今回は日本全国に未だに絶世の美女として言い伝えられている小野小町の美貌と性格、平安時代のモテ女の条件や美人の条件、顔も見られない小野小町を美女にしたのは紀貫之だった?という噂の真相や、世界三大美女との共通点を探っていきたいと思います!
◆小野小町は美女?そもそも平安時代は美人顔なの?
現代人からすると、美女と言われている小野小町は目鼻立ちも派手ではないし、残っている絵を見てもアイドル顔には程遠いし、そんなに小野小町が絶世の美女には見えないんだけど…と思う方も多いはず。
ちょっと怒った顔したら般若みたいになりそうですしね。
でも、
平安時代には
美人だったんでしょ?
今回はそこに迫ってみたいと思います。
小野小町ってどんな顔だったの?ってことをまず知りたいのですが、これも他の小野小町に関する情報と同じで、顔写真や肖像画なども存在しませんし、容姿についての具体的な言い伝えも殆ど残っていないのです。全く何もないのに、「小野小町が美人」ということだけが明確に言い伝えられて残ってきている。不思議な現象です。
◆小野小町は美女なのか?平安時代の美人の条件 その①顔立ち・外見
ただ、美女・小野小町の顔立ちが具体的にはよく分からないにしても、平安時代の美人の条件というのはどんなものだったか、だいたい分かっています。
平安時代の美人の条件って??
<美人の条件ー外見編>
●小さいながらも、鼻先がつんと尖ってしっかり筋の通った鼻
●小さめで控えめなおしとやかな口
●ふくよかで柔らかそうな頬、「しもぶくれ」顔であること
●きめが細かくて色白の美肌
●長くあでやかな艶のあるサラサラの黒髪
●ぽっちゃり体型で、ふくよかな体つきをしていること
●化粧がおしろい(白粉)
●引眉(ひきまゆ)元々の眉毛を処理し、横長の円の形の眉を描く。眉と目が離れていればいるほど美しいとされるのである。
●綺麗な声 和歌を詠む声がきれいだと、魅力的な女性
かなり具体的に分かっていた!
貴族階級においては、女性は家族や親戚といった親しい人以外には顔を見せないことが決まりとなっていました。そのため、実際のところは、他人からはその女性が美人かどうかを推察するのは困難だったのです。
御簾(みす)を通して会話をし、気の合う女性の寝床に夜這いをしかけて、初めてその顔を確認することができたのです。
寝床を共にするまで
顔面の確認ができない時代。
この話からすると、美女・小野小町をそもそもちゃんと顔を見て確認することができる人が少なそうですね。女性の外見を他人である男性が見ることは非常に困難な時代にどうして「美人」の評判が立ったのか気になります。
基本的には暗がりでしか見ることができなかったので、メイクは白粉に引眉、お歯黒とわかりやすくてなまめかしいものが好まれていたことがわかっています。
なまめかしいというか、コワイです(笑)
美女・小野小町の時代は頬の白とお歯黒の黒でコントラストが利いた怖いメイクだったようですね(笑)肌の白さを際立たせるためだったのでしょうか?
口紅は中央部分に控えめに塗り、自己主張をし過ぎない女性が美人の条件であると考えられていました。
黒髪のサラサラロングヘアーが好まれたのは、夜に月明りの下できれいに見えて、男性を虜にする妖艶さを演出する効果があったからだと言われています。
つまり、平安時代の女性も、男性からモテるために美女・小野小町をはじめとした女性たちはセクシーである努力をしていたみたい!
