日本全国に未だに美女の代名詞として、その名をとどろかせている小野小町という女性ですが、様々な謎に包まれています。今回は大半の人の小野小町との最初の出逢いとなる『小倉百人一首』とのかかわり、取り上げられた女性歌人は他に何人いたのか?について、
また、小野小町の出身地、生誕の地が秋田以外にも候補が多くあるという話、父親や母親、位について家系関連の情報を調べていきたいと思います。
◆小野小町とは? 代表作「花の色は」を百人一首から。意味解説と英語バージョンも
おそらく小野小町の歌の中でもっとも有名な歌は百人一首に入っているこちらの歌でしょう。
色褪せていく
あたしの美貌よ。
現代語訳:桜の花の色は、春の長雨が降っている間に、むなしくも衰え色あせてしまいました。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
なかなか切ない内容です。
が、こんな風に歌ってしまう小野小町の美貌に対する自信もなかなかです(笑)
日本文学研究者・ドナルド・キーン氏の英訳した小野小町の和歌も紹介されていました。
“The flowers withered,
Their color faded away,
While meaninglessly
I spent my days in the world
And the long rains were falling.”引用元:nativecamp.net
「リズムや言葉のチョイスなども考慮した訳」とのことですが、英語になると随分「古典」感が無くなるのが不思議です。
はかなくも散りゆく桜の花と、女性として年齢と共に自分の衰えゆく美貌を重ねた現代も昔も変わらない女性独特の憂鬱を歌った一首となっています。
この歌を見ても、小野小町自身、自分の美貌についてある種の誇りを抱いていたことが分かり、それが失われようとしていることについての深い悲しみを持っていることが分かります。
一般的には最初に小野小町の名前を知るのは古文の学習が始まるか、百人一首を始めた時なのかな?と思います。私の場合は中学校から「百人一首大会」というのが全校で毎年催されていましたので、中学3年間は毎日、国語の時間に「今日の一首」が授業の中でありました。
まさか それが本日こんな形で再会するとは感無量でございます。
また、今になると当時の若い自分には共感し得なかった、「若さ」が持つ特別の艶やかさや煌めきを懐かしくも思い、あの頃よりもこの歌に込められた心情をより深く感じる自分にもなっている気がします。
◆百人一首に登場する小野小町の歌の意味に「美女」の背景。顔が美人で有名で絶世の美女と言われていた!
当時から、まず最初の小野小町の情報として「小野小町は絶世の美女だった!」というのが古文や百人一首への導入として生徒の心を引っ張るのに都合がよかったようで(特に女子校だった為)、そこは何度も授業中でも話題となりました。
へー、小野小町は
そんなに美人な人だったのかあ。
その、小野小町の「美人」「絶世の美女」もまた、小野小町の周りで数々かたられる伝説のひとつと言ってよいのではないかと思います。
百人一首の中でも、何となく小野小町の歌は10代女子の心にも言葉自体が入りやすいですし、音もどことなくキレイ。ということで、ほかの歌は忘れても、この一首だけは完全な形で覚えている人が多い気がします。(女性だけかもしれませんw)
◆小野小町の和歌が入っている『小倉百人一首』は藤原定家(権中納言定家)が選んだ秀歌撰。最初は絵かるたではなく襖用の色紙だった。
百人一首は、100人の歌人の和歌を、一人一首ずつ選んでつくった秀歌撰として、色々な異種百人一首が存在しますが、元々それらに影響を与えたのは、公家・藤原定家(権中納言定家)が京都・小倉山の山荘で選んだとされている100人の歌人の和歌でつくった秀歌撰(詞華集)です。13世紀の前半にできたと推定されています。
画像:tenki.jp
その100人100首のひとつとして小野小町が歌が選ばれたという事です。
◆小野小町の和歌がある『小倉百人一首』は『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集から選ばれている。「花のいろは」の和歌番号は何番?
