美人」として歴史に名を刻むほどの小野小町ですから、内面的要素の条件についてもおそらく大半合致していた、もしくは合致させることができたであろうと推測されます。

 

【写真画像】百人一首の歌人・小野小町は可愛い?美人顔でない?その条件とは?七小町伝説とは?
現在の世に至っても絶世の美女だったと名高い美人の代名詞、小野小町ですが、それ以外の情報に関しては彼女がどんな人、人生だったかはあまりよく知られていません。日本史の中で女性は決して好待遇ではありませんので平安時代の女性のご多分に漏れず、謎が多...

 

それぞれの要素をもう少し細かく分析して見て行くことにしましょう。

 

 

<美人の内面的条件>

●会話の上手さ

柔軟性があり、相手の気持ちを推し量ることができる

●知識の豊富さなどの教養

→箱入り娘・勤勉でマメなところがある

●人間性や情緒の豊かさ溢れる和歌

→感情表現が豊かに表現できるほどの情緒

●字を美しく書けること

几帳面で手先が器用、丁寧

●楽器ができること

根気がある、器用、それなりに裕福な家

控えめで自己主張をし過ぎない奥ゆかしさ(品)

 

【まとめ】

小町の性格は…

柔軟性があり、思いやりがあり、博識。真面目でマメで感受性が豊かで几帳面で手先が器用。根気があって、控えめであり、奥ゆかしい、裕福な家育ちのおっとりとした性格

 

に、近い性格と推定されます。そんな奴いないよ!って感じなのですが、すごーく頭がよくて、全部演じることができたかも?しれませんけどね(笑)

 

管理人kira2
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そんな女性は現代では絶滅しました。

 

小町は肉食だったってホント?

 

さかのぼると646年の大化の改新の詔(みことのり)において「諸国の百姓が農月に酒を飲み、肉を食うことを禁ず」としたことが最初の肉食禁止令とされているそうです。「農月」とは4~9月の農繁期のこと。農作物の収量はそのまま収税にもつながるため、禁止して、少しでも多くの農作物を生産できるようにというところからのようです。

 

 

8~9世紀には桓武天皇が数度にわたり、殺牛禁止令を発布。その後も幾度となく「肉食禁止」は発布されるが、それは何度お触れを出しても、庶民の肉食が止まなかったことの証とも言える。

 

小野小町も例外ではなく、クマ、ウサギ、鹿肉、イノシシを好んでいたといいます。肉食女子どころか、もはやジビエ女子という感じなのですが、調べたところ、イノシシはビタミンB1鹿は鉄分を多く含むなど、獣肉は身体にいい食材らしいです。ジビエを日常食とすることで冷え性が改善されることが確認されています。

 

どういうことかというと。

 

 

実は、小町は女盛りを伸ばそうとして、大変努力していたというエピソードがあるようなのです。

 

平安後期の著作にみられる『玉造小町子壮衰書』のヒロイン・玉造小町は、小町をモデルにしたといわれ、若いときにさる貴族に愛され栄華を極めたという物語。

玉造小町の食膳は山海の珍味であふれていたが、どれも美容効果のあるものばかり。

主菜の「熊の掌」は、単に美味なだけではなく、美容効果のあるコラーゲンがたっぷりなのだ。

 

管理人kira2
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どの時代も女性が考えることは一緒なのですね。

 

 

クマの掌はコラーゲンいっぱい♡

 

コラーゲンはタンパク質の一種で、老化を防ぎ、肌などの若さを維持するには重要な成分。歳をとるにつれて肌が衰えシワが増えるのは、コラーゲンの生成能力が低下するのが原因のひとつ。したがって、

歳をとればとるほど、コラーゲン成分の多いものをとることが、若さを保つ長寿法にもつながるのだ。

 

小野小町の時代から、女性は若さを保つために日々惜しみない努力を重ねていたのですね!

 

小町を絶世の美女にしたものは紀貫之の評価!?後姿なのはなぜ?