平安時代は細かい外見の要素よりも、御簾ごしのやり取りで美人に思える大まかなフォルムのイメージを与えられることが大事だったようですね。目には見えない「声」や「控えめ」というポイントも出てきました。
◆小野小町は美女なのか?平安時代の美人の条件 その②教養
前述のように、平安時代には「顔立ち」があまり確認できませんでしたので、そうした外見以外「中身・性格」の条件に対する価値や配点が高かったようですね(笑)
美人は
顔だけじゃなかった平安時代。
平安時代の貴族階級においては、見た目だけでなく中身の方も美人の条件として非常に重要視されていたのです。
たとえば、和歌のうまさであったり機知に富んだ会話のやりとりなどはとても重要なポイントとなります。
当時の上流階級では、みやびな風情こそが「おかし」という表現で大切にされていました。
<美人の条件ー内面編>
●知識の豊富さなどの教養
●人間性や情緒の豊かさ溢れる和歌
●字を美しく書けること
●楽器ができること
●控えめで自己主張をし過ぎない奥ゆかしさ(品)
特に女性は琴、男性は笛の演奏が上手いことが教養の持ち主であることを意味したそうです。そのため楽器が上手い男女が集まると、互いに演奏をしたという話もあります。
楽器が美人の条件なんて
感度高っ(笑)
当時の典型的な恋愛は、まず男女で和歌のやりとりを繰り返し、男性も女性もその雰囲気が気に入れば、男性の夜這いを許すというのが流れだったようです。
和歌は夜這いの入り口。
初めて夜に男女関係を持つ時まで、お互いの顔を見ることはないわけで、男性が口説き落としている時に小野小町の顔は殆ど見ていなかったはずなのですね。
つまり小野小町は
和歌と声と体のフォルムと会話でモテた!
■小野小町の恋の歌はこちら↓
源氏物語では源氏は複数の女性に気持ちを奪われながらも、和歌の出来栄えや字の美しさ比較して、よく女性の査定に入れていましたね(笑)。
美女・小野小町の時代は顔立ちだけでなく、このような条件を満たす女性を総合して「美人」といったようです。
美人=顔がキレイ
ではなく、平安時代は
美人=魅力にあふれる
だったようですね。
画像:twitter/https://twitter.com/momotaro___bot/status/1132227722845888512
源氏にはいざ顔を見たらドブスだった!なんて話もありましたけどね(笑)
◆それで、美女・小野小町は本当に美人でモテてたの?
美女・小野小町に関する残された逸話からは、ともかく美人でかなりモテた女性であることは間違いないようです。
実際の小野小町の顔立ちに関してはまったく不明ですが、美女・小野小町の場合は和歌が大変高く評価されていたことや、教養があったことが分かるので、いずれにしても教養の部分で男性からかなりの美人評価があったと思われます。その他にも色々な条件から男性の心をつかんでいた可能性が高いですね。
小町モテモテやん。
小野小町は
六歌仙に選ばれた
唯一の女性。
そのくらい和歌はお手のもの。
紀貫之が、古今和歌集の序文に「近き世にその名きこえたる人」として六歌仙の一人にあげるくらいですから、相当な知性を備えた女性であったことは間違いありません。
「美人」という概念において、平安時代と現代の間には外観的には大きな違いがありますが、内面的なところでは何となく共通する部分もたくさんありますね。
結論としては…
美女・小野小町は
やっぱり美人でモテたっぽい(笑)
小町良かったね♡
◆小野小町が美女だった平安時代の内面的「美人」の定義まとめ
ついてなので美女・小野小町が生きた平安時代の「美人」に関する、それぞれの要素をもう少し細かく分析して見て行くことにしましょう。
<美人の性格・内面的条件まとめ>
→柔軟性があり、相手の気持ちを推し量ることができる
→歌を詠む声や、話し方のトーンなど
→箱入り娘・勤勉でマメなところがある
→感情表現が豊かに表現できるほどの情緒
→几帳面で手先が器用、丁寧
→根気がある、器用、それなりに裕福な家
これらの要素を改めてみてみると、平安時代の「美人」の内面的条件は、かなりの比重で「和歌」に関連しており、それ以外には会話の豊かさや楽器や声といった音に関することなど、あらゆる面で「感性」や「感度」が大事にされていた時代だったようですね。
感度が高くて奥ゆかしいというのが一番難しそうですねw
◆平安時代のモテ女・小野小町は美女な性格?
総合すると小町の性格は…
柔軟性があり、思いやりがあり、博識。真面目でマメで感受性が豊かで、几帳面で手先が器用。根気があって、控えめであり、奥ゆかしい、裕福な家育ちのおっとりとした性格
…に、かなり近い性質の女性だったはず!ということになりますが…
そんな性格の女の人
いる感じがしないんだけど(笑)
いかんせん小野小町は才女ですから、性格面でも
やろうと思えば、足りない部分は演じることができた
のかも?しれませんね(笑)
小野小町は
性格的には「気が強い女」だったのでは?