藤原定家が選んだ100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集、つまり上皇や天皇の命によって編纂された歌集の中にあった短歌から選ばれています。
藤原定家が京都嵯峨野・小倉山の山荘で選んだことからその名がついた小倉百人一首は歌がるたとして現在も広く知られています。
しかし、最初から「かるた」として存在したわけではなく、元となったのは鎌倉幕府の御家人で歌人でもあった宇都宮蓮生(宇都宮頼綱/蓮生法師)が京都に別荘を建築した際に、小倉山荘の襖障子の装飾のための色紙を藤原定家(権中納言定家)へ依頼したところ、藤原定家(権中納言定家)が
「他ならぬ蓮生殿の頼みなら」
と、100人の歌人の逸品を一首ずつ選んで、年代順に色紙にしたことが始まりだったそうです。
藤原定家は息子の嫁として宇都宮蓮生の娘をもらっていた。
頼綱は娘を定家の子、為家に嫁がせており、藤原家との結び付きは強かった。宇都宮氏は頼綱ら優れた歌人を輩出。宇都宮歌壇が京都、鎌倉に並ぶ日本三大歌壇といわれるようになったのは頼綱の功績だ。ただ、現代まで名を残す功績は政治的失脚と表裏一体でもある。
引用元:sankei.com
藤原定家はこんな人。
画像:tokyo-teacher.com
襖の装飾発注が
なぜ百人一首にw
なぜそうなった?という印象があるかもしれませんが、元々依頼者の宇都宮蓮生(宇都宮頼綱/蓮生法師)も藤原定家(権中納言定家)も和歌をこよなく愛する歌人だったことによるのかもしれません。そこから現在のような絵入りのかるたとして広く親しまれるようになったのは江戸時代に木版画の技術が普及してからの事だったようです。
画像:小倉色紙
もちろん僕(藤原定家)の歌もあるよw
ってことで、最後から4番目の和歌となっています。
【現代語訳】松帆の浦の風がやんだ夕方に焼く藻塩のように、私の身はいつまで経っても来てはくれない人を想って、恋い焦がれて待っています。
97 権中納言定家
男性でもこの時代に「待つ」ってあるのですね。自分で捕まえに行って欲しいところw
さて、100首は最初の1番の天智天皇から100番の順徳院の歌に至るまで各歌に和歌番号が付けられています。番号は概ね時代が古い順番の並びとなっているようです。
画像:matome.naver.jp
小野小町は9番。
結構、歌の中では古い人!ということが分かります。
余談ですが、最近話題の「競技かるた」人気で出来たのか?現代では5月27日が「百人一首の日」に制定されているそうです。
◆『小倉百人一首』に選ばれた人の内訳は?身分差、男女差はあった?小野小町以外に女性の歌はあるの?恋の歌が多い?
『小倉百人一首』は色々な意味でとても広域の人々を対象に歌が選ばれています。2019年3月には2018年度版の女性国会議員比率が発表されていますが、その比率は10.2%でした。
画像:nippon.com
現代日本の国会議員。
女性の選出率は10.2%
世界各国の議会で構成する「列国議会同盟」は、3月8日の国際女性デーを前に、女性の議会進出に関するレポートの2018年版を公表した。それによると、日本の女性国会議員比率(衆院)は10.2%で、193カ国中165位だった。
引用元:nippon.com
平安時代の『小倉百人一首』ではどんな人々の歌が選ばれ、どのくらいの割合で女性歌人が選ばれていたのでしょうか?