 

前回、第2弾で平安時代の貴族では女性はほとんど顔を他人に見せることはなかったという話をしました。文や歌を交わすだけで、会話をするにも暗がりの中、御簾(みす)を通して、ということで、

そのまでにも、口説いて口説いて口説いてやっと寝床に入れるわけで、男性は口説く前には顔なんて見ていなかったんですね。

 

 

殆どの人が見たことがない小野小町!(笑)

 

小野小町の美人伝説を生み出したのはでは一体何だったのか?

それはこの頃の歌人、紀貫之の彼女に対する評価が第一の原因だと考えられています。

紀貫之というと「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」で始まる「土佐日記」を仮名という自由度の高い新しい表現方法にチャレンジして書いた人で、平安時代の代表的歌人でした。

 

 

イケメンぽーい♡

 

紀貫之は、平安中期を代表する歌人で、小町を絶賛して六歌仙の一人に選び、また20首近い彼女の歌を自ら編纂した古今和歌集に納めたのであった。

 

『古今和歌集』小町の和歌を採用したのも、六歌仙小野小町を入れたのも紀貫之だったのですね。

そして彼は、小野小町の歌を評して

衣通姫(そとおりひめ)と感じが似ている

と感想を述べているくだりがあるのだそうです。

 

小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。(紀貫之)

 

衣通姫とは、日本書紀や古事記で登場する古代美人で、「和歌三神」の一人に数えられているほどの和歌の名手であったと言われているそうです。

また、あまりに美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれたほどの絶世の美女でもあったらしいのです。

 

 

紀貫之は、小町の歌をか弱くも美しい女心を歌った点で衣通姫の歌と同じような感じがすると感想を述べただけw つまり、小町歌を評価しただけなのです。

 

小町が美女であったなどとは一言も言っていなかった。

 

だいたい、貫之小町よりは80年も後の時代の人間とのこと。

 

「小町の作品は衣通姫のと似てるよね」

↓↓↓    が   ↓↓↓

「小町と衣通姫(絶世の美女)似てるよね」

 

うん、おしい(笑)!

 

こうして解釈されて広まっていったようなのです。小町美人伝説は尾ひれをつけて急速に広まっていくことになりました。

そういうわけで、紀貫之の書評こそが、後世の伝説を生み出す原因となっていった可能性が濃厚と思われているようです。

 

ちなみに小町の絵が後ろ向きばかりなのは、『絵にも画けない美しさ』 だからだそうです(笑)

 

管理人kira2
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ブスの評判じゃなくてよかったよね(笑)

 

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小野小町の性別は男性だった??

 

紀貫之は当時女性が使う仮名文字を男性である紀貫之が使うという、新しいチャレンジをした人でしたが、小野小町には何と男性疑惑があるようです。

 

 

小野小町は、大変美しい女性なのに、最後まで結婚しなかったとされています。さらに最後は美しさなど微塵もない状態で独り身のまま寂しく物乞いになったという終末の伝説すらあります。

 

美しさや能力を評価されて高飛車になり、「吊り合う男がいない」と突っ張る事もできますが、この時代、女性であり後ろ盾が無いということは、野垂れ死にすることを意味します。

 

時代が時代ですから、夜這い婚(語源は「呼ばひ」で「自然発生的な求婚手段であった」)ですから、男は通い放題のはずなんですが、美人でお声もたくさんあったはずなのに、それがなかった、男を受け入れなかったと言われています。

 

そこから、

小野小町の性別は男なんじゃないか?(笑)

 

という話があったようです。

 

(穴なし伝説)

この伝説が、小野小町は女陰を持っていなかったと云う「穴無し」伝説を生み、

更には、孔のない仕付け針を「小町針」と云うに至った。

 

男嫌いだった可能性や、操を立てた男性が死んだので、操を通した可能性もあります。はたまた、深草少将のモデルになったような人物が実は居て、恋した男が来てくれなかったので、悲嘆にくれたと言う可能性もあります。

 

管理人kira2
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そのくらい、もうぶっちゃけ男の人は要らなかったということなんでしょうね。

 

絶世の美女の小町の最後~小町晩年って?