私が持っている小野小町の印象では、とても意志が強く、頑なな面も垣間見られることから、かなり気は強かったのではないか?と思います。タイプでない男性に対してぴしゃりと返歌をかえすあたりからしてもその印象です。
ですから、やはり、「おっとり」や「奥ゆかしい」が美女・小野小町にとっても、なかなか厳しい条件なのかな?と思います。2.3回御簾越しで会話するくらいなら隠せそうですけどね(笑)
■新しい時代の「美」の革命!?ゼネレーションZ世代のワキ毛事情はこちら↓
◆絶世の美女・小野小町は肉食女子だったってホント?
さかのぼると、646年の大化の改新の詔(みことのり)において「諸国の百姓が農月に酒を飲み、肉を食うことを禁ず」としたことが最初の肉食禁止令とされているそうです。
お肉食べちゃダメ。
「農月」とは4-9月の農繁期のことを意味します。農作物の収穫量はそのまま収税にもつながるため、気の散る娯楽や農作の時間を奪う事は禁止して、少しでも多くの農作物を生産できるようにというところからのようです。
8~9世紀には桓武天皇が数度にわたり、殺牛禁止令を発布。その後も幾度となく「肉食禁止」は発布されるが、それは何度お触れを出しても、庶民の肉食が止まなかったことの証とも言える。
小野小町は
肉食ジビエ女子だったらしい
美女・小野小町も例外ではなく、クマ、ウサギ、鹿肉、イノシシを好んでいたという話があります。肉食女子どころか、もはやジビエ女子という感じなのですが、調べたところ、イノシシはビタミンB1、鹿は鉄分を多く含むなど、獣肉は身体にいい食材らしいです。ジビエを日常食とすることで冷え性が改善されることが確認されています。
どういうことかというと。
実は、美女・小野小町は女盛りを伸ばそうとして、大変努力していたというエピソードがあるようなのです。
現代と変わらぬ
女の永遠の欲望
アンチエイジング。
平安後期の著作にみられる『玉造小町子壮衰書』のヒロイン・玉造小町は、小野小町をモデルにしたといわれ、若いときにさる貴族に愛され栄華を極めたという物語。
玉造小町の食膳は山海の珍味であふれていたが、どれも美容効果のあるものばかり。
主菜の「熊の掌」は、単に美味なだけではなく、美容効果のあるコラーゲンがたっぷりなのだ。
クマの掌はコラーゲンいっぱい♡
めっさ、
コラーゲンあるけん。
平安時代の昔から、美容にコラーゲンが注目されていたこと自体がビックリの話ですが、さらに美女・小野小町がそれを意識した食生活をしてたとなると、やはりよほど小野小町が外見的にも美人だと言われていたことがうかがえる内容でもありますね。
コラーゲンはタンパク質の一種で、老化を防ぎ、肌などの若さを維持するには重要な成分。歳をとるにつれて肌が衰えシワが増えるのは、コラーゲンの生成能力が低下するのが原因のひとつ。したがって、
歳をとればとるほど、コラーゲン成分の多いものをとることが、若さを保つ長寿法にもつながるのだ。
■また、肉食女子というと現代では別の意味もありますが、そちらに関しては下記をご覧ください↓
美女・小野小町の時代から、女性は若さを保つために日々惜しみない努力を重ねていたのですね!
◆小野小町を「絶世の美女」にしたものは紀貫之の評価!?いつも後姿なのはなぜ?
前述のように、平安時代の貴族では女性はほとんど顔を他人に見せることはなかったという話がありました。文や歌を交わすだけで、会話をするにも暗がりの中、御簾(みす)を通して、ということで、
それまでにも、口説いて口説いて口説いてようやく寝床に入れるわけで、男性は寝床に一緒に入る前には顔なんて見ていなかったんですね。
総合的な雰囲気に惚れて、猛アタック(笑)
というわけで、
殆どの人が見たことがない小野小町!