◆小倉百人一首は「万葉の歌人」によるもの
『小倉百人一首』は天皇、貴族、防人、農民、男性、女性などあらゆる階層の民がその身分の差に関係なく選ばれ、歌が収められています。
画像:天智天皇
●天皇7名
●親王1名
●公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)
●下級貴族28名
●僧侶12名
●詳細不明3名(柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸)
画像:清少納言
女性選出率は 21%
●天皇1名
●内親王1名
●女房17名
●公卿の母2名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)
もともと選ばれた時代が『万葉集』の時代の流れで、まだ身分差についてはおおらかなところがあり、「自分の心を偽らずに詠む」ということが大事にされているのが特徴であるようです。長いものに巻かれるという価値観とは少なくとも「和歌」に関しては無縁だったようです。
こうしたことから、この時代の文学、特に『源氏物語』に影響を受けている与謝野晶子さんや瀬戸内寂聴さんなどは、「心のうちを偽らない表現」という信念で描かれている作品を後世に生み出しています。
◆小倉百人一首は小野小町以外にも「女性歌人の全盛期」紫式部、清少納言、泉式部ほか全21人21首を紹介 画像
平安時代の中期になると、宮廷内の貴族文化は全盛期となり、女性歌人もたくさん登場しました。中でも清少納言と紫式部は女性による文学の世界を広げた立役者となっています。百人一首にも登場しますが清少納言は『枕草子』、紫式部は『源氏物語』を後世に残しています。
画像:紫式部
『小倉百人一首』女流歌人21人による21首の和歌は次の通りです。
【現代語訳】いつの間にか春が過ぎて夏が来たようだ。夏になると真っ白な衣を干すという天の香具山にあのように衣が翻っています。
2 持統天皇
【現代語訳】桜の花の色は、春の長雨が降っている間に、むなしくも衰え色あせてしまいました。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
9 小野小町
【現代語訳】難波潟に生えている葦の、その短い節と節の間のように短い間にも、あなたに逢わずにこの世を過ごせと言うのでしょうか。
19 伊勢
画像:伊勢
【現代語訳】あなたに忘れられる我が身のことは何とも思わないけれど、心変わりしないと誓ったあなたの命が、誓いを破った罰で失われることが勿体ないとは思います。
38 右近
【現代語訳】あなたが来ないと嘆きながら、一人で寝る夜が明けるまでの間は、どれほど長いものなのか、あなたは知っているのでしょうか(知らないでしょうね)
53 右大将道綱母
【現代語訳】あなたが私を「いつまでも忘れない」というのが、その遠い将来まで、変わらないというのは難しいことでしょう、ですからこうして言葉を聞いた今日で最期の命だったらいいのに。
54 儀同三司母
画像:儀同三司母
【現代語訳】もうすぐ私はこの世から居なくなってしまうので、この人生の思い出にもう一度あなたにお逢いしたいものです。
56 和泉式部
【現代語訳】せっかく久々に再会したというのに、昔見た貴方の面影かどうかも見分けがつかない間に、まるで雲にかくれた夜の月ではないけれど、あわただしく帰ってしまったあの人よ。
57 紫式部
【現代語訳】有馬山にほど近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音をたてます。そうですよ、どうしてあなたのことを忘れることがありましょうか。
58 大弐三位
画像:大弐三位
【現代語訳】あなたが来ないと知っていたら、ためらわずに寝てしまったのに、あなたをお待ちして、とうとう夜が更けて西の空に傾くほどの月を見てしまいました。
59 赤染衛門
【現代語訳】大江山を越え、生野を通って行く道のりはとても遠いので、母の和泉式部がいる天橋立へ行ったことはまだありませんし、母からの手紙もまだ見ていません。
60 小式部内侍
【現代語訳】昔の奈良の都に咲いた八重桜が、今日はこの九重の宮中にて美しく咲き誇っています。
61 伊勢大輔
画像:伊勢大輔
【現代語訳】夜が深いうちに、鶏の鳴き真似をしてだまそうとしても、函谷関で通行が許されたのとは異なって、私があなたと逢うという、この逢坂の関は、決して通ることは許しません。(絶対に逢いません)
62 清少納言
【現代語訳】うらみにうらんで、もはやうらむ気力すら失って、泣き続けた涙で乾くひまもない袖さえ朽ちてボロボロになるのが惜しく思われるのに、さらに恋の悪い評判を立てられてきっと朽ちてしまうであろう私の名が惜しいです。
65 相模
画像:相模
【現代語訳】短い春の夜の夢のようにはかない、あなたの腕枕にお借りすることによって、つまらない浮名(うきな)が立てば惜しいではありませんか。
67 周防内侍