 

先に結構この辺から重いので(笑)、歌や恋の話の前に「絶世の美女の最後」がどういったものだったか、そちらに関することを先に載せておこうと思います。

 

管理人kira2
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重いものはサッサと片付けるに限ります。

◆小町の最期は悲惨だった?

 

若い頃の小町は、絶世の美女として世の男性からモテまくり、誰もがうらやむ美しさで多くの男を虜にしたのかもしれないのですが、彼女の晩年はとことん落ちぶれて、悲惨な伝承がかなり多いようです。パタン的には第2弾でお話した各「伝説」に基づくものが多いようです。

よろしければこちらをご参照ください(笑)

 

【写真画像】百人一首の歌人・小野小町は可愛い?美人顔でない?その条件とは?七小町伝説とは?
現在の世に至っても絶世の美女だったと名高い美人の代名詞、小野小町ですが、それ以外の情報に関しては彼女がどんな人、人生だったかはあまりよく知られていません。日本史の中で女性は決して好待遇ではありませんので平安時代の女性のご多分に漏れず、謎が多...

 

このほかに全国に70もの小町伝説があるということです。ザックリその晩年に関する各説を箇条書きにすると…

 

 

「卒塔婆小町」…老婆となった小町が僧と問答。深草少将の怨霊に取り憑かれて狂う様

「清水小町」…陸奥の僧が小町の霊と出会い、現深草少将との恋の妄執により小町が成仏していないことを語る。僧の弔いによって成仏する。

「関寺小町」…老女になった小町

・「老衰落魄伝説」…小町は老後、容色が衰え生活にも困り、物乞いになって全国を漂泊した。最後はススキ野で行き倒れて野晒しとなった。

玉造小町」…これは美貌を鼻にかけて増長し、帝の寵愛を得ることを願って男たちをの求愛をすべて拒絶した驕慢な女が、老衰して貧窮し悲惨な老醜を生き、因果応報の人生を終えたとする物語である。これが小野小町と同一人物であると混同された。

あなめ伝説」…在原業平がススキ野で「秋風の吹くにつけてもあなめ、あなめ」(あぁ、目が痛い)と云う声を聞き、「小野とは云わじ薄生いたり」と下句を付けてやる声が止み、近寄ってみると、髑髏があり、その目からススキが生えていた。抜き取ってやると、それは小町の髑髏だった。

 

だいだい醜く老婆の姿(汗)

 

管理人kira2
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なんか、読んでるだけでツラクなってきました。

◆小町の辞世の和歌とは?

 

小野小町の辞世の一首だと認識されている壮絶な和歌をご紹介します。この歌があって次項の『九相図』の話が伝説として登場します。

 

我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ 

痩せたる犬の腹を肥やせよ

【意味】

自分が死んだら、焼いたり埋めたりせずに野に放ってください。痩せ細った犬の腹の足しにでもなれば私は本望です。

これまでの華やかで情緒あふれる作品の色とは全く違う、ある種の超越・解脱した感情がありますね。この辺りが次項にお話しする『九相図』に関する内容と繋がります。

小野小町の晩年は、華々しいものとは隔絶した諸説と共に、小町の精神性の変化が見られます。
しかし、実際のところは謎が多く、不明なままです。

 

群馬県富岡市の「小町山 祥真院 得成寺(とくじょうじ)」もそのひとつ。

小町は13歳で宮中生活を始めるが、30代半ばで長谷寺(奈良県桜井市)の十一面観音のお告げをきっかけに故郷の出羽国(秋田県)へ向かう。東海道から中山道と旅する途中、当地で人には見せられないような顔になる病気にかかった。

村人に「霊験あらたかな薬師様が奉られている」と聞いた小町は薬師様まで朝に晩にと千日の願をかけたという。病が癒えた小町は貴重だった塩を薬師様に奉納、髪と爪も供えて小町塚とした。