では美女・小野小町の美人伝説を生み出し、世に広めたのは一体何だったのか?気になります。
それはこの頃の歌人、紀貫之の小野小町に対する評価が第一の原因だと考えられています。
紀貫之というと「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」で始まる「土佐日記」を仮名という自由度の高い新しい表現方法にチャレンジして書いた人で、平安時代の代表的歌人でした。
なんかイケメンぽいのー♡
紀貫之は、平安中期を代表する歌人で、小野小町を絶賛して六歌仙の一人に選び、また20首近い彼女の歌を自ら編纂した古今和歌集に納めたのであった。
『古今和歌集』に小野小町の和歌を採用したのも、六歌仙に小野小町を入れたのも紀貫之だったのですね。そして紀貫之は、小野小町の歌を評して
衣通姫(そとおりひめ)と感じが似ている。
と感想を述べているくだりがあるのだそうです。
え、どういう事??
衣通姫が、
そもそも絶世の美女!
小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。(紀貫之)
衣通姫とは、日本書紀や古事記で登場する古代美人で、「和歌三神」の一人に数えられているほどの和歌の名手であったと言われているそうです。
また、あまりに美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれたほどの絶世の美女でもあったらしいのです。
衣を通って
溢れんばかりの美しさ!
紀貫之は、美女・小野小町の歌を、か弱くも美しい女心を歌った点で衣通姫の歌と同じような感じがすると感想を述べただけw つまり、小野小町の歌を評価しただけなのです。
紀貫之が古今和歌集で「小野小町は古の衣通姫(そとほりひめ。歌人、絶世の美女とされる)の流れなり」としたのが小野小町美人説の始まりだが、容姿でなく歌についての評だった。百人一首の中で小野小町だけが後ろを向いている。https://t.co/ywiCz8zL87
— 信 (@5eloNR0) March 29, 2019
小野小町の顔が
美女だとは一言もいってなかったw
だいたい、紀貫之は美女・小野小町より80年程後の時代の人間とのこと。
まとめ
「小野小町の作品は衣通姫の作品といい感じが似てるよね」
↓↓↓ が ↓↓↓
「小野小町と衣通姫(絶世の美女)似てるよね」
うん、おしい(笑)!
こうして解釈されて「小野小町、絶世の美女の噂」が広まっていったようなのです。小野小町美人伝説は尾ひれをつけて急速に広まっていくことになりました。
そういうわけで、紀貫之の書評こそが、後世の伝説を生み出す原因となっていった可能性が濃厚ということです。
ちなみに美女・小野小町の絵が後ろ向きばかりなのは、『絵にも画けない美しさ』 だからだそうです(笑)
うちの子美人でしょ?小野小町並みでしょ?www pic.twitter.com/yFeLkjmkcl
— チェシャ猫a.k.a. 猫さん (@124RREGAL) February 3, 2019
ブサイクな評判じゃなくてよかったよね(笑)
◆美女・小野小町の性別は実は男性だった??
紀貫之は当時女性が使う仮名文字を男性である紀貫之が使うという、新しいチャレンジをした人でしたが、彼が六歌仙に選んだ唯一の女性である美女・小野小町にはナント男性疑惑があるようです。
え、男なの?小町っあん。
■美女・小野小町の男性説についてはこちらに書いてありますので、よろしければどうぞ。↓
理由としては美女・小野小町は、大変美しい女性なのに、最後まで結婚しなかったとされていることからのようです。
◆世界三大美女圏外!?小野小町と美女たちの共通点
少しここからば別の切り口のお話になります。美女・小野小町といえば平安時代の有名な歌人で、日本では「世界三大美女」の1人とされています。楊貴妃、クレオパトラ、小野小町ということで。この、「日本では」というのがポイントです(笑)。
なぜなら、日本以外では「世界三大美女」に美女・小野小町は入っていないから!
じゃあ、
世界的な三大美女って?
クレオパトラ、楊貴妃、そしてヘレネーをとするのが主流だそうです。
◆美女・小野小町以外の世界三大美女は誰が決めたの?世界共通?