【現代語訳】評判の高い高師の浜にむなしく寄せては返す波にはかかっては袖が濡れて大変ですから、かからないようにします(浮気者のあなたを言葉を心に掛けると涙で袖を濡らすことになるといけないですから)
72 祐子内親王家紀伊
【現代語訳】私に対するあなたのお心が長く続くかも分からず、お逢いして別れた今朝の私の心は、黒髪のように乱れて思い悩むばかりです。
80 待賢門院堀河
画像:待賢門院堀河
【現代語訳】難波に生えている葦(あし)の、その刈り根の一節(ひとよ)のように短い一夜をともに過ごしたせいで、澪標(みおつくし)ではないけれど、〔難波の遊女は〕この身をささげつくして(旅人を)恋をし続けなければならないのでしょうか。
88 皇嘉門院別当
【現代語訳】私の命よ、絶えてしまうならば絶えてしまえ。生き長らえていたら、恋心を胸の内に秘める力が弱まって、秘めていられなくなってしまうと困るから。
89 式子内親王
【現代語訳】血の涙に濡れて色が変わってしまった私の袖をあなたにお見せしたいものです。雄島の海人の袖さえ、いくら濡れても色は変わらないでしょうに。
90 殷富門院大輔
画像:殷富門院大輔
【現代語訳】私の袖は、干潮の時でも海に沈んで見えない沖の石のように、人は誰も知らないけれど、涙にぬれて乾くひまもないのです。
92 二条院讃岐
とりあえず、
古典レディースも
恋に悩みまくり(笑)
■恋の悩みの深かった与謝野晶子さんのお話はこちら↓
◆小野小町を含める『百人一首』の女流歌人21人の和歌の感想
先に挙げた21人21首の和歌をよんでみると、・・・少なくとも『百人一首』の中では小野小町(9番)は自分の美貌の事しか興味がないのでマイウェイ(笑)という印象を抱きます。
右近(38番)は「女の念」で相手の男性を恨み殺してしまいそう(笑)、儀同三司母(54番)は「幸せを恐れるものは幸せになれない。」の典型・・・と現代と全く変わらない揺れる女心が表れています。
画像:右近
『うらみ・ます』
―中島みゆき
画像:https://pc.video.dmkt-sp.jp/ep/10051658
さらに和泉式部(56番)一生のお願い、紫式部(57番)は片想いで恋に恋している感じで、赤染衛門(59番)は、いくら何でも待ちすぎ、
清少納言(62番)は意固地で頑固。相模(65番)はこれまた恨みすぎ(笑)周防内侍(67番)は人目を気にしすぎ。
殷富門院大輔(90番)はツラいのは分かるけど重すぎ・・・など、人の恋であれば、その揺れ動く感情を起こす「恋の罠」を冷静に見ることができます。
冷静にみてみると
どう考えても、恋は病(笑)
この中でも特記事項としては、祐子内親王家紀伊(72番)の歌は当時ご本人70歳くらい、相手の男性は29歳前後だったと言われています。とても艶っぽく大人の印象で魅力的です。
「かけじや袖の ぬれもこそすれ」
やっぱりちょっと、さすがの「大人の女」感です。
おおお
こうして改めて、各歌をよんでみることによって、
平安の世でも、女性というのは「クヨクヨし」「涙を流し」「恨み」「忘れられず」「待ち続け」「後ろ髪引かれる」という(笑)。もともとの女性「性」のサガとして「メンヘラ」というものは女性に組み込まれている性質なのだと思わされます(笑)。そしてそれでも恋をするというのですから…。
女性がぐらぐらするのは
生物として大事な仕事の可能性(笑)。
そんなものを感じます。クヨクヨすることをクヨクヨしても仕方ないので、女性というものは昔からそういうものだと思って生きていくというのもいいかもしれません。(もっと若い頃に知りたかったw)
◆小倉百人一首には「秋の歌」と「恋の歌」が多い?
『小倉百人一首』に取り上げられた歌は四季折々の和歌が混ざっていますが、圧倒的に多い季節は「秋」となっています。内訳としては春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首となっています。
日本は昔から秋が人気。
画像:国立国会図書館
また、歌のテーマとしての内訳は、離別の歌が1首、旅の歌が4首、恋の歌が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首ということで、半分近くが「恋の歌」となっています。
圧倒的に恋の歌。
小野小町のものとされる和歌は『古今和歌集』『後撰和歌集』等に収められています。残された作品からは小野小町が中国文学に詳しく、教養のある女性だったことが推測されています。
◆小野小町のプロフィールや経歴は謎だらけ・・・
諸説ありますが、早いうちに申し上げておくと小野小町の現段階のプロフィールはこうです。
画像:小野小町
出生地:不明
生年月日:不明
死亡年月日:不明
父親:不明
母親:不明
経歴:「六歌仙」「三十六歌仙」「女房三十六歌仙」の一人。平安時代前期9世紀頃の女流歌人。ともかく謎だらけの人。絶世の美女と名高い。
このプロフィールを少しでも埋めるべく、ここからは迫っていきたいと思います。
◆小町の出身地(生誕の地)はやっぱり「あきたこまち」の秋田が出生地ってことなの?