小町が旅立ってから400余年後の1222(貞応元)年、小町の庵があった地に高野山から来た心全律師が「小町山 祥真院 普済寺」として開山。住民たちに小町伝説が伝わり続けていた証しだろうか。

家綱からは小町板絵と小町像も贈られた。板絵は狩野派が描いた全盛期の姿で華麗な顔が描かれている。対照的に「無我無心像」と名付けられた木彫り像は老いさらばえた姿を見せる。「小町伝説があったからこそ、家綱公は無常観を伝えたかったのではないか」。鈴木住職はそう考えている。

 

晩年の小町は全般「無常観」がキーワード

 

小町板絵

小町板絵

 

美しい時代の小野小町だけでなく、老いてひどい状況になった小町の姿を残すものが多いようですね。

 

滋賀県大津市の月心寺には「小町百歳像」という像があるらしいが、ネットで画像を探すと、ここまで醜く小町を彫るかと驚いてしまった。薄暗いお堂の中では、妖気がこもって怖ろしく感じることだろう。

 

小町百歳像

小町百歳像

 

晩年の小町に関する悲惨な話はいずれも信憑性に乏しいもののようなのですが、こんな話や像や掛軸がなぜ大量に作られ、各地に頒布されたのかを考えた時に、日本全土共通の「ある種の戒め」のような印象を覚えます。単純に小野小町の美貌と才能を妬んだからというのではなさそうです。

その点に着目した記述がありましたのでご紹介します。

 

若い時にいくら周囲からチヤホヤされて浮き名を流した女性でも、やがて老醜を蔑まれ惨めな人生を迎える時が来る。いくらお金をつぎ込んでも「老い」を避けることは不可能だ。つまるところいつの時代も、老いても多くの人から愛される人間になることを目指すしかないと思うのだ。

近所づきあいをせず家族もなければ、今よりもずっと悲惨な老後が待っていた時代でもあった。
そこで、孤高では老後を生きていくことができないということを伝えるために、若かりしときは伝説の美人であり才女であった「小町」の老いさらばえた姿を絵や物語に登場させることになったのだと思う。「小町」の伝承が全国にやたら多いのは、史実と物語とが時代と共に渾然としてきて、その見極めができなくなってしまったからなのだろう。

 

小町の気丈さは、当時の女性としては考えられないほど和歌の才能を遺憾なく発揮した為、キラキラ輝いている女性として、和歌の世界に君臨させるに十分な力量を持っていました。
一方で、あまりにもそれが強い輝きのために眩しすぎて誰も近寄ることができず、一人宮廷で和歌を詠む暮らしを続けていたともいわれています。

 

つまりは、失われる美貌や若さにお高くとまってないで、

・近所づきあいちゃんとしろよ

・家族をもって大事にしろよ

・多くの人から愛される人間になれよ

・じゃないと悲惨な老後が待ってるぜ

 

という、ひとつの「悟り」として、全国各地の家庭や村などの秩序の維持のために利用された可能性が高いのかな?と個人的には思いました。そうした「強烈な戒め」に対する需要が全国的にあった、ということなのかもしれません。

 

管理人kira2
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そもそも美人を幸薄いものにしたがる傾向がありますね。

百人一首の歌人・小野小町とは?出身地(生誕地)は秋田?家系図は?「ミス小町」写真画像あり
現在の世に至っても絶世の美女だったと名高い美人の代名詞、小野小町ですが、それ以外の情報に関しては彼女がどんな人、人生だったかはあまりよく知られていません。日本史の中で女性は決して好待遇ではありませんので平安時代の女性のご多分に漏れず、謎が多...

 

 

小町の最期死因・九相図として死体を描かせたってホント!?

 

結論から言うと、小野小町は和歌のほかにも自分の死体を『九相図』として後世に残しています。『小野小町九相図』、住蓮山安楽寺、京都市『九相詩絵巻(小野小町九相図)』、如意山補陀落寺(小町寺)にあるらしいです。

◆『九相図』って何?