世界三大美女を誰が決めたのか?という情報について調べてみると、こんな知恵袋回答がありました。美女・小野小町が入っているのはやはり日本だけで、その他にも地域性があるようです。
ヘレネーと「パリスの審判」のくだりについては後述するお話との関連性が出て来る興味深いお話です。
◆ちなみに現代の世界三大美女大国は…?
少し古い情報ではありますが、2013年の米情報サイト『Manolith』によると、「特に美女が多い国ベスト15」というものが発表されています。
■1:フランス
フランス人は世界のトレンドリーダーとして見られており、一目置かれる存在です。フランス女性は、“美しい存在・セクシーな存在”として、世界中の女性から憧れられています。
■2:アルゼンチン
アルゼンチン人は混血が進み、結果としてブロンド髪の女性が多くなり、より美しい女性が多くなったとされています。
■3:スウェーデン
「チョコレートケーキは美味しい」と言うことが当たり前のように、「スウェーデンには美しい女性が多い」ことが当たり前になっているくらい、美人が多い国と考えられています。ちなみに、美人の代名詞である“ブロンド髪”の女性は、実は思いのほか多くはなく、ブロンドに染めてる女性が多いとのこと。
やはり、米情報サイトの結果ということで、だいぶ私の想像した認識とは違いましたが、アメリカでは「白人+ブロンド=美女」という概念が根強いようですね。
■4:ルーマニア
■5:オーストラリア
■6:イタリア
■7:ドイツ
■8:スペイン
■9:日本
■10:ロシア
■11:タイ
■12:イギリス
■13:レバノン
■14:ブラジル
■15:アメリカ
そんな中で我が国、日本が9位にランクインしたのはなかなかの快挙ではないかと思いますが、個人的にはブラジルやレバノン、タイよりも日本が上位というのが意外な感じでした。(すみません。)
他国から見た時には国内で見るのとは違った日本人の黒髪の神秘性の魅力などがあるのかもしれませんね。この日本が9位の内容には女優の深田恭子さんが紹介されていたということです。
それではこれを踏まえて、ざっくり世界三大美女とやらを見ていきましょう!
◆世界三大美女・クレオパトラに見る美女・小野小町との美人の類似性
まずはクレオパトラの話をサクッと見てみたいと思います。同じく絶世の美女・小野小町との類似性はあるでしょうか?
こちら、クレオパトラ(紀元前69年 – 紀元前30年8月12日)
クレオパトラは、古代エジプト、プトレマイオス朝最後のファラオ(女王)。
現在、世間一般に美女「クレオパトラ」として浸透しているのは、クレオパトラ7世のことである。「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父親の栄光」を意味する。
「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる。クレオパトラ7世自身は贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。
彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を残し、聞き入れられたとされている。 クレオパトラは後世ダンテの抒情詩『神曲』では愛欲の罪により地獄で苦しむ設定となっている。
やはり絶世の美女だけにクレオパトラも悲惨な死に方をしていました。コブラにかませて自殺!そして、ダンテの抒情詩『神曲』では愛欲の罪で地獄行きとなり苦しむ設定に。
コブラ自殺・罪人・地獄行き
死後作られた、不吉な美女を後世に言い伝えるブツの存在(ダンテの抒情詩『神曲』など)
美女・小野小町に負けないくらいのクレオパトラ晩年の悲惨な語られ方!