お米ブランドとしても名前が定着してしまった「あきたこまち」ですが、それなら小野小町の生誕地は秋田県なんだろうな、と私も思っていました(笑)
実は「あきたこまち」の名称の由来ともいえる秋田県湯沢市小野は数ある小野小町生誕地の中の可能性のひとつに過ぎないということです。
生誕地について、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無い。
コメを制するなんて、
日本人ならではだと感心(笑)。
お米食べると優しい気持ちになれるよね。
平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。
この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。
卑弥呼の墓状態ですね。
余談ですが、出羽国府を移したとされる城輪柵(山形県酒田市)は「おしん」の二度目の奉公先です。
生誕地を含め、
小野小町の神秘性を
高めようとする動きがあった。
東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。
当時から名前を轟かせるほどの美人との情報が回った、ということですね。全国美女データの共有って感じなのですが(笑)、源氏物語の源氏も「美女らしい」って噂だけでわざわざ見たこともない女性に会いに行ってますからね。今も昔も、男性が考えることって一緒ですね。
ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小野小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。
その中でもかなり小野小町の生誕地として有力な2箇所を紹介します。
◆小野小町生誕の地 有力候補①【秋田県湯沢市小野】説ー小野良真が父親?深草少将との悲恋の地の候補でもある。美人証明書が貰える!twitter画像
秋田県湯沢市には「小野小町の郷(さと)」というのがあります。もう、「小野小町生誕の地」!って言い切っていますね(笑)
小野小町は父親が誰であるかがよく分かっていないため、候補者の一人である小野良真(よしざね)にスポットを当て、彼が務めていたのが出羽郡司だったことから、小野小町の生誕地としてこの地が挙がったようです。
小野良真の娘(小野小町?)は現在の秋田県湯沢市小野字桐木田(きりきた)という場所で生まれたという説があったためです。
小野小町は13歳までこの土地で過ごし、36歳ころにまた戻ってきたというお話になっています。
さらに、小野小町の生誕地として有力な候補地となった理由としては湯沢市が「深草少将の百夜通い」伝承の地ともされていることからのようです。ただ、こちらに関しても京都市更科区小野御霊町の説と諸説あるようです。
■小野小町にベタ惚れしてしまった深草少将という男性が、百日前後小野小町の元へ通い詰めます。このお話は小野小町と深草少将の悲恋の伝説のところで詳しく書きました。
つまり、秋田県湯沢市小野が小野小町の生誕地と言われているのは…以下の理由
★湯沢市が小野小町の有名な伝説の一つである「深草少将の百夜通い」伝承の地として有力な候補地である為
「美人証明書」
というものを発行しているらしい湯沢w
美人証明書。
秋田県 湯沢市にある “道の駅 おがち” にて
誰でも買えます。 pic.twitter.com/Zyc0yvWUMv— ケム子 (@kemurdou) October 25, 2015
増税前に発行料金が324円という情報があったので、現在は330円かもしれません。
あきたこまちがあるから、ではなかったのですね!