 

小野小町に関して調べて行って、初めて私も知ったのですが、小野小町は熱心な仏教徒だったため、自分が死んだ絵をわざわざ描かせたという事らしいです。後世の仏教徒のために自分ができる事をした、ということかもしれません。

 

九相図:屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画

 

結構コレがグロくてですね。人が死んだ後の死体の移り変わりを九の場面にわけて描いたもので、死後直後から徐々に腐っていき、最後は白骨化した状態までの工程を描いています。

 

死後直後

生前相

 

『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。

 

  1. 脹相(ちょうそう) – 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
  2. 壊相(えそう) – 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
  3. 血塗相(けちずそう) – 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
  4. 膿爛相(のうらんそう) – 死体自体が腐敗により溶解する。
  5. 青瘀相(しょうおそう) – 死体が青黒くなる。
  6. 噉相(たんそう) – 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
  7. 散相(さんそう) – 以上の結果、死体の部位が散乱する。
  8. 骨相(こつそう) – 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
  9. 焼相(しょうそう) – 骨が焼かれ灰だけになる。

 

画像は京都市左京区の浄土宗安楽寺が宝物として所蔵する掛軸である「小野小町九相図」(三幅)でから、一応これでもグロテクな部分を除いて紹介してみました(汗)。

 

その場合の9場面の名称は

1、生前相 2、新死相 3、肪脹相 4、血塗相 5、肪乱相 6、青瘀相 7、噉食相

8、骨連相 9、古墳相 となっています。

 

血塗相

新死相

 

この工程を描かせたというだけで、小野小町がどれだけ体と魂をかけて後世(のため)に自分の跡を残したかが分かります。小野小町にとって、自分の美貌は世の中の存在価値のすべてだったように思えるような彼女の和歌でしたが、『九相図』を世に残すということは、その存在価値である「美貌」のすべてを捨て去り、ひっくり返すような行為でもあります。

 

これが本当に本人の意思で描かれた小野小町のものであるとするならば、最後に彼女が残した世の中の自分のイメージに対するレジスタンスだったのかな、とも思います。

 

死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。

仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。

 

骨連相

骨連相

 

なぜ小野小町の死体の腐敗観察の絵が仏教絵画扱いになるのかというところで、修行中のお坊さんが殆ど男性だということと、男性の主たる煩悩=女性という話からのようです。煩悩を取り払うのが修行なので、肉体は不浄なもの、無常なものだと悟るために利用価値があったということのようです。

 

焼相

古墳相

簡単に言うと小野小町のようないい女だって、こんなぐちゃぐちゃの死体になるのは一緒で、人間みんな死んだら骨になって土にかえるだけなんだぜ。だから、おまいら女にうつつ抜かしてないで修行がんばれよ」ということのようです。

 

『九相図』に描かれるのが全て美女であるというのもそうした理由からのようです。有名なのは小野小町のほかに檀林皇后だそうです。

 

管理人kira2
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諸行無常ですね。。

 

小野小町の墓所

 

小町の墓所も出生地同様に全国に点在していました。小町の最期は故郷である出羽郡今の秋田(?)に帰る途中に宮城県の大崎市で亡くなったと言われています。この地にお墓は一応あるのですけれども、何故か各地にも点在している状況です。

 

 

宮城県大崎市、福島県喜多方市、栃木県下都賀郡岩船町、茨城県土浦市、茨城県石岡市、京都府京丹後市大宮町、滋賀県大津市、鳥取県伯耆町、岡山県総社市、山口県下関市豊浦町などがあるそうだ。

小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。

 

秋田県湯沢市小野には「二ツ森」という深草少将小野小町の墳墓もあります。深草少将は実在の人物でなかったとされていますが、お墓はあるんですね(笑)

 

管理人kira2
管理人kira2

今回は第3弾として、小野小町壮絶な最期を先にお届けしました。ちょっとホラーな話が多かったのですが、次回は華々しい時代の小町らしい恋の話と恋人の話、ステキな和歌のご紹介をしようと思います♪

 

 

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