◆世界三大美女・中国 楊貴妃に見る美女・小野小町との美人の類似性
はい、次は楊貴妃にいってみましょう。
楊貴妃(719年 – 756年)
楊貴妃には美女・小野小町と同様に、美女以前に才女としても名前をはせていたようです。
琵琶をはじめとした音楽、舞踊に才能があったと言われています。
中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。
世界三大美人の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、才知があり琵琶を初めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄琰(父)に売られたという後世の俗説もある。
『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「高力士によって縊死(首吊り)させられた。死体は郊外に埋められた。『旧唐書』『新唐書』ともに伝に評はなく、玄宗を通した間接的なものしかない。また、楊貴妃の生前においては、同じ唐代の武則天にみられたような直接的な痛烈な批判は存在しない。
しかし楊貴妃死後、同時代の杜甫が「哀江頭」では楊貴妃の死を悼みながらも、「北征」では褒姒、妲己にたとえて強く批判している。また、白居易や陳鴻も楊貴妃を国を傾けた「尤物」(美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い)と評している。
これが、当時の士大夫の一般的評価と推測されるが、同時に『長恨歌』によって、美女伝説も生まれていたと見られる。
やはり、楊貴妃も美女・小野小町やクレオパトラと同様に悲惨な結末を迎えていました。
●楊玄琰(父)に売られた
●国を傾けた元凶の女
●縊死(首吊り)させられた。
●死後になって「尤物」呼ばわり
ここにも楊貴妃の美貌を貶める、美女・小野小町に引けを取らないなかなかの形容詞が揃っています。
死後作られた、不吉な美女を後世に言い伝えるブツの存在(「北征」『長恨歌』など)
■小野小町の晩年の伝説についてはこちら↓
◆世界三大美女・ヘレネーに見る美女・小野小町との美人の類似性
さて、ここまでだいぶ不穏な絶世の美女達ですがヘレネーはどうでしょうか?
ヘレネーはギリシャ神話に登場する女性で、元来はスパルタで信仰された樹木崇拝に関わる女神だったと言われています。ちょっとヘレネーの場合は余りにもカタカナが多くて分かりづらいので分割します(笑)。
表向きはスパルタ王テュンダレオースと王妃レーダーの娘であるが、実父はゼウスであり、実母はネメシスともされる。メネラーオスの妻となったが、イーリオス(トロイア)の王子パリスにさらわれ、トロイア戦争の原因となった。
ヘレネーは成長すると、地上で最も美しい絶世の美女となった。ヘレネーの結婚に際しては、求婚者がギリシア中から集まった。ヘレネーの義父テュンダレオースは、彼らの中からメネラーオスを選んだ。
メネラーオスの妻となったヘレネーは、イーリオスの王子パリスの訪問を受けた。パリスは美の審判の際に、アプロディーテーからヘレネーを妻にするようそそのかされていたのである。ヘレネーはパリスに魅了され、娘ヘルミオネーを捨てて、イーリオスまでついていってしまった。
メネラーオスとその兄アガメムノーンらは、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてイーリオスに攻め寄せた。元求婚者たちもトロイア戦争に参加した。
ヘレネーは
トロイア戦争の原因を作った女
(簡単に言うと…)
①たくさんの求婚者の中から選ばれたヘレネーの夫(メネラーオス)
(メネラーオスはギリシア神話の英雄で、トロイア戦争におけるギリシア側の副大将。伝説上のスパルタ王)
②ヘレネーを嫁にする為、略奪したイーリオス(トロイア)都市の王子(パリス)
③パリスに惚れて娘を置いてイリーオス(トロイア)都市までついて行ってしまった主人公ヘレネー
↓
ヘレネー奪還に向けイリーオス(トロイア)都市を攻めトロイア戦争勃発
パリスの死後は、パリスの弟のヘレノスとデーイポボスがヘレネーをめぐって争いをおこし、ヘレネーはデーイポボスの妻になることとなった。ヘレノスは弟にヘレネーを奪われたことをうらみ、戦闘に参加するのをやめて市外に逃れた。その後ヘレノスはオデュッセウスに捕まって説得され、ギリシア勢に味方することになった。ヘレノスは予言能力によりイーリオス陥落に必要な条件を教え、その滅亡を助けた。