◆「秋田県湯沢市小野」 にある小野小町ゆかりの地(生誕地)と小町まつり ツイッター画像
そういうわけで、秋田県湯沢市内には小野小町ゆかりの地がたくさんあるようです。お米まで秋田で抑えたので頑張ってほしいですね(笑)村おこしもかねて盛り上がっているようです。
●桐木田の井戸(きりきたのいど)…小町誕生の地
●岩屋堂(いわやどう)…小町が晩年暮らした洞窟
●向野寺(こうやじ)…小町自作の小町像
【小町まつり】6月に行われる小町まつりでは市内から選ばれた七人の小町娘が市女笠姿で登場し、小野小町が詠んだ七首の和歌を朗詠し奉納するそうです。また、前日には小町堂がライトアップされ、幻想的な宵祭りが行われるのだそうです。小野小町の生誕地らしいお祭りですね。
小野小町だし、
ミスコンもやっぱり
やっとかなきゃね
というころで毎年、この小野小町の生誕地ではその年の「ミス小野小町」が選ばれているそうです。上の写真はは平成30年度のミス小野小町(秋田)です。さすがに美人でかわいいですね。
但し、ここについても京都市山科区小野随心院で開催されるミスコンと競合してるフシがあり、その点では印象からすると京都の方のミスコンの方がどうも盛り上がっている様子ではあります。。。。
京都にもミス小野小町があるのか!京都と秋田に同じミスコンあったら、確実に秋田の分が悪いわ…。
— ままっく (@mamak_bg) November 25, 2011
京都のミス小野小町? 小野小町って秋田のイメージがあるけど・・。
— faasti (@faastistylee) November 25, 2011
やはり、皆考える事は一緒のようです(笑)。コメを制しただけあって、小野小町はやはり秋田のイメージが強いようですね(笑)
◆小野小町生誕の地 有力候補②【福島県小野町(おのまち)】説―小野篁が父親? 母親もお棺様として有名な地域 画像
福島県小野町に関しても小野小町の生誕の地として候補に挙がっています。こちらも地名に「小野」が入っていますね。
福島県小野町も、同じように堂々と小野小町の生誕の碑まであります(笑)。
小野小町の生誕地取り合い状態ww
福島県小野町では小野小町の父親として有力視されているのは小野篁(たかむら)という人で平安時代の公卿であり、歌人・漢詩人です。
画像:小野篁
なかなか
カッコいいお方。
前述の秋田県の時に父親とされていた小野良真(よしざね)でしたが、彼は小野篁の息子です。ですから、小野小町の生誕地の謎は、小野篁がお爺ちゃんなのか、父親なのかの問題ということになります。
小野篁はこの地を繁栄させるべく都から赴任してきており小野町の名称も小野篁が善政を行った事を地元の人達が忘れない為つけたとも言われています・・・。
この土地の名称は小野篁がこの地を繁栄させた象徴なのですね。
小野篁は仕えていた美女の愛子(めづらこ)と一緒になっています。
愛子は篁に見初められ、二人の間に玉のように美しい姫が誕生しました。
小野篁と美女の愛子との間に生まれた子が幼名を比古姫といって、後の小野小町ではないかとされています。(福島県小野町では「断定型」で書かれています)そのため、小野小町の生誕地として有力視されているわけです。
その後、小野篁は宮中の要請で戻らなくてはならず、6歳になった可愛らしい小野小町を連れて都に帰ったされています。
篁は美しい比古姫を京の都で育てようと、 連れて行くことにしました。しかし愛子はこの地に残ることになったのです。
篁と比古姫がこの地を離れてから愛子は、ずっと二人の帰りを待っていました・・・。
よ、嫁おいてくなよ(笑)!
という感じなんですが、小野篁にはその他にも、京都の珍皇寺(ちんこうじ)の井戸を通って、この世と地獄を行き来し閻魔大王にも使えていたという逸話を持つことでも有名なのだそうです。
そんな怖そうな交流がある小野篁みたいな人が旦那だったら、怖くて奥さんも逆らえないかもしれないですね。
小野小町のお母さんにあたる人がそもそも美女ということと、京都にも話が繋がる内容なので、確かに福島県小野町が小野小町の生誕地として有力候補に残るのも頷けますね。
鬼石(小野町)案内板によると小野小町の母親、愛子は、殿上人となってしまった夫、小野篁の帰る日はないと諦めつつも、必ず帰ると約束した別れの日の言葉を信じ、年経る毎に遥かなる夫と吾子比古姫(小野小町)の身の上に思いを馳せながら、愛子の憂いは募るばかりだったといいます。
小野小町のお母さんかわいそう・・・。
月の明るいい夜など侍女を伴い丘の頂上の大石に佇ずみはるか篁山(矢大臣山)を眺めては思いに沈んだ。
なんだか、社会的には偉い人のようですが、小野篁がとても悪い人に思えてきました(笑)。
ここでは小野小町より、
母・愛子の方が儚かった(涙)
●小野篁館…小野篁が住んだといわれる館跡
●愛子墓碑…小野小町の母親とされる愛子の墓
●鬼石…愛子に悪戯をした鬼を制裁して改心させた石
●珍敷御前(愛子)神社…小野小町の母親を祀った神社
●小町の湯…特にエピソードがあるわけではなさそうです。
しかし、この地で
小野小町の母は「お館様」として祀られていた!
ただ、印象からすると、この土地に関しては仮に小野小町の生誕地であったとしても6歳でこの地を去っている小野小町よりも小野小町の母親とされている愛子さんの方がお館様として敬愛されていたり、助けてもらったり、祀られたりと大事にされてきている印象ですね。
ちょっとホッとしましたね。
つまり、福島県小野町が小野小町の生誕地と言われているのは…以下の理由
(※秋田県の説では小野篁は祖父と言われている)
◆ミス小野小町コンテスト応募で有名な「京都府京都市山科区小野」は?生誕の地ではない?
現在「小野小町のミスコン」で最も有名な京都市山科区小野
こちらは小野小町の生誕地候補ではないのでしょうか?
京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小野小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。
こちらは小野小町が晩年に暮らした土地と言われている場所だったのですね!
補陀洛寺(小町寺)…小野小町終焉の地と伝える。
959年(天徳3)の創建。小さな本堂に平安時代作の阿弥陀三尊像と並び小町老衰像を安置。境内に小町供養塔、なきがらから生えたというススキ、姿見の井戸などの遺跡がある。1984年(昭和59)に楊柳観音堂が完成。天台宗。建立:959(天徳3)年
小町老衰像があるそうです…。
隋心院…ここは小野小町邸跡といわれている。
随心院(ずいしんいん・ずいしんにん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。
隨心院の中には小野小町の晩年の姿とされている「卒塔婆小町像」や、文塚、化粧の井戸など、小野小町ゆかりの遺跡が残っているそうです。
小野小町ゆかりの寺・隋心院
小野小町作と伝える文張地蔵や化粧井戸、文塚などがある。唐棣(はねず)の梅があり、3月最終日曜に‘はねず踊り’と観梅の催し。梅の名所。真言宗。
そのうち髄心院がとても面白い活動をされているのでご紹介します。
◆小野小町ゆかりの寺 隨心院のミス小野小町選考会がアツイ!ライトアップ
毎年11月になると小町祭開白法会、小町祭、夜間特別拝観に続き、随心院ミス小野小町選考会が行われるそうです。ライトアップも素敵ですね。
小町祭期間中の大きなイベントといえば「ミス小野小町コンテスト」です! “ミスコン”で、世界三大美女に数えられる小野小町ゆかりのお寺だけに、美しさとともに聡明さを持つ「現代の小野小町」を選出しています。
審査基準は
「美心(びじん)」とのこと。
例年全国から70名以上の応募があるそうで、最終選考に残った10名のなかから、栄えある「ミス小野小町」が決定します。ライトアップに訪れた次の日がコンテストになります。
おーあでやか~
なかなかさすがに皆さんかわいらしいですね。
芸能界を目指している女性もたくさん応募してくるようです。
画像:クラシいち髪
2018年のミス小野小町も無事決まったようです。
◆小野小町ゆかりの寺 隨心院女性のための終の棲家・永代供養「小町堂」
個人的には隨心院にある「小町堂」の方がとても気になりました(笑)私の希望は海に散骨か、樹木葬か、こういった感じがいいな~と思ってます(笑)
女性のための納骨堂
女性のための納骨堂「小町堂」 991年の開創以来、一千余年の法灯を護り続けた隨心院がこの先も貴女を護り続けてまいります。
当山は、平安時代の絶世の美女・小野小町が晩年を過ごした地として有名であります。その小野小町の美貌と才能にあやかって、女性の参拝者が後を絶ちません。
昨今のライフスタイルの変化によって、目まぐるしい社会の変動に柔軟に対応していくためには個人としてその荒波に耐えるのではなく、人と人が手を取り合ってお互いを支えていかなければなりません。
このたび、当山にて建立されました女性のための納骨堂「小町堂」は女性の終の棲家としてだけではなく、生前より隨心院とご縁を持っていただき、様々な活動を通して、より充実した生活の一助を担うことができるものと信じております。
合掌
これからの時代に、とても人気が出そうな納骨堂ですね。
■新しい終の棲家?自然葬・散骨芸能人はこちら↓
◆小野小町の家系についての情報!父親は誰?位は高かったの?