イーリオス陥落の際、木馬の中にいたメネラーオスは、デーイポボスの館に駆けつけてデーイポボスを殺した。そしてヘレネーも殺そうとするが、恋情やみがたく殺すことができなかった。ヘレネーはメネラーオスと共にスパルタに帰った。
ヘレネーは
関わった男性を
みんな争いに巻き込み、
イーリオスを滅亡させた女
(簡単に言うと…)
④イーリオス(トロイア)都市の王子(パリス)の死去後、今度は弟のヘレノスとデーイポボスがヘレネーをめぐり争う
⑤ヘレネーはデーイポボスの妻になる
⑥ヘレノスはイーリオス(トロイア)都市を出て裏切り、ギリシア勢に加担、イーリオス(トロイア)都市を滅亡に追い込む。
⑦イーリオス(トロイア)都市陥落の際、メネラーオス(ヘレネーの最初の夫)はデーイポボス殺害し、ヘレネー奪還
後日談では、再びスパルタの王妃として、かつての求婚者たちの許しを得て平穏に暮らしたとされる。
また、別の話ではアガメムノーンの息子オレステースによって殺されたとある。オレステースは、密通の果てに夫アガメムノーンを殺した母クリュタイムネーストラーを自らの手にかけたが、叔母であるヘレネーをも「父アガメムノーンを10年に及ぶ戦争に連れ出し、家族崩壊の原因を作った不義の女」として成敗した。
ギリシア悲劇でもしばしば扱われたが、三大作家の一人エウリーピデースによる悲劇『ヘレネー』が現存している。
(簡単に言うと…)
⑧スパルタへ戻り、再びヘレネーは王妃として平穏に暮らしたという話がある。
⑨別の話では、ヘレネーはオレステースによって殺害される。
「父を10年に及ぶ戦争に連れ出し、家族崩壊の原因を作った不義の女」
(オレステースはホメーロスの叙事詩『イーリアス』の登場人物で、ギリシア軍の総大将アガメムノーンの息子。ミュケーナイの王子。殺伐とした復讐譚『オレステイア』の主人公でして描かれている。トロイア戦争をめぐる因果応報を清算する人物として描かれている人物。
ヘレネーが原因として起こったトロイア戦争によって父が戦いの為、不在が続いたことで母親が不倫をし、父を殺したことをヘレネーに逆恨み)
●スパルタ王妃に返り咲き?又は 殺害された
●10年に及ぶ戦争の原因となる疫病神
●
家族崩壊の原因を作った不義の女
死後作られた、不吉な美女を後世に言い伝えるブツの存在(エウリーピデースによる悲劇『ヘレネー』ホメーロスの叙事詩『イーリアス』アイスキュロス『オレステイア』など)
やはり、コテンパンにヘレネーの美貌を不吉なものとして貶める、美女・小野小町に負けない悲惨な語られ方をしています。
◆美女・小野小町と世界三大美女クレオパトラ・楊貴妃・ヘレネーの共通点の考察
世界三大美女と美女・小野小町に関しては、顏だけを見ると、かなりタイプの異なる顔立ちの美女たちなので誰が一番きれいか等の単純比較が無理そうですw。
無理目である理由はいくつかあるのですが、そもそも顔の種類と文化圏が違い過ぎる点に加え、それぞれ残されているものが、写真ではなく「絵」なので実物との差がどの程度あるのか分からないこと。
そして最後にこの「ヘレネー」さんに至っては、ギリシア神話に登場する女性で、樹木崇拝に関わる女神とのことでした(笑)実父はゼウス(笑)資料では最も現代人の顔立ちに近そうなんですけどね。
ちょっと
美女度合の比較には
無理がありましたね(笑)
しかし、美女・小野小町とクレオパトラ、楊貴妃、ヘレネーの話を探るうちに、美女にまつわるいくつかの以下、共通点が分かりました。
●特に晩年と最期が悲惨で凄惨
●死後にさらにひどい言われ方をしている。
●悪女・疫病神・不運などの文献が残り、伝承されている
●特別愛したと思われる男性の存在(小野小町ー在原業平、クレオパトラーアントニウス、楊貴妃ー玄宗)
■小野小町の晩年と最期についてはこちらをどうぞ↓
分かったことは、
美女って大変(笑)!
小町寺とも言われる得成寺さんには、珍しい小野小町の絵があります。狩野派が描いたこの小町はちゃんとお顔が描かれているのです。300年以上前に描かれているのにここまで色が残っているのは岩絵具を使っているからなのだそうです。小町さんのように美人になれるようにみんなで記念撮影しました。 pic.twitter.com/DKs5NToq3T
— 花れん (@karen_flower518) October 21, 2017
今回は美女・小野小町が美人かどうか、平安時代の美人の条件と、後半は世界三大美女と小野小町の共通点を探りました。ちょっと長くなりましたが最後までありがとうございました。
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