小野小町の家系だという可能性のある人物について辿っていきたいと思います。
系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小野小町の生没年は天長2年(825年) – 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) – 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。
ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。
血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。
さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている。
小野小町の位が高くなかったことによる仁明天皇との悲恋の歌もあるようです。
画像:仁明天皇
いずれにしても小野小町はあまり位が高いところの女性ではなかったようです。それでも名を残し、歌を残し、存在感を残した小野小町はなおさらすごいですね。
◆小野小町の推定の経歴プロフィール(今回の調査後まとめ)
最初の小野小町プロフィールに私が調べた内容を加筆していきたいと思います。
画像:https://blogs.yahoo.co.jp/kj410goto_globe/10166345.html
①小野小町(おのの こまち)??本名ではない可能性大
②小野吉子?(仁明天皇の更衣)※更衣…位の低い夫人
③小野吉子の妹?
●幼名>
比古姫?(愛子の娘だった場合)
※「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある。
●生誕の地>
不明 全国に生誕の地を名乗る土地アリ。有力なのは秋田県湯沢市、福島県小野町
①小野小町は『古今和歌集』に出羽郡司娘と書かれている。編者で作者の紀貫之は、小町が生きていた時代の人です。『古今和歌集』のコメントが後世に加えられたものでなければ、一応、信用する事ができます。
②系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
●生年月日>
不明
①西暦833年~850年
②天長2年(825年) – 昌泰3年(900年)
●父親>
不明
①系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
②小野篁自身の娘
③あるいは小野滝雄の娘
●母親>
不明 小野小町が小野篁の娘であれば、母親は愛子であることが濃厚。
●死亡年月日>
不明 晩年は京都市山科区小野周辺にいたようだ。
ようやく確実なものはなくても、ほわ~んと分かるような気がしてきましたね。
画像:https://4travel.jp/travelogue/10738387
ちなみに、京都の随心院で配られている系統図では小野小町は小野良真の娘として紹介されているようです。
◆小野小町の晩年についてちょこっと。
小野小町の晩年は、またこれがミステリーなことになっています。美人には悪意とミステリーがついて回るんですかね(笑)たいへんだなあと思います。
画像:https://4travel.jp/travelogue/10738387
美女は結構たいへんみたいだ。
その一方、小野小町は長命であったと言われているが、その晩年を描いたエピソードは乞食となって落ちぶれた、地方各地を放浪して行き倒れになったなど、美人と謳われた全盛期とは一転して不遇なものが多い。
その反面、故郷の東北に帰って静かに隠棲した、百夜通いで命を落とした少将を弔って90歳近くまで生きたなど、穏やかな晩年を描いた話も少なくない。
色々諸説ありますが、小野小町に関わるエピソードをいくつかご紹介できればと思います。出来れば幸せな感じだといいのですが・・・。ちなみに小野小町のお墓についても出生地同様日本全国に候補地があります(笑)
晩年についてのお話は改めて別途ページを作りました。
■小野小町の壮絶な晩年についてはこちら↓
今回わかったことは
小野小町は謎だらけ(笑)
今回、調べていく上で、政治的に失墜しても、ちゃんと別の豊かさで楽しそうに生きている宇都宮蓮生(宇都宮頼綱/蓮生法師)さんや、恋にぐらつく日本人女性は昔から変わらない姿である、ということが個人的には心に強く残りました。(小野小町の事じゃないじゃないかw)
ではまた次回、お会いしましょう♪